見出し画像

TOGENKYO論評


こんにちは、DAです。
こんばんは。


今回の記事は、#わたしのTOGENKYO 企画
season1『TOGENKYO』のトップバッターとして、書かせていただきます!

タイヘン!責任重大だわ!

ということで、
いつもの記事よりも、ちゃんと本腰を入れて頑張ろうかな?
とか思ったりもしたのですが、
いつもと違うことをしてね?コケてもカッコ悪いかなと思うので、
いつも通り、でもいつもよりちょっぴり丁寧に、紡いでいければと思いますので、

よろしくお願いします。
今回とて、長い旅になるかと思いますので、

よろしくお願いします。



ではでは早速、『TOGENKYO論評』始めていきましょう!


まず、この『TOGENKYO』という楽曲について、少し紹介します。
『TOGENKYO』は、フレデリックが2017年にリリースした『TOGENKYO』というミニアルバムの1曲目、表題曲として収録された楽曲です。
このミニアルバムを引っさげての『〇〇のTOGENKYO』ツアーが開催され、そのファイナルが『KOKYOのTOGENKYO』こと、神戸ワールド記念ホールでのワンマンでした。

『TOGENKYO』は、リードトラックということもあり、各所インタビューにて、フレデリックのメンバーがこの曲の歌詞についてお話しされているので、
今回は、その一部を抜粋して、

『TOGENKYO』の歌詞が、どのようにしてできたか?

という点をまず最初に考えていきましょう。


健司さんは、『TOGENKYO』について、

『タイトルからのイメージって、フレデリックが提示する桃源郷、理想のことを歌っているというか、聴いているだけで桃源郷に連れて行ってくれるような想像ができると思います。でも、この曲の歌詞って、それを作るまでの過程を歌っていて、「こういう気持ちで桃源郷を生み出したいと思っているんですよ」ということを歌っていると思っています。(『フレデリック、ミニアルバム『TOGENKYO』は新たな一歩を踏み出す一枚に。』EMTG MUSIC より引用)』

と仰っています。また、同インタビュー内にて、

『この曲には康司の気持ちがはっきり出てるんですよ。でも、タイトルからは全然想像できないことを歌ってるんですね。だから、自分がこの楽曲を底上げしなきゃいけないと思いました。康司の気持ちを汲み取るのが自分だし、ボーカリストとして伝えられるのは自分だけだから。』

とも、仰っていました。
だからこそ、
『康司くんの意思がはっきりとありつつ、最終的には健司くんの歌になっている』
という武さんの言葉にも、深く頷けるものがあります。

では、作詞者である康司さんが語った
『TOGENKYO』の歌詞がどのようにできたか?
という点について、インタビューを見てみましょう。


『(「TOGENKYO」の歌詞はどのように出来上がっていったのでしょうか?という問いに対して)
すんなりと素直に「こうだな」と思うことが書けました。伝えたいと思ったことがちゃんと言葉になったので、最終的に出来たときは凄くスッキリしました。桃源郷って、手には掴めないというところがあると思うんです。今まで見たことのないバンドになりたいという思いや、そういうところにリンクする部分もあったりして、言葉自体が歌として一緒に出てきたのですが、思うことが自然と形になった感じです。(『4人の大きな決断、フレデリック「TOGENKYO」で見えた未来』MusicVoice より引用)』

『今回の作品では素直さを考えて書いたんです。何かフィルターを通して作っていくというよりも、思ったことをそのまま伝えていこうって。もともと僕は幻想的なことを妄想するほうが好きなタイプなので、インディーズの頃からそういう曲を作り続けてきたんですけど、それがいまの時代はバカにされやすいというか……ちょっと汚い言葉かもしれないですけど。現実的な人が多くて、そういう人たちと戦ってる気持ちがあるんです。それを率直に書いたのが「TOGENKYO」ですね。(『フレデリック、ミニアルバム『TOGENKYO』は新たな一歩を踏み出す一枚に。』EMTG MUSIC より引用)』


また、この康司さんの言葉について、インタビュアーの方が、
「歌詞を見て、健司くんはパッと康司くんの真意がわかったんですか?」
と問うたことに対し、健司さんは

『痛いぐらいにわかりました。もともと康司はこういうことを書く人ではないと思うんです。でも、自分のなかに絶対に持ってる要素なんですよね。それをいま歌詞として書くってことが、バンドとしてのターニングポイントになるんだろうなっていうのは感じました。』

と仰っていました。


フレデリックが、ここまで歌詞に関する明確な意図を、言葉として伝えてくれることが、個人的には、珍しいな?と思いました。

『大切に聴いてほしい』

というメッセージが、痛いくらいに伝わってくる気がします。

このインタビューの内容、ちょっと頭の片隅に置いておいてもらえると、後々いろいろあると思いますので…何卒……。


康司さんの
『意図的な素直さ』
を以って書かれたこの曲を、これから紐解いていくわけですが、

そもそも、どうしてこの曲は
『TOGENKYO』
と名付けられたのか?

