からくりアンモラル/森奈津子

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読了日2019/10/24
表題作「からくりアンモラル」

触れる手に欲望は宿っていないのに、
触れるところが性的だから許されないのはなぜ。

主人公、秋月は自らの体の成長にいらついていた。
初潮だった。
ということは、自分の体は女になりつつあるということだ。
男に欲望の対象として見られ、
性的な扱いを受ける可能性のある体。
心よりも「女の体」だけを求める周囲の男の子たち。

けれど、妹がかわいがるロボット・ヨハネは違っていた。
ロボットのヨハネは、男の子たちのような性的なイヤらしい気持ちも持ち合わせていない。
だから彼の言葉に、秋月は喜んだ。
「美しいですね」
ヨハネからもたらされる愛撫も、性的な接触ではないと思っていた。
それは愛しい血縁者同士が行う、慈しみだった。

その後ヨハネは秋月のせいで処分されてしまう。
罪に対する罰である。
秋月の妹、春菜を傷つけたヨハネに対する罰は、すなわち秋月に対する罰だった。
秋月は泣いて許しを請うが、ヨハネは帰ってこない。

だってヨハネの接触は性的な接触ではなかった。
親が子を守るような、
子が親を愛するような、
そういった類のものだと秋月はわかっていながらも、
ヨハネをけしかけてしまった。

ヨハネがいなければ、秋月はこの先の人生で大きな過ちを犯し続けただろう。
それを止めたという意味では、
「どうせ死ぬのになぜ生まれるのか」
という秋月の問いには、ヨハネの存在理由が答えられる。
「あなたを、愛するためだった」

流行映画の主題歌は歌う。
「愛に出来ることはまだあるかい」

私が愛するバンドマンは歌っていた。
「既に愛は意味を失った」

私たちはみんな知っている。
この世にかつて存在していたであろう「愛」は、もう、抜け殻のように中身がなくなっている。
本体のなくなった愛は「意味を失い」、
抜け殻となった愛に「出来ることはまだあるかい」と尋ねる。
(セミの抜け殻集めが趣味の人も大勢いるので、抜け殻が無駄とは言わないが←)

だがこの作品集は気づかせてくれる。
この世にはまだ愛が必要だ。

自分を愛してくれる人がいれば、人は、生きていける。
この世に愛が必要なのは、人が生きるためなのだ。

本作には人以外も大勢出てくる。
吸血鬼だとか人と猫とのハイブリッドだとか、人型ロボットだとかね。

けれど彼らも、
というか彼らだからこそ、
愛を知っている。
そんな存在が多くいる。

なぜ彼らが愛を知っているかの問いには、実は簡単に答えられる。
彼らは自分たちを「愛してくれた」存在がいるから、愛を知ることができたのだ。

自分がいつか誰かに与えた「愛」が、
いつかの未来で苦しむ自分に返ってくる。
愛した誰かが愛してくれる。
そしてまた、生きていける。

「どうせ死ぬのになぜ生きなくてはならないのか」

ナンセンスな質問だ。
答えなど決まっている。

「人生とは、誰かに与えた愛の回収作業だ」

決まった……!

ところで←
性描写は基本的に拘束からのソフトSMが主流だったので、
やや飽きが来る可能性もある。
というのも連作ではないし、書かれた時期もバラバラなので、
一つ一つが独立した世界観だから仕方ないといえば仕方ない。

の、だけど。
後半、お決まりの性的な描写にやや辟易してきたところでの、
「ナルキッソスの娘」
よかった。
ここでこの作品を持ってくるセンス、ステキ。
表題作、「いなくなった猫の話」それとこの作品がもっとも好みだった。

性描写がなくなったら、
多分「森奈津子じゃない!」
となるファンもいるのだろう。
でも性描写のない「ナルキッソスの娘」の完成度の高さに、私はのめり込んでつんのめりそうだった。

なるほど性描写がなくてもこんなに完成度が高いのだから、
この人の性描写はあえてゆるゆるで楽しそうにするくらいでちょうどいいのかもしれない。

何はともあれ、楽しい本でした。

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