見出し画像

愛したいのに、愛させてもらえない

カムカムエブリバディの最終回が終わってしまい、魂が抜けている。

今でも、京都や大阪や岡山のどこかに行けば、この人たちに会えるような気がする。
それくらい、くっきりした存在感を持つ大好きな人たちの物語だった。

ハッピーエンドで本当に良かったし、見終わって清々しい気持ちになれた。
それは確かだ。

けれども、安子のボタンを掛け違えたまま生きてきた人生を思うと、改めて悲しみが込み上げる。

幼い時に生き別れた我が子・るい。
彼女が成長し、孫・ひなたを産む。
そのひなたと自分が一緒に仕事ができる年齢になるまで、安子はるいの人生を知らない。

親子の間には、40年以上の空白がある。

安子は、誰よりも大切な我が子のことを「私には、あの子を愛する資格がない」と、行方を探すことすらしてこなかったのだ。

渡米後のパートナーがどれだけ優しく、周囲の人たちに恵まれていたとしても、いや、今の自分が幸せだからこそ、この手で幸せにしてやれなかった我が子のことが、どれほど気がかりだったことだろう。
どれほど大きな後悔として心を削ってきたことだろう、と思う。

今朝はその影響なのか、我が子らの夢を見た。
2人は何故か10歳と3歳に逆戻りしていて、そしてまた何故か、海のそばの家に夫と住んでおり、私はそこを訪ねてきた、という設定だった。

「え? 私、離婚したの? それで、子どもはダンナに引き取られたの? ウソ! ありえない!」

夢の設定に気づいた時には、パニックになった。
何より、この子たちと一緒に住めない自分が悲しくて、これから成長する彼らをそばで見られないことが悲しくて、もう一緒に笑えないのだということが悲しくて、目覚めた時に号泣していた。

夢ですらこの有様なのだ。
我が子と暮らせない母の気持ちたるや。
子どもを愛したいのに、愛させてもらえないというのは、とんでもなく辛いことなのである。

ところで、私はライターになる前、子育て支援の有償ボランティアのような仕事をしていた。
野外に親子を連れ出して、極力、人のいないところで自由に好きなだけ遊ぶ、という活動だ。

ここでは、子どもの遊びに「ダメ!ダメ!」と言いたくなくて、制限をなくすことを目指していたので、ルールはほとんど設けなかった。

いつ来ても、いつ帰っても自由。
何をしても自由。
ただ、お昼ご飯は「具はなんでも構わないが、おにぎりに限る」ということだけ徹底していた。
料理が得意で、朝の忙しい時間帯に手間をかけることが苦にならないお母さんに合わせて、
「自分もゴージャスなお弁当を持って行かなくては」
と思うようになってしまうと、それだけで足が遠のく人が出てくると思ったからだ。
(何しろ私がそういう人なので。今考えると、我が子の栄養管理に気を配りたいお母さんたちには、逆にストレスを与えてしまっていたのかもしれない)

子連れにはかなり無理のある、整備されていないフィールドに連れ出すことも多かった。
なので、参加する人は「決まったプログラムをただこなす」ような、受け身の姿勢でいるわけにいかず、なんでも自分からすすんでやろうとする人が多かった。
貪欲に「遊ぶぞー!」と思ってくるアグレッシブな人たちは、みんな楽しい個性的な人ばかりだった。

だからこそ、この群れの中では、他人の子も我が子のように面倒を見合って、小さな苦労を一緒に乗り越えた子育ての戦友的な関係を作ることができたのではないかと自負している。

さて。
そんな、お母さんたちと離れて1年半以上経つ。
そのうちの誰かから、数ヶ月に一回くらい、思い出したように連絡が来る。
たいていは、理不尽な気持ちを吐き出すメッセージだ。

現代は、子育ても本能だけに任せていてはいけないと思う人が多いらしく、
「ああしろ、こうしろ」
「あれはさせるな、これはすぐやめさせろ」
と、外野からのありがたくない指導が飛んでくることが多い。

1番多いのは
「もっとしっかり子どもを見ていろ」
という知らない人からのお叱りだ。

そりゃ「ファミレスとかでお母さん同士が会話に盛り上がり、子どもらが店内を走り回っているのに全く見ていない」という状況なら、一言物申したくなるのはわかるし、そこは注意してさしあげるべきだとも思う。

が。
二人以上の幼い子どもを連れて、それぞれが別々の場所でトラブルを起こしているような時にも、それ言うか?と思うのだ。

母の体は一つしかない。

姉のトラブルでてんやわんやな時、弟が何をしてても、そりゃ見てられないよねえ、と普通の感覚を持ってる人なら分かりそうなものである。

「ちゃんと見ていろ」
という代わりに、自分が見てあげようとは思わないのだろうか。
代わりに叱ってやろうとか、代わりにトラブルの仲裁をしてやろうとか、思わないのだろうか?

その度、お母さんたちは、自分の不甲斐なさを責めて、泣きそうになりながらメッセージを寄越すのだ。
「うまく育てられないのに、何人も産んだ私が悪い」と。

子どもがトラブルを起こすたび、ぎゅっと心臓をつかまれたような気持ちになる。
縮こまって周りに謝罪し、できない自分を責め、思うようにいかない子育てを呪う。

そうして、我が子を可愛く思えなくなって行く。

愛したいのに、愛させてもらえない。
ここでも、それが起きている。
戦争もない、平和な日本で。

それなのに「少子化が問題だ」と言われてもなあ。

愛したい人を思い切り愛するには、環境も大事なのだ。
愛させてあげようよ、お母さんたちに。
可愛い我が子を、これでもか!と愛せる環境を作ってあげようよ、と思う。
それは今の親子だけでなく、人類の未来も救うはずだと思うのだ。

幸せの循環は、親子の関係から始まると信じている。

ちびっ子のチンギス=ハンは幸せだったのか?
ちびっ子のヒトラーは幸せだったのか?
ちびっ子のプーチンは幸せだったのか?

歴史を学べば見えてくるよね。
そういうことだと思います。

**連続投稿71日目**

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。 サポートは、お年玉みたいなものだと思ってますので、甘やかさず、年一くらいにしておいてください。精進します。