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現実逃避の文章

おざきです。
タイトルの通りです。

やるべきことが多すぎる

例えば今やっているドイツ語の勉強や、今度受ける予定の小論文テストの対策や、通っている経営大学院の予習復習や、明日の友達の結婚式のご祝儀の準備や、今度知り合いと集まる時の店の予約や、そんなことを本当はやらなければいけない。(本当は「やりたい」レベルのものもあるがあえて「やるべきこと」と書く)

やるべきことが多すぎると逆に何もしなくなるというのは俺の悪い癖だ。中学生の頃テスト前に勉強しなさすぎて今からやっても意味ないと思いそのまま赤点を何回かとったことがある。
本当はこんな文章など書く暇があれば終わらせられるタスクがいくつもあるのだが、人間という生き物はそんなに論理的でも合理的でもない、どうしようもなく恣意的な生き物なのだ。

最近の変化


最近は何か新しいことを始めたりやらなければいけないことに着手するハードルが明らかに前よりも上がっているように感じる。比較的何かを始めるのが好きだという自負がある自分としては、というかそれが唯一の取り柄と言ってもいい自分としてはかなり致命的な変化だ。

やらなければいけないことを前に何もしていない自分に耐えきれなかったので、何かやっているかのように自分を錯覚させるため先ほど夜の自由が丘の街をあてもなく30分ほど彷徨ってきた。すると街には誰かがやらなければいけないことをやったが故に出来上がった成果物で溢れていた。

煌々と輝く飲食店。このお店一つ一つが誰かのめんどくさい仕事によって存在していることを考えると眩暈がしてくる。
自由が丘のスタバ。店内では見るからにやるべきことをやっているであろう成人の男女が穏やかに談笑している。
駅付近の商業施設。自由が丘という街をさらにおしゃれにするためどこかのデベロッパーが想像もできないほどの「やらないといけないこと」をやり抜いた末にここに鎮座しているのだろう。


清潔そうな店内で食べられる一杯950円のラーメン、システム障害から完全に復旧しているマクドナルド、定刻通りに着く電車、サステナブルな素材から作られたシャツなど、世の中は優秀な人間たちの成果物で溢れかえっている。
それはそうだ、世に出ている・機能しているということがすでに優秀な成果物である証拠だ。そうでないものはそもそも世に出ないか、出てもすぐに淘汰される。

持続可能な脱成長


「持続可能な脱成長」という言葉があるらしい。それが実現された社会においては、物質的なモノの蓄積は人々の中での主要な価値とみなされず、効率性よりも充実性、テクノロジーの革新だけでなく、人々が生き生きとシンプルに生きるための技術や社会的革新が追求されるという。


GDPやROEだけで評価するのをやめよう、うちらにとって何が幸せかを再解釈しようという動きと理解しているが、個人レベルでは少しの勇気で意外と実践できるのではないかという気がしている。
例えば地方の古民家に住みながらスモールビジネスを行ないつつ贅沢をしない暮らしをすれば今よりも自由な生活になるのではないか。かなり解像度の低い想像ではあるが、実際にそれに近い生活を送っている人もネット上では散見される。


ああ神よ 変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そしてその2つを区別する賢さをお与えください。

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