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和山やまのファンが語る、映画「カラオケ行こ!」の余白

私は、和山やまさんの作品が好きだ。

最初に『女の園の星』の1巻に出会って、そこから2・3巻も追って読んでいるし、『夢中さ、きみに。』『カラオケ行こ!』『ファミレス行こ。上』も含めて、何度読み返したか分からない。


和山作品は、私の中で読み返す率が非常に高いのだが、その理由として、1つのことに対する情報量が少なく、時間がサクサク進む漫画であることがあると思う。
例えばスポ根漫画だと、主人公がある技を出すときは、心情をたっぷり語り、たっぷり表情に出し、気迫を込めて出す。なので、1つの出来事にかける時間が多くなり、1試合で5巻以上の巻数になったりする。

でも和山作品は、日常が淡々と進む。
『女の園の星』第1話なんて、主人公の星先生が担任をする女子高生たちに
「気をつけてお帰りくださいませ」
と言ったあとの女子高生の会話、

「お帰りくださいませってウケるんだけど」
「敬いすぎ」
「ねぇ駅前の回転寿司いっつも人並んでるよね〜」
「おいしいのかなぁ行きた〜い😆」
「あんたダイエット中って言ってたじゃん」
「あはははは…」

『女の園の星1』p.31~32

に星先生は一切リアクションをしない。(愚痴を言われたりイジられながらも、なんともテキトーに扱われて空気のような存在になっている、女子校の男性の先生のリアリティがすごい。)
冒頭なんて、

「昨日久々に体重計のったら3キロ増えててマジ萎えたわ…」
「運動部入って痩せなよ」
「無理無理」

『女の園の星1』p.3

とはじまる。
ネタの宝庫、広げがいのあるキーワードが詰まったこの会話が、さらっと流される。
女子校の女子高生の会話ってくだらないものばっかり。自分の言う言葉にそんなに責任を持っていないし、誰かが言う1言1言に100%全力投球で返してない。

でもこんな会話ばかりなのが、日常だ。
通常の漫画の、人間に刺さる言葉ばかり紡ぐ世界観から一線を外しているのが、和山作品の魅力である。


特に『女の園の星』だと、私が女子校出身であることもあり、妙なリアリティがあるのが面白い。1話完結でサクサク進むちょっと謎めいたエピソードにも、先生にあだ名をつけたり自習時間の無法地帯だったり、なんとなく心当たりがあって、親近感があるのがよい。


それの男子校版が、『夢中さ、きみに。』なんだと思う。私は男子の青春は分からないが、今まで通ってきた、QuizKnock・TeamNACS・空気階段など芸人の世界・父の男子校エピソードに通じる「男子の日常のなにか」が、『夢中さ、きみに。』からも香る。
和山さんが、友情を少し超えた男性同士の関係(安易なアルファベットで型にはめたくない繊細な交友関係)を描くのがお得意?ということもあり、惹きつけられて胸にくるなにかがあり、読み返してしまう。あえて言葉にするならば、「青春真っ只中のあの時は気付いていなかった、毎日の一瞬一瞬を切り取ったときの日常の貴重さ」+「個を持った2人の交流の温かさ」という感じ。


ただ、『カラオケ行こ!』は、日常ではない。
和山作品の中では少し特殊な作品だと思っていたので、映画という原作と異なるアウトプットで違う知見を得たいと思い、本日やっと鑑賞した。

ざっくりしたあらすじは、ヤクザの成田狂児が、組でのカラオケ大会で、歌ヘタ王の刺青を避けるため、合唱部部長の中学生である岡聡実に教えを乞う話だ。ヤクザと普通に暮らしている中学生なんて、99.9%交わらない。
他の人の感想だと、この作品の魅力は「狂児と聡実の名前のつかない交流」なのだと思うが、自分の中ではピンと来ず、何に自分が掴まれているのかがよく分からず、なんとなく読み返していた。


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でも、この映画を観て、再度原作も読み返し、『カラオケ行こ!』の魅力が分かった。

狂児は、カラオケを教えてもらうという目的があって、聡実くんに会いに行く。ヤクザというだけあって、刺青を入れられたくないし兄貴が音楽教室に通っているからと、聡実くんに積極的に関わっていく押しの強さがある。