という点から、考えていきましょう。
(アレ?これ読んだことあるな?って思った方、鋭い。その着眼点は素晴らしいので、何も言わず読み飛ばして頂いても構いませんよ)


『TOGENKYO』とは、もちろん『桃源郷』のことですよね?

『桃源郷』によく似た言葉に『ユートピア』という言葉があります。
どうしてこの『TOGENKYO』という楽曲、『UTOPIA』ではなく『TOGENKYO』なのでしょうか?
私なりにちょっと考えてみたので、読んでいただけたら、これ幸いでございます。


『とうげん‐きょう〔タウゲンキヤウ〕【桃源郷】 
《陶淵明「桃花源記」に描かれている桃林に囲まれた平和で豊かな別天地から》俗界を離れた別世界。仙境。理想郷。』

『ユートピア【Utopia】
《ギリシャ語からの造語で、どこにもない場所の意》
空想された理想的な社会。理想郷。理想の国。無可有郷 (むかうのさと) 。』


毎度おなじみGoo辞書先生!
今回も、ご多分にお世話になります。

『桃源郷』と『ユートピア』、語源はそれぞれ違いますが、意味としては似てますよね?
『理想郷』という意味では、ほぼ同じ意味合いを持つともいえると思います。

では、どうしてこの曲は『TOGENKYO』だったのか?
それを考えるために、この記事では『桃源郷』という言葉の語源となった『桃花源記』を、かるーく紐解いていこうと思います。かるーく、なので鵜呑みにしないこと。高校生は、授業のレポートとかに使わないこと。お約束です。

『桃花源記』のあらすじをざっくり説明しますと、


漁師が川で漁をしていたら偶然、桃の林の中にある秘境の村に辿り着く

完全に外の世界と断絶されているものの、とっても平和で豊かな村で、漁師びっくり!

実は、その村の住人は戦乱の世から逃れてきた人々だと分かる

漁師は、その村を発った後、自分の村に帰り、村人をその素晴らしい秘境の村に連れていこうとするが、二度と辿り着くことは出来なかった


という物語です。

話を『TOGENKYO』の方に徐々に戻していきます。

『桃源郷って、手には掴めないというところがあると思うんです。』
という先ほど取り上げたインタビューの中でも、康司さんが仰っていたように、『桃源郷』は『手の届かない理想郷』です。

では、その『理想郷』は『桃花源記』の中では、どのようにして作られたものかと言いますと、

突然フッと湧いて出たものではありませんよね?
『桃源郷』は、乱世の様々な苦しみ、悲しみを目にして、そこから逃れてきた人達が作った村でした。

その意味で『TOGENKYO』は、

『誰だって 僕だって 君だって後悔を飲み干して
悲しくたってそんな顔見せずに笑って過ごして』いる、そんな現実から逃れたいと思う人、一人一人に寄り添った曲なのでは、と思います。

だから、その意味で、『TOGENKYO』は
『UTOPIA』ではなく、『TOGENKYO』なのかな、という私の自論です。



ここまでが、タイトルの話でした!長い!!
ここからようやっと歌詞の方に入ります。


『桃源郷 待って 待って ほら
桃源郷 待って 待って』

この印象的なフレーズで始まるこの曲。
先にも述べたように、
『桃源郷』それ自体を歌った曲ではなく、『桃源郷を作るまでの、フレデリックなりの過程』を歌った曲だということの一縷が、ここからも分かると思います。


『痛い 痛い 痛いですか
痛いですか 今の判断は
いない いない いないような顔してんなって いつも』


ここで、一つ想像をしていただきたいのですが、
この『いない いない いないような顔してんなって』というフレーズを、皆さんの身近な状況に置き換えて考えてみましょう。

例えば、何か発表をするとき(授業内の研究発表や、社内のプレゼンテーションなどなど、なんでもいいので想像してみてくださいね)、
何日も何週間もかけて、自分でも「コレだ!!」と思えるほど、入念に準備をしてきたとします。

