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「35歳でMBA入学 有馬裕乃さんが通訳案内士を経て、産前・産後ケアビジネスの起業を志すようになるまで」

働く子育て女性のためのウェブサイト・マレキュールに有馬裕乃さんのインタビュー記事を執筆しました。

記事の本文中では触れなかったものの、どうしても紹介したいエピソードがあるので、こちらにアップすることにしました。

インタビュー記事と併せてお読みいただけると嬉しいです。

いまの自分の土台を作った、歌舞伎の子役時代

裕乃さん写真3

(歌舞伎の子役時代の裕乃さん。左上は歌舞伎役者の故・坂田藤十郎さんと。右上の2枚は日本舞踊の師範である裕乃さんの母親の舞姿)

筆者は通訳案内士の仕事もしており、裕乃さんと同じ旅行会社のツアーをする同僚の仲だった。頻繁にトレーニングへの参加を求める会社だったため、年に何度も裕乃さんと顔を合わせる機会があり、泊まりがけの研修など長い時間を共にすることもあった。

仕事柄、通訳案内士は気配り上手でコミュニケーション能力が高いひとが多い。そのなかでも、裕乃さんはずば抜けてどちらのスキルも秀でていた。アメリカや他のアジア地域からトレーニングに参加するマネージャーやトレーナーたちともすぐに良好な関係性を築き、研修の場でも必要なときは誰より早く察してすぐにさっと動くなど、ずば抜けてどちらのスキルも秀でていた。いた。

インタビューの際、そういう所作をいつ身につけたかを聞くと、想像もしていなかった答えが返ってきた。

「もしかしたら、歌舞伎の子役時代に鍛えられたのかもしれません」

裕乃さんの母親は、日本舞踊の師範。裕乃さんも2歳の頃から日本舞踊を習い始め、「自分の元だと甘えが出てちゃんと学べないから」という母親の方針で、別の師範についた。

小学校2年生のとき、縁があって歌舞伎の舞台に子役として立つことになった。故・中村勘三郎(18代目)さんや坂東玉三郎さん(5代目)といった一流の歌舞伎役者に、長唄や鳴り物を演奏する地方。大道具や小道具、衣装、鬘屋、床山、照明や楽屋係などの裏方さんたち。伝統芸能を支えるプロ中のプロたちに囲まれて、礼儀作法と芸を叩き込まれた。厳しい稽古や舞台を前にして、ときには緊張のあまりひきつけをおこしたり、食事が喉に入らないこともあったが、卒業まで続けた。

中学入学のタイミングで、両親から「このまま芝居の道を進むのか、普通の学生として学業をするのか」選択するようにいわれ、後者を選んだ。

父と祖父の死、そして祖母の介護 断念せざるを得なかったアメリカ生活

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(大学の生徒会メンバーとの一枚。留学生ひとり混じり、最初は物怖じしたが徐々に意見を言えるようになり、大学運営に積極的に関わった)

中学に上がると、裕乃さんは歌舞伎に注いでいたエネルギーを、英語の勉強に向けた。

中学2年のときに区で選ばれ、オーストラリアに派遣される機会を得た。雄大な自然や無数の星がきらめく夜空に圧倒された。英語不足でホストファミリーとうまくコミュニケーションがとれず、悔しい想いもした。

それまで知らなかった世界に触れ、自分の視野の狭さに気づいた。もっと広い世界を見たい、知りたい。強い想いに駆られた。

この経験が、アメリカの大学進学へとつながった。

大学では、留学生組織の会長を務めたり、大学運営に決定権を持つ生徒会のメンバーに留学生で唯一選ばれ、予算配分に意見したり、学内イベントを企画・運営したり。学費反対の訴えを州政府に伝えるため、当時知事だったアーノルド・シュワルツェネッガーに直訴しに行ったこともある。

充実した学生生活を満喫し、卒業後もアメリカに残るつもりだったが、卒業間近のある日、日本から思いがけない知らせが届いた。

父親が危篤だという。

「わたしが高校生の頃から父は肺癌を患っていたのですが、そんなに深刻な状況ではなく、治療は順調に進んでいると病院から説明を受けていました。それなのに、容体が急変したらしく…」

突然のことに驚き、できる限り早い帰国便をとったが、間に合わなかった。

「日本に向かうフライト中に父は息をひきとり、父の最期を看取ることができませんでした」
「一人っ子なので、わたしがアメリカに戻れば、母はひとりになってしまう。父の急死にショックを受けている母を残して、日本を離れることはできませんでした」

父親の死後、諸々の手続きをすませたあと、裕乃さんは一旦アメリカに戻り、卒業や引っ越しに必要な用事をこなし、教授や友人たちにお別れの挨拶をして、日本に帰国することにした。

当初は、母親の気持ちが落ち着くまで側にいて、1〜2年したらまたアメリカに戻るつもりだった。

ところが、その後祖父が倒れ、入院生活を送ったのちに亡くなった。間をおかず、今度は祖母が倒れ、ふたたび母と交互に病院に通う生活となった。自分たちと暮らしたいという祖母の望みを聞き、裕乃さんはできるかぎりのことをしたいと思った。

「母に『おばあちゃんを家に引き取ろう。一緒に介護をしよう』と自分から提案しました。祖母を自宅に迎え、母とふたりで介護をしました」
「食事や入浴、排泄など、祖母は生活のすべてにサポートが必要な状況でした。仕事をしながらの介護は楽ではなかったけれど、祖母は『人生でいまが1番幸せ』って言ってくれたんです。そのとき、この決断をしてよかったと心から思ったことを、いまでも覚えています」

9ヶ月にわたる介護生活ののち、祖母を看取った。父、祖父、そして祖母。立て続けに家族が亡くなり、帰国して4年近く経っていた。母を置いてアメリカに戻る選択肢は、現実的ではなくなっていた。

アメリカでの人生が遠ざかることに、身の切られるような痛みを感じた。でも、いま自分が日本にいなくてはいけない。貝のように自分を閉ざして、留学時代を思い出させるような情報はすべてシャットダウンした。

「本当に悪かったなといまは思うけれど、当時は大学の友人が連絡をくれても、返事をできませんでした。気持ちが落ち着くまで、距離をとる必要がありました」

時間が経つにつれ、母と共に日本で暮らしていくことを受けいれられるようになり、留学時代の友人たちとも徐々にまた連絡をとるようになった。

「ずっと音沙汰なしだったわたしを、みんなは受け入れてくれた。以前と変わらず接してくれた友人たちには、とても感謝しています」

こうして復活したアメリカの友人たちとの交流が、裕乃さんが通訳案内士の仕事を始めるきっかけとなり、のちのMBA入学へとつながっていくことになる。

(MBA入学後〜現在の裕乃さんについては、インタビュー記事本文をご覧いただけると嬉しいです!)

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