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『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』感想

以前から気になっていた、この本を読み終えた。

栗城さんの存命中、わたしは彼の存在を全く知らなかった。
「ニートの登山家」と持ち上げられて、ネットで英雄視されたことも、エベレストアタックに何度も失敗して「下山家」と揶揄されていた頃のことも、目にも耳にも入っていなかった。
彼の人生についてはこの本で、初めて知ったことばかりだ。
しかも、私は登山というキツいスポーツにまるで興味がなく、雪もなく酸素も濃い、国内の低山を往復しただけで、その後1週間、使い物にならなくなるような人間だ。
なのになぜ、興味のない「山に登る人」についての本を読んでみたいと思ったのかというと、ある山岳ジャーナリストの方が「僕は栗城君のことは嫌いなんです。彼は、登山家としては3.5流です」と言い切っていたのをYouTubeでたまたま見たからだ。
たぶん、千原ジュニアさんとの対談番組だったと思う。
公に、ある一人の人間を名指しで「嫌い」と言い放つそのシーンは、強烈に記憶に焼き付いた。
味方であるはずの山岳ジャーナリストに、ここまで毛嫌いされる登山家って、一体、どんな人なのだろうかと、思ったのが最初だった。

彼の登山がどれだけ無謀であっても、それについて何か批評できるような、山に関する知識は、私にはない。
できることがあるとすれば、嫌いだと公言する人たちが、彼の何を嫌っていたのかを考えることだ。

本を読み終えて思ったのは、栗城さんは天才的なウソつきだった、ということだ。
純粋な登山家たちは、極限での1つのウソが命取りになることを知っている。
だから、山に登る前から、ウソで固められたような怪しい栗城さんのことを、信頼することができない。
ウソに気づけない人たちは、あどけない顔で自己啓発チックな発言を繰り返す栗城さんを、怪しいが故に神聖視し、崇め奉ってしまう。
誰だって、自分を良く見せたいし、嫌われるより好かれる方が気分がいい。
栗城さんは、「自分を嫌い、本当のことを言う人たち」に背を向けて、「自分を好いて、いい気分にしてくれる人たち」の方を向くことにした。

これが、彼の間接的な死因なのだ、と私は理解した。
「いい気分」に心を支配され、「好かれる」ためにウソを重ねて行動する。
支持される快感のために、障害の受容もできていない段階で、心に過大な負荷をかけてしまったのが、彼の死に至る大きな失敗だったのだと思う。

栗城さんは、2012年秋のエベレストアタックの際に、両手の10本の指のうち、9本に重度の凍傷を負い、最終的にそれらを切断している。

指がない、ということは、どれだけ体が健康であっても、食事や排泄などの行為を、他人の手に頼らねば生きていけないという事だ。
生まれながらにして、指一本で暮らしてきたのなら、工夫や訓練である程度のことはできるようになるかもしれないが、栗城さんは中途障害者だ。
外からは、前向きに希望を捨てていないように見えていても、心の中は決してそうではなかっただろう。
絶望と希望の間をふらふら彷徨っていたはずだ。

障害受容は、5つの心理的ステップをたどって進行するという。

有名な障害受容のプロセスの分類に「コーンの分類」というものがあります。
このプロセスは、突然の身体障害(後天性障害)を患った方の障害受容の過程を示しています。

介護の教科書
(「介護の教科書」より)

栗城さんは、真っ黒に壊死した指を、1年も切断することを拒み、治療法を探し続けたという。
それは、「指が無くては登山ができない」という、それまで賭けてきた情熱を奪われる恐怖よりも、「指はもう無い。自分にはこれまでのあたりまえの暮らしはできない」という状態を受け入れる恐怖の方が大きかったからではないだろうか。

だから「2.回復への期待」を抱えたまま、一年もの間、敗血症になるリスクを無視して、死んでしまった指を切断できずにいたのだと思う。
彼にその時期、必要だったのは、山と向き合うことでも、自分と向き合うことでもなく、「壊死した指」と向き合うことだったのだと思う。
そして、どうにもならない現実を受け入れるために、泣いたり怒ったり喚いたり、心のうちにあるものを抑圧することなく吐き出して、障害受容に向かうステップを登るべきだった。

栗城さんは、周囲に本心を明かさない。
だからみんなが、前向きに頑張っているような演技をする栗城さんに、コロリと騙されてしまったのだろう。
実際の栗城さんは、指を失ったあたりから、精神的に追い詰められていたという。
山でしか名を売ることができない、それ以外の仕事をしたことがない、そして、指を失い、それ以外の仕事の選択肢が急激に狭められてしまった栗城さん。
だから、これまで何度も失敗した無謀なエベレストに挑むしか、道が無いと思い込んだのだ。
残りの人生、自分自身を食べさせていけるのかどうかすらわからない状況。
「冒険を共有し他人に夢を与えたい」なんて、さらさら思っていなかったはずだ。
心の中は「3.悲嘆」の嵐が吹き荒れてたに違いない。
助けてほしいのは俺の方だよ、と思っていたって不思議はない。
栗城さんは、タフな登山家ではなく、小さな障害者だったのだから。

栗城さんには、時間をかけて、障害の受容をし、その上で、本当に山に登らなくてはいけないものなのか、を考えて欲しかった。
誰かに称賛される人生だけが、素晴らしい人生なのか。
指を失ってる生きる日常だって、栗城さんにとっては、エベレスト同様に過酷な冒険だ、と思えなかったものだろうか。
それは、挑戦しがいのある壁としてそそり立っていたはずなのに。
乗り越えなくてはならない心の壁は、むしろ、こちらの方が高かったかもしれない。
世間の注目はなくても、誰かのためにはならなくても、褒めてくれる人がいなくても、障害受容の壁を乗り越えられれば、圧倒的に「自分のため」にはなったはずだ。
それに彼が気づけたら、死なずに済んだのかもしれない。

この本の最後近くには、その頃の栗城さんが頼りにし、心を開いていた人物が出てくる。
そして、その人の証言の中に、本当の栗城さんがいる。
誰にも言えなかった心情を、栗城さんは、その人にだけは打ち明けていた。
それを読むためだけにでも、この本を買う価値はある。
それは、衝撃ではあったが、よく考えれば当たり前でもあった。
どんな人だって、ひとりで困難を抱え続けられるほど、強くはないのだから。

ヒーローを望む大衆心理は怖い。
担ぎあげられてしまったヒーローも、自分と同じ人間なのだということを忘れてしまう。
そして、そのヒーローが、期待に応えようと完璧な演技を続けるほど、デスゾーンへと近づいていくのだ。

栗城さんを見ていると、「いいね」や「スキ」に一喜一憂するSNSの危うさを、ひしひし感じる。
賞賛を浴びることだけが、唯一の目的になってしまう恐怖を目の当たりにして、ぞっとする。

「好きで始めたこと」でも「他人の評価」が絡んでくると、こんなにも自分を見失ってしまうのか。

SNSに10年以上どっぷり浸っているわたしは、他人の評価に操られていない、と言い切れるのだろうか。
考えさせられる本だった。

**連続投稿484日目**

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