とうとう発表の当日を迎えます。
緊張で、心臓が飛び出そうになるけれど、なんとか滞りなくその発表を終えたあなたは、最後に聴いてくれた方々に

「最後に、質問などございましたらお願いいたします」

と述べます。
十二分に準備はしてきましたが、どんな質問がくるかな…ドキドキ…


と、そう思いながら数秒経ちます。

誰も、何も、言ってくれない。
なんなら、資料から顔を上げてすらくれない。

「…それでは、以上で私からの発表を終わります」

あなたがそう告げると、まばらな拍手が起こります。



そこで聴いていたはずの人なのに、まるで『いない』みたいな顔をして座っている人、いますね、いると思います。
というか、この状況の時は、そういう人がほとんどだと思います。私もそうです。

『受け取るけれど、それを受け取ったままで、何も返さない』

耳が痛い言葉ですが、聴衆なんて、ほとんどがこういう『人類』だと、私は思います。

痛みを伴いながら自分の体内を曝け出して伝えたメッセージも、『いないような顔』で一瞥されてしまう、

『もしかして、この歌は『イタい』ですか?』

その問いにも答えない『いないような顔』に向き合って音楽を続けている彼らの、悲痛な叫び、というようにも感じられます。


『それでさぁ さぁ 見たいですか
見たいですか 僕の体内を
これがさ僕のハートですが
どんな形に見えていますか?』

このフレーズでは、またちょっとインタビューの記事を引用しようと思います。

『(「フレデリックの音楽には幻想的ということが大切ですか?」という質問に対し、康司さん)
そこに音楽の可能性があると思うんですよね。いま「インスタ映え」っていう言葉もあるけど、本来は風景がきれいだから写真に撮るわけじゃないですか。でも、「インスタ映え」っていう言葉で収めてしまうと、その景色にどういう時代があって、その木の名前は何なのかとか、そういう細かい部分を考えられなくなる気がするんです。ひとつの簡単なイメージだけで幅を広げられない。それが嫌なんですよね、特に音楽は。(『フレデリック、ミニアルバム『TOGENKYO』は新たな一歩を踏み出す一枚に。』EMTG MUSICより引用』

と、この康司さんの言葉を参考にさせていただきましたが、


『これがさ 僕のハートですが
どんな形に見えていますか?』

というこのフレーズ、『ハート』つまり『心臓』は、体内で一番大切な臓器、と言えるかもしれません。
ですが、『心臓』以外にも大切な臓器はたくさんありますよね?突然なんの話だ!って感じですけど、お付き合いください。

他にもたくさんの臓器があって、それらが相互に働きあうことで体は動きます。

例えば、その『心臓』だけ切り取って、
『どんな形に見えていますか?』
と尋ねたとて、全身を知ることはできません。

またこの、
『どんな形に見えていますか?』
というこのフレーズにだけ、クエスチョンマークが付いていることに、皆さんお気づきですか?

私はこの

『これがさ 僕のハートですが
どんな形に見えていますか?』

というフレーズを、

『『ハート』は大切なものだけど、それだけではなく、他の多くの人が見逃してしまう、僕の他の細かい部分も、あなたはもっと考えて、見てくれたりしませんか?』という皮肉を孕んだメッセージなのでは、と考えました。


『もう嫌になっちゃうわ
とっちらかったこの部屋
僕の最低で とても単純な 揺れる感情を
分かってくれよ』

この、
『とっちらかったこの部屋』
は、

・様々なメッセージが無尽蔵に入り混じる音楽シーン
・伝えたいことが溢れてこんがらがってしまう自分自身の中身

の両方を指すフレーズなのでは、と考えました。

そして、

『僕の最低で とても単純な 揺れる感情』

これですね、生身の人間の生の思いが詰まりに詰まったこのフレーズ、

『僕が伝えるメッセージを、
分かってほしい、知ってほしい、聴いてほしい
だけど、
ファストフードのように、大衆に消費されてしまうことを望んでいるわけではなくて、ちゃんと咀嚼して、味わってほしい
だから、なるだけ多くの人に聞いてもらいたいわけじゃないんです!!

とも言い切ることができない揺れる感情』

と、解釈してみましたが、どうですか?長いですね。
でもこんなふうに、いろんな種類の葛藤が、同時に入り乱れているような
そんな『揺れる感情』なのかな、と思います。


さぁ、サビに入ります!

