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米山隆一氏「復興より移住」の気味悪さ


加藤文宏


米山議員は何を語ったのか

 能登半島地震で被災者の救援が難航したとき、立憲民主党の米山隆一議員は次のようにX/Twitterで語った。
 「地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択することを組織的に行うべきだ。現在の日本の人口動態で、その全てを旧に復することはできません」
 「維持が困難だった集落で地震で甚大な被害を受けたところは、多額のお金で復興して、結果被災者が年老いた数十年後に廃村になるより、被災者も若いうちに移住を考慮すべき」
 筆者は米山氏からブロックされているため前記した発言は産経新聞の記事から引用した。
 当事者が被災して議論の担い手になれない今、当事者抜きで「できません」「すべき」と断定する発言の、なにが適切ではないかを当記事では論じる。


移住で発生した深刻な問題

 米山氏が語った「移住」は、平時の引越しとは事情が違う。
 しかも「復興ではなく」とする以上、被災したまま放棄する場所ができる前提であり、元通りの生活をあきらめて住み慣れた場所から移住を強いる主張だ。
 こうして、住み慣れた場所を離れることで何が生じるのか。
 高齢者を介護した経験がある者なら、自宅介護が困難になって親族を施設に預けざるを得なくなったときの光景がよみがえるかもしれない。親族のためである以上に本人のためであっても、少なからぬ数の高齢者が施設への入居に抵抗し、施設に「移住」したことで心身のバランスを崩して急速に衰えていく人がいる。
 当事者以外が混乱に乗じて放棄と移住を強いる言説は、東日本大震災でも生じた。
 東日本大震災では避難区域に指定された地域だけでなく、さまざまな理由で老若男女が被災地から避難しなければならなかった。関東へ避難した一人が、このnoteアカウントをつくって管理担当だった原岡で、避難と割り切っていた時期だけでなく定住に移行してからも苦労が絶えなかった。原岡の知人は新潟県へ避難したが、心のバランスを崩したところへ放射線デマが追い討ちをかけて自死している。福島県内でも、避難暮らしが長期化するなか「震災関連死」で亡くなる例が多かった。
 人はパンのみにて生くるものにあらず、だ。強制に限らず、半ば強制された生活環境の変化でも、社会的、経済的な難題だけでなく精神的な困難を突きつけてくるものだ。前途洋々たる気分で引っ越した人でさえ、がっくり肩を落とすことは珍しくない。


新潟5区で移住論を演説できるのか

 筆者のもとへ能登半島地震で被災した住民から安否の知らせが入ったことは、会員限定記事で紹介した通りだ。この人物が米山氏らの放棄移住論を目にした。彼は、「米山隆一は自分の選挙区で同じことを言えるのか。選挙公約の一番目に入れられるのか」と怒りをあらわにしている。

石川県・新潟県の過疎地

 米山氏の選挙区は新潟5区で、そのほとんどが「全部過疎市町村」か「一部過疎地域を有する市町村」に該当する。しかも新潟県全体で過疎化が進行している。
 米山氏は「粟島浦村は今何とかなっていますから(2024年1月11日午前9:23のツイート)」と言う。しかし、彼の持論では現在の日本の人口動態から過疎の進行は止まらないうえ、打つ手がなく、粟島浦村に限らず遅かれ早かれどうにもならなくなるのではないか。
 こうなると──新潟県の大部分が過疎化している。新たなインフラ整備を諦めるべき。お金をかけて補修するのは無駄。道路や水道が壊滅的な状態になる前に、いま暮らしている地域を放棄して、過疎化していない場所へ移住すべき。──と、新潟県民に伝えておくことが誠意だろう。
 また新潟市西区周辺は、今回の地震で液状化現象が発生して地盤沈下した。同区周辺は地盤の特性から液状化を避けがたく、1964年の新潟地震では小針地区において地下水が噴出した地割れに女性が飲み込まれ死亡している。西区は過疎化こそしていないが、このように何度も甚大な被害が出ているなら、今回液状化した区域は復興させずに住民を移住させたほうがよくなりはしないか。
 だが米山氏は地元へは呼びかけず、被災地へ向かって放棄移住論をぶつけた。平時ならいざしらず、とてつもない被害を出した被災地と、被害を被った人々に対して、土地と結びついた生活を放棄しろと当事者ですらない米山氏が言うのは、実に気味が悪いと言わざるを得ない。


ロスジェネ対策にも通じる他人事感

 人口が減少した地域をどうすべきか。真摯に議論することまで暴論とする気は毛頭ない。被災者と自治体が落ち着いたとき、行く末をしっかり考えるだろうから、まずは任せればよい。気味が悪いのは、当事者をほったらかしにして口角泡を飛ばす勢いで放棄と移住を語る神経だ。
 また、過密地域も課題が大きい。東京都の23区内が自然災害や何らかの有事で被災したなら、救援も避難も桁外れの難しさに直面するのはまちがいない。東日本大震災では停電しただけで帰宅難民が溢れて大混乱した。幹線道路から一歩入れば道は細く不規則になる。膨大な人口に避難所と食糧と水と便所を提供しなければならない。
 23区民と企業に都市部での生活や活動、再開発を放棄させて、他の地域へ移住させて、減らしたあとの人口に合わせてインフラを維持するのが、米山説に通じる合理性というものだろう。放棄移住論者は、23区民や他の自治体の過密地域で暮らす人々に戦時中の疎開さながら田舎へ行けと言えるだろうか、自らが追い出される覚悟はあるのだろうか。
 どこに住んでいようと、バビロン捕囚のごとき政策を易々と受け入れられる人は少ないはずだ。他人事であるから、その人たちの人生、財産、希望や意思を無視して床屋談義ができるのだ。
 放棄移住論が財務省的緊縮論か否か別として、緊縮というものはどこまでも他人事であり、何か事が起こればお金をかけずに捨てさって荒廃するにまかせて「本体を守る」と言い張っているうちに、本体も侵食されて朽ちていく。産業から学術に至るまで、どうなったか今こそ振り返るべきだ。
 能登半島地震のまえに、そもそもロスジェネ世代が社会から放棄されたではないか。こんなことを左派、リベラルといった立場の人が正しさであるかのように語る姿はグロテスクにもほどがある。
 彼らは、あなたが打ちひしがれているとき鞭打って蹴落とすだけで、助けてはくれない。

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