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祝ランニング歴1周年!つづけられている理由と、そこから派生して考えたこと

2020年3月、コロナ禍のはじまりと共にランニングを始め、気づけば1年2ヶ月、つづいている。

もともとは走るのが大嫌い。小学校のときはマラソン大会が年で1番憂鬱な日で、マラソン大会がない中高に入れたときは心底嬉しかった。運動自体は妊娠・出産を機に積極的にするようになって10年以上経つのだけど、ランニングには全然魅力を感じられなかった。

が、コロナ禍でストレスがたまりすぎて、解消のために走り始めたら、すっかりハマってしまった。その後、ランニングへの情熱はアップダウンを繰り返しつつ、いまもつづけられている。その理由を書いてみたい。

2020年度のラン実績

まずは現状把握ということで、昨年どれくらい走ったか。ちなみにランログはNike Run Club(↓)というアプリを使って記録している。

昨年の実績はこんな感じ。

総走行距離:596.5km
総走行時間:104時間58分52秒
平均ペース:10分34秒/km
3.6回/週
4.5km/ラン

たぶんちょっとでも走る方ならすぐおわかりになるだろうけど、ランのペース10分34秒/kmて、めっちゃくちゃ遅いです笑。早歩きに毛が生えた程度。インスタにランログをアップされている方も多いのだけど、こんな遅いタイム、見たことない笑。子供のよろよろ自転車走行に追い抜かされるレベルです。

つづけられている理由

そんなとろとろランナーのわたしがランニングをつづけられている理由は、ものすご〜くシンプル。

走りたいときに走りたいだけ走りたいペースで走っているから。

決して無理をしない。負担に感じない範囲で、走りたい気持ち、走っていて心地よいペースを最優先にする。

ここらへんをすごく大事にしている。ランニングをつづけていることについて、周りの友人から「すごい」と言ってもらうし、以前のわたしもランナーに対して同じような気持ちを抱いていたと思う。

でも、自分のペースで好きなように走るって、ものすご〜く気持ちいいってことを知ってから、変わった。

はやめペースで身体に負荷をかけると、息があがって苦しくなる(その苦しさも体調次第でちょっと快感になったりもするんだけど)。苦しいのはいやだから、苦しくない範囲で走りつづける。ほとんど歩いているくらいのペースでもいいから、とろとろ走る。

そうすると身体がだんだんあつくなっていって、血流がめぐる感じとでもいおうか、新陳代謝が活発になっているのが身体で感じられる。肩や首、背中のこりもやわらぐし、だるさなんかもふっとぶ。

走っている間は音楽やラジオなんかを流し聴きしつつぼ〜っとしているので、瞑想状態に近づき、走り終えたあとは気分もスッキリする。「いいことしてる!」感がすごくあるので、自分への肯定感も高まる。

お金もかからず、身体にもメンタルにもポジティブな効果がある。ほら、いいことだらけ!笑

ランナーを「すごい」と思うのは、日本の教育制度の副産物なのでは?

と、ここまで書きながら考えていて、好きなことを好きなようにつづけていることを「すごい」扱いされるのは、みんなが「したくないことをさせられている」という強い記憶があるからじゃないかな、とふと思った。

わたしはいわゆる「勉強」が好きなので、いつもなにかしら学んでいる。前回のソウル生活中は語学学校で韓国語を学んだり、大学院に通ったりした。昨年は韓国語学習を再開して、TOPIK6級をとった。

そういうことに対しても、「すごい」と言われることが多々あり、褒めてもらって嬉しいなというのと同時に、ちょっと違和感があった。

みんなそれぞれ、好きなことってあると思う。読書とかゲームとか映画鑑賞とかダンスとか散歩とか?なんでもいいのだけど。好きなことって、ただ好きなので、勝手につづく。気づくとしていたり、いそがしくてもそのための時間を捻出したり。

で、たまたまその好きなことが、多くのひとにとって過去に「したくないけどさせられている」ことに合致したりすると(たとえば「勉強」「ランニング」(マラソン大会って小学校ではみんなあったよね?)とか)、当人は好きでやってるだけなのに、「すごい」となっちゃう。好きなことをするってそんなに負担がなくできることだと思うんだけど、あたかも「意志力」が強いからつづけられている、ように見えちゃう。

これって散々いわれていることだけど、日本の教育制度の副産物のひとつなんじゃないかな、と思ったりする。日本の教育制度においては、本人の資質とか嗜好をほとんどまったく考慮されず、学校もしくは先生(あるいは受験システム)が「やりなさい」と言われたことをこなすことが求められている。その中である程度結果を残そうとしたら、「やるべきこと」が好きとか嫌いとか、得意とか不得意とか関係なく、問答無用でやらなくちゃいけない。しかも、やるペースもやる量も一方的に決められて、自分で調整する余地なんて、ほとんどない。やることを拒否する選択肢は実質的にほとんどなくて、いやがるそぶりでもみせようなら、脅される(「ろくな大人になれない」とか「将来のため」だとか?)。

でも、もし子供たちがひとりひとりに合った方法で学べたら、きっとみんな勉強って楽しいって思うだろうし、習得ペースだってずっと早いんじゃないかな、と想像している。そういう世界が実現したら、「勉強」を自らするひとに「すごい」って言葉はかけなくなるんじゃないかな?ああ、このひとは好きだから勉強してるんだな、としか思わなくなるんじゃないだろうか。

*わたしは教育の専門家でもなんでもないので、まったく根拠なしで好き勝手に考えたことをいっているだけです。

「したくないことをさせられている」マインドからの解放

でも、いくら過去にそういう経験があるといっても、それって小中高時代ぐらいで終わるし、そのあとはむしろ「さ、自己責任で好きなように生きなさい」って投げ出されるわけで。だから、大人になったらさっさとそのマインドから自分を解放してあげて、好きなように好きなことをやったらいいと思う。意志力とかがんばりが必要にならない範囲で、楽しいとか気持ちいいとかそういうのを最優先して、ゆる〜くつづける。

と、ランニングから日本の教育制度まで話が飛んでしまったのだけど、なにかそこにつながるものがあるんじゃないかなと思って、書いてみました。

ランニング、本当に気持ちいいです。身体も心も喜びます。力一杯おすすめです!


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