『誰だって 僕だって 君だって
後悔を飲み干して
悲しくたってそんな顔見せずに
笑って過ごしてんだ』

というこのフレーズ、解釈なんかする余地もないくらいストレートな言葉が紡がれています。このフレーズに長々、解釈垂れるのも野暮かと思いますので(楽曲の解釈それ自体が野暮だよ!というツッコミはしないでくださいね?重々承知しております故)、ここでは少しだけ、追記という形で

この、『誰だって 僕だって 君だって』というフレーズは、フレデリズム国内外問わず、不特定多数を指す意味を持つと思います。
フレデリズム国内外問わず、『乱世』で苦しんでいる人はたくさんいるわけですから、皆共通、と思います。

でも、『乱世』から逃避して、『桃源郷』を作ろう、と
『TOGENKYO』は、そう思う人に向けての曲だと、私は思います。
だからこそ、『桃源郷』を作る過程に痛みが伴うという、

『もう朝だって 昼だって 夜だって
常時向き合ってはいたい
天国だって 地獄だって
楽園は君にあったんだ』

このフレーズに続くのでは、と解釈しました。

『常時向き合ってはいたい』

というここのフレーズ、日本語として少し不自然な感じがしませんか?
『居たい』という動詞の前に『は』が付くこと、個人的にはほんの少しだけ違和感を覚えました。

そこで、このフレーズをちょっと分解!してみます!

『常時向き合って/は/いたい』

と分けます。すると若干わかりやすくなったかな?と思うのですが、
この『いたい』という言葉、同音異義で、

『居たい』と『痛い』

がありますよね?
私は、このフレーズは、そのダブルミーニングなのでは、と考えます。


『常時向き合って居たい『天国』と常時向き合っては痛い『地獄』』
そのどちらもが、僕にとっての『桃源郷』だったんだ

と解釈しました。

またこの

『楽園は君にあったんだ』

というフレーズ、『楽園は君にあるんだ』ではなく『あったんだ』となっているのは、『桃源郷』は触れられないけれど、ずっと存在はしていた、というニュアンスが含まれているのでは、と思います。



さぁ!!
ここまで、バーーーーッと進めて来てしまいましたが、皆さんついて来ていますかー?
ちょっとここで、ここまでの歌詞をまとめて解釈した、DAポエムTIMEを開催します。苦手な方は、飛ばして!(曲が曲なので、いつもの論評の解釈よりも酷く具体的です。苦手な方は本当に飛ばして読んでください。)

『拝啓 (幻想的なイマジネーションをバカにしてしまう)現実的な人 

僕は今まで、自分の中身を曝け出すような表現をケムリの中に隠して歌ってきたけれど、
あなたの返事はいつも心もとなくて、
だったら、って、あなたが見たいと思うような、幻じゃない本当の体内を見せたら、あなたはどんな返答をしてくれますか?本当はそこだけ切り取った意味なんて、理解したような顔をして欲しくはないのだけど、
ちゃんと見て、知ってほしいっていう、僕のこの欲深い感情を分かってくれよ。

「誰も見たことのないバンドになりたい」という幻みたいな夢に、僕はずっと向き合ってきて、辛くて、でもこれしかないしこれがいいから向き合いたくて、

でも同じように辛い思いをしているかもしれない『君』が『桃源郷』を求めるなら、どんな場所でも、『君』がいるその場所に『桃源郷』を作るんだ』


ひゃ〜〜〜〜〜〜ポエムですよ、こんなん。
恥ずかし。でも、私はこうやって解釈しました。


ちょっとは分かりやすくなりましたかな?
どうでしょう…

こればっかりは読んでいただかないと分からないので、とりあえず先に進みます。



2番は、

『聴こえ 聴こえ 聴こえますか
聴こえますか 僕の内面が ほら
わかってない わかってない わかってない
変わってない』

というフレーズで始まります。


フレデリックの楽曲は、『ケムリ』にまみれた『幻想的な』ものが多いのは確かに事実です。掴めそうで掴めない、そんなステキな楽曲がたくさんあります。

でも、全部が全部そういった楽曲ではないと、私は思います。

例えば、
『トウメイニンゲン』の『大事なことは本人に言えよ』
であったり、
『オンリーワンダー』の『だから あなたはあなた わたしはわたし 君は君なんだ』
であったり、