でも聡実くんは、何を思ってヤクザに関わっていったのか、聡実くん自身もよく分かっていない。

それこそが、この作品の魅力だ。
『カラオケ行こ!』は、聡実くんの物語なのだ。


映画では特に、聡実くんは、狂児のことをどう思っていたのかをストレートに語らない。
狂児が自分の元を去った後、思い出を振り返るように最後に心の思いを必要最低限で吐露するだけである。


なんで

  • 自ら合唱部をサボって狂児とのカラオケに行くのか

  • カラオケ中に抜け出さず、家族の夕食もあるのに毎回チャーハンを食べるのか

  • 手間をかけて狂児へのおすすめ曲を見繕ったのか

  • 狂児だけなら一緒にカラオケに行っていいのか

  • 狂児にお父さんの謎守りを渡したいと思ったのか

  • あの時あの瞬間に、フリーザみたいに怒ったのか

  • 合唱部の引退公演を捨てて、狂児の元に走ったのか

  • 鎮魂歌の「紅」を声を掠らせながら歌ったのか

を、聡実くん自身も分かってないのだ。

映画では、学校生活でも聡実くんの心がなんともふわふわしていることが、より協調されていた。
合唱部のパートが足されたことで、聡実くんの学校生活の人間関係が原作よりはっきり見えたし、映画を観る部での謎時間が足されたことで、合唱部という日常と狂児という異世界を繋ぐ“日常の異世界”というトンネルが出来ていた。

(心情を多く語らず、思春期の心情を余白で示す脚本、さすが野木さんとしか言いようがない。原作では文集で言語化されていた部分が、映像では余白で表現されてた。名刺の入れ場所だったり、ヤクザ街に足を運ぶ理由だったり、そんなことある?という原作の要素を小さくして、なんとも現実にありそうな状況に寄せていく工夫も素晴らしい。お父さんの傘のセンスと和田くんのキャラ付け、面白かった。)


聡実くんは、迷える子羊だったのだ。



では、聡実くんにとって、狂児との交流は、何だったのか。

それは、原作のフリーザのシーンで、上手く言語化されている。

なにをしてもうまく行かない苛立ちか、自分の未熟さや浅ましさに情けなくなったのか、ワケもわからず腹を立てていました。

原作『カラオケ行こ!』p.87


だから聡実くんは、ワケもわからず、突然現れた狂児というヤクザに関わっていくのだ。
思春期、だけに関わらず人間がなにかよく分からず抱えているモヤモヤした気持ちの結晶が、聡実と狂児の交流なのだ。


(そんな2人の交流の続きを、『ファミレス行こ。』で見られることが本当に嬉しい。聡実くんが少し大人になっても、受け身主義が染み付いちゃってるのが変わってなくていい。)



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いま私も、ワケも分からずに腹を立てている。

その原因は、今後の自分の人生に対する葛藤なのだが、映画を通して聡実くんを見て、そして帰ってきてから原作を読み返して、そんな自分の気持ちは、とりあえずはそのままでまぁいいか、と思えた。

困難(聡実くんは変声期)から逃げるのも一つの手段だし、

ここで逃げてはダメだ。

原作『カラオケ行こ!』p.109

というときもある。

普通に暮らし真面目に勉強して穏やかに反抗期を迎え波風立てず人と付き合ってきたけど
いつかどっかで歯車が狂う

原作『カラオケ行こ!』p.155

こともある。

だから、いまのモヤモヤはとりあえずはそのままでいいのかな、とこの作品を通して感じられた。
何かあったそのときの、自分の瞬発的な決断に従おうかな、とポジティブに思う。



原作と映画を両方観ることで、両方を合わせた作品そのものの主題や魅力を理解できた、非常に上質な体験だった。
だいぶ久しぶりの映画鑑賞、観て良かった。


P.S. 私は合唱・中学生の思春期・三角関係に結構なトラウマがありまして、映像化によってそこが際立って、なんかどうにもならない思いが生まれちゃった。引退公演のすっぽかしとか身に覚えがありすぎる。だからこそ、ひとえに感動だけには留まらない自分の葛藤が誘発されて、原作よりの自分ごとの感想になっちゃった気がする。何回も観れば重い蓋が開くと思うけど、まだそこまでの勇気がない。いつかこのモヤモヤ