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反・自殺論考3 私的反自殺論

 第2章では、ヴィトゲンシュタインの前半生を、自殺をテーマに駆け足で紹介した。
 と言いつつ、どうでもいい情報に沈黙できず、鈍り足になってしまったのがオタクの(話を聞かされる皆様の)辛いところである。
 このまま走り続けても自分としてはウェルカムだが、読者の皆様が二の足を踏みそうなので、僕の本業であるエッセイで一服したいと思う。
 ここだけの話、本業は小説家であるものの、デビュー作を除けばエッセイの仕事しかしていないため、僕自身すら小説家であることを忘れつつあるのが現状なのである。
 なお、前章までは『論理哲学論考』について、毎度しっかり『論理哲学論考』と書いてきましたが、以後は字数の節約のため『論考』と略記します。
 例えば以下のように。

使用されない記号は意味を持たない。これがオッカムの格言の意味である。

『論考』§3.328

自殺は罪なのか

 いきなり結論から述べれば、否である。
 つまり「罪である」ということは、ない。
 要するに「罪である」とは、正とも否とも語りえないのだ。

『論考』
 という本は「世界とは出来事の全てである」という一節で始まる。
 和訳者によって「世界とは出来事たる一切である」とか「世界とは成立していることがらの総体である」とか、様々な始まり方をするが、原文を無視して言い換えれば、つまり「現世は実際に起きた諸事で出来ている」ということだ。
 続いて、
「世界は事実の全体であり,物の全体ではない」
「世界は諸事実によって、そしてそれが全ての事実であることによって、決定されている」
「世界は諸事実に分解される」
「出来事、すなわち事実とは、事態が成立していることである」
 といった文節が置かれ、そうして並んだ全526節のラストを飾るのが、
「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」
 なのは、たぶん誰もが知るところである。

 そもそも何故「沈黙しなければならない」のか。

 ヴィトゲンシュタイン自身は『論考』という本について、序文で「おおむね次のように要約されよう」と書き、こう続けている。──「およそ言いうることは明確に言いうる。そして論じえぬことについては、沈黙しなければならない」
 はい。
 そう言われても沈黙の理由が分からないから困る。
 語りえぬことに沈黙しなければならないのは何故か。
 それを知りたいのに、その答えが「論じえぬことについては、沈黙しなければならない」では「語りえぬ(nicht sprechen)」を「論じえぬ(nicht reden)」に変えただけの、トートロジーではないか!

 トートロジー?

 これまた困る。
 なので「トートロジー」のような、論理学の専門用語を使わず、ヴィトゲンシュタインの語らんとするところを、なるべく簡単に、それでも「世界は事実の全体」という言葉には依拠して要約すると、こうなる。

 世界は諸々の事実から出来ており、それらは言語で記述できるから全て語れるが、事実と関係ないことは語れない。

 もう少し明確に、いや正確に言うと、事実が成立する以前のことがら(=事態)については、事実から別様の世界もありえた可能性が論理的に導き出せるため、語ることも考えることも可能になる。
 ところが、それ以外のことについては、世界の中に事態を構成する対象も、言語で表現できる要素も存在せず、何をどう語ろうが無意味な言葉しか生じないため、沈黙しなければならないのだ。

善悪は語りえない

 世界は諸事実で出来ており、それ以外は可能性しか「語りえない」
 だから「沈黙しなければならない」ことの一つが、倫理である。
 例えば、善悪の問題。
 善悪なら語れるじゃないか、と思われるかもしれない。
 例えば、殺人が善か悪か問われれば、たいていの人が悪と答えるだろう。

 では死刑は善だろうか、悪だろうか。
 死刑も見方によっては悪だ、国家による殺人だ、文明社会においては野蛮だ、などという理由からヨーロッパでは死刑制度を廃止した国もある。アメリカにも死刑がない州があり、制度はあるが運用は停止中なのが韓国で、国外からは批判も浴びながら国内では廃止に反対の声が根強く、死刑を続けている国が日本である。悪い国である。
 そう思う人がいる一方で、死刑囚に殺された被害者や、その遺族にとっては善かもしれない。

 殺人、という事実は語りうる。
 事件や事故の状況によって、殺人にも様々な種類があり、その中に死刑を含めようが含めまいが、刃物で刺したとか銃で撃ったとか、首吊りとか電気椅子とか鞭打ちとか、車で轢くとかガスを使うとか、引きこもりの息子を親が殺すとか、僕が逆に殺されるとか、我が子や親を殺した犯人を遺族が殺すとか、ありとあらゆる事例が考えられるとしても、現に起きた事実であれば、あるいは論理的に生じうる事態であれば、絵でも言葉でも描写できる。
 が、それらの事実が善か悪かは、語りえない。
 そうヴィトゲンシュタインは考えたのだ。

 ただし、彼の哲学には大きく分けると前期と後期があり、後期になると考え方が変わる。大まかに分けると中期もあり、前期から中期への移行期である1929年には、

私の哲学のやり方は相変わらず、私自身には常に新しく、だからこそ何度も繰り返さねばならない。次の世代にとっては、それが血肉になっているだろうから、繰り返しが退屈に感じられるだろう。だが私には必要不可欠なのだ。──この方法は本質的に、真理の問題から意味の問題への移行である。

 と述べているから、哲学をやる時の考え「方」は変わらなかった、という見方もできる。でも真理を論考した前期と、意味を探究する後期とで、哲学する「方法」が移り変わった、という見方もできる。
 が、とにかく前期の彼は「善悪は語りえない」と考えた。
 何故なら善悪は、事実ではないから。
 即ち、世界には「善」あるいは「悪」という言葉に対応する事実がないからだ。
 だから事実以外のことについては、沈黙するしかない『論考』の世界においては、死刑や殺人という事実については語れても、その善悪については語りえないのである。 

倫理学講話

『論考』の完成から十一年後、ケンブリッジ大に再入学したヴィトゲンシュタインは、さる講演会に気鋭の論理学者として登壇するよう招かれた。
 ところが彼は、どちらかといえば哲学より科学に関心を持っていた聴衆に対し、今日は皆さんの期待に応えて論理学や科学について語る気はないと宣言し、哲学誌に後日掲載された「倫理学講話」という題の話を始める。
 それは数年前、論理実証主義者たち──『論考』をバイブルにヴィトゲンシュタインを崇め、論理学に則った「科学的世界把握」を標榜したウィーン学団の主要メンバー──の会合に招聘されながら、信者たちに背を向けてタゴールの詩を朗読した彼の姿を思い起こさせるが、この日の彼は前を向いていた。
 で、講演もたけなわになる手前で「万物の動静と精神状態を知悉した全知の人間が、世界について完全に記述した本」なるものを聴衆に想起させ、こう述べる。 

この本には、我々が倫理的判断と呼ぶもの、あるいは、そのような判断を論理的に意味付けると思われるものは、一切含まれていないでしょう。

 したがって、

殺人について、物理的・心理的にその詳細が書き尽くされた記述を我々が読んでも、これらの事実の単なる記述の中には、倫理的命題と呼びうるものは一切含まれていないでしょう。殺人すら何か他の出来事、例えば落石と全く同じ次元にあることになるでしょう。この記述を読めば確かに、苦痛とか憤怒とか、何かしらの感情が我々に引き起こされるかもしれず、あるいは、この殺人が他人に引き起こした苦痛や、憤怒について読むこともできるでしょうが、存在するのは事実、事実、ただ事実だけであり、倫理学ではないでしょう。

 では自殺は?
 その「本」で、自殺は一体どう書かれるのか。

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