直接的な言葉が紡がれたフレーズは、たくさんあります。
『幻想的』とも言える曲たちの間に、ポッとこんな本心が投げ込まれたら、一見そちらに目を惹かれそうですが、

でも、音楽シーンはやっぱりフレデリックを
『ユニークな中毒性が特徴のバンド』
と、位置付け、それはずっと変わらないのだろう、

『聴こえ 聴こえ 聴こえますか
聴こえますか 僕の内面が ほら
わかってない わかってない わかってない
変わってない』

と、このフレーズはそのことを歌っているのでは、と思います。


『ぶっ飛んじまいそうな
ぶっきらぼうな人類よ
そんなとっかえひっかえ
やっちゃった君の折衷案
奪ってやるよ』

というBメロに続きます。

『ぶっ飛んじまいそうなぶっきらぼうな人類』というフレーズから、こんな言葉を連想したので、まずはそれを紹介しますね。

『吹(ふ)けば飛ぶようの意味
わずかな風でも吹き飛ばされるほど軽いさま。また、貧弱なさま。』

吹けば飛ぶような『いないような顔』をする『人類』は、新しい風が吹けばすぐに大移動をします。(なんのこっちゃ、と読み飛ばさないで!これは比喩です。)
次から次へ、どんどん『代わり』を見つける『人類』の首根っこを掴んで、

「その折衷案、奪ってやるよ」

と、このフレーズからは、そんな強い意志を感じました。


そして、サビです。

『誰だって 僕だって 君だって
正面でダンスがしたい
妄想なんてそんなこと
わかっちゃいるけど掴みたいな』

ここに出てくる
『ダンス』
という言葉、フレデリック頻出ワードですよね?
ここで、その意味を確認してみようと思います。

一般に『ダンス』とは、
音楽やリズムに合わせて、体を動かして表現をする
というものです。非常にざっくり。

でも、その『体を使った表現』って、クローンでもない限り全く同じ体の人はいないわけですから、百人いれば百通りの『ダンス』があります。

バンドがメッセージを乗せた音楽を鳴らし、
観客(聴衆)がそれに合わせて体を揺らす

そのコミュニケーションが、フレデリックのいう『ダンス』なのでは、と思います。


『誰だって 僕だって 君だって
正面でダンスがしたい』

と、そう歌うのは、フレデリズム国内外関係なく、ボーダーレスに音楽でコミュニケーションが取りたい、と思っている、フレデリックの描く『桃源郷』を伝えているのでは、と思います。

そして、

『妄想なんてそんなこと
わかっちゃいるけど掴みたいな』

と、『ぶっきらぼうな人類』もみんな求めて『ダンス』をすることは、『妄想』で、手の届かない『桃源郷』だけど、そんな『桃源郷』を目指していたい、という意志が込められています。


『もう朝だって 昼だって 夜だって
常時向き合ってはいたい
損得だって 私欲だって
楽園は君にあったんだ』

『もっとたくさんに人に聞いてもらうために』という勘定も、それが損得の上に成り立つビジネスになってしまうことは、もう避けられない事実で、

もっと見て欲しい、聴いて欲しい、という私欲も含めてそれは全部、
『人類』で『ダンス』をするためだったんだ、と解釈しました。

『だったんだ』という語尾、ここでは、

『これまで、損得や私欲はエゴだと思っていたけれど、その悩みも全部『桃源郷』を作るためのものだった』ということに気が付いた、というニュアンスなのでは、と思います。



『真相 巡って食ってたら
心臓を齧っちまった』

このフレーズ、

何の真相?誰の心臓?
という点、一個も言及されてないんですよね。
なので、考えうるパターンを列挙して行きます。

・自分の真相を巡って身を削っていたら、自分の心臓を齧って傷つけてしまった
・自分の真相を巡って身を削っていたら、他人の心臓を齧って傷つけてしまった
・他人の真相を巡って荒探していたら、自分の心臓を齧って傷つけてしまった
・他人の真相を巡って荒探していたら、他人の心臓を削って傷つけてしまった

と、この4通り、
また分かりにくい感じになってしまいましたが、この

『真相 巡って食ってたら
心臓を齧っちまった』

というフレーズには、この全部が込められていてもおかしくないかな、というか、込められているだろう、と私は思ったので列挙してみました。
見辛くてすみません。


『望遠鏡ばっか見てたら
妄想で終わっちまうな
もう全部作っちまうさ』

というフレーズが続きますが、ここで『望遠鏡』という言葉に注目します。

『望遠鏡』、英訳すると『テレスコープ』です。

皆さん、聞き覚えありませんか?

『テレスコープ越しの感情
ロッカーに全部詰め込んだ』

というアレです、『オドループ』です。
紛うことなきこの『オドループ』という楽曲、フレデリックの代名詞とも言える曲です。

でも、この
『フレデリックといえば、オドループ』
というイメージ、時に呪いのように苦しめるものだったのでは、と思います。

音楽シーンは、フレデリックを
『ユニークな中毒性が特徴のバンド』
と、位置付け、それはずっと変わらないのだろう、という現状に嘆くような以下のフレーズ、

(『聴こえ 聴こえ 聴こえますか
聴こえますか 僕の内面が ほら
わかってない わかってない わかってない
変わってない』)


『テレスコープ』越しに見た世界は確かに『桃源郷』だったけれど、ちゃんと自分の目で肉眼で見ないと、『桃源郷』は現実にはなってくれないから、

だから

『もう全部作っちまうさ』


という言葉に繋がるのでは、と思います。


さぁさぁ!
やっとこさラスサビです!!


『誰だって 僕だって 君だって
後悔を飲み干して
悲しくたってそんな顔見せずに
笑って過ごしてんだ

もう過去だって 今だって 先だって
いつだって愛していたい
天国だって 地獄だって
楽園はここにあったんだ』

というこの歌詞、ここでまたインタビューを引用します。(このインタビューは『フレデリズム2』をリリースするタイミングで発売された『MUSICA 3月号』のものです。)

『僕は『TOGENKYO』をもっと聴いてもらえると思ってたんです。けど、自分がそう思ってたものがなかなか伝わらなかったりして。じゃあどうしたら伝わるのかってことは常に考え続けてきてるんですけど、やっぱりいい作品を作っても聴いてもらえないっていうのは、正直、作曲者としては一番堪えるんですよ。それでも『これがいいよね』って言い続けてバンドを続けていって、大事な場面で全国のいろんな土地でライヴができて、それで実際に楽しんでくれてるお客さんを目の前にして確信が生まれてっていう……そういう幸せなサイクルがあるんですけど、とはいえ僕は浮き沈みが激しいんで(笑)』

『TOGENKYO』がリリースされた後に、康司さんがこう仰っていることに、私は個人的には、非常に心苦しい、というか、「じゃあ自分には何ができるだろうか」ということを考え始めるキッカケになったのですが、まぁそれは置いておいて、


このサビの

『もう過去だって 今だって 先だって』

というフレーズの『先だって』という部分、それがこのインタビューで仰っていることなのかな、と思いました。

『過去も今も、その先も、これまでみたいに、苦しんで思い悩みながら、音楽を続けていくけれど、それは全部、『桃源郷』はここ、『フレデリック』というバンドにずっと、あり続けるんだ』

と、私はこう解釈をしましたが、
『先』という点に関しては、これからまだどんどん変わっていくと思いますので、暫定、この解釈、って感じです。

それでも、

『過去だって 今だって 先だって
いつだって愛していたい』

という歌う曲を、歌う当人が『バンドのターニングポイント』と、仰ってくれたことには、大きな意味があるのでは、と思います。


『桃源郷 舞って 舞って ほら
桃源郷 舞って 舞って』


と、曲の冒頭と同じ音、でも全く違う意味で描かれたアウトロは、

『舞って』と、やっぱり『踊ってない夜を知らない』バンドらしい言葉で締めくくられています。

『過去だって』と、時には足枷にもなってしまう恐れのある過去も全部まとめて『愛していたい』という、『とても単純な感情』を、暗に示しているのでは、と思います。




この『TOGENKYO』という楽曲、

もしかしたら、皆さんの『一番好きな曲』ではないかもしれません。
でも、それぞれにこの曲の歌詞がメロディーが根付いていて、『TOGENKYO』が臓器のように働くから、呼吸ができる
そんな楽曲なのでは、と思います。少なくとも、私にとっての『TOGENKYO』は、そんな曲です。

『今』が『過去』になった時にも、フレデリックに、この曲を歌い続けて欲しい

そんな『私欲』を思い描いてしまうなぁ、と個人的には思います。




これで『TOGENKYO論評』を終わります。

『いないような顔』なんてしないで、コミュニケーションを取っていただけたら、嬉しいです。みんなで『ダンス』をしましょうね。



#わたしのTOGENKYO

次は、『スローリーダンス』です!
担当は、ゆゆまる。さん!(@yuyuyuyumaru15)

よろしくお願いします!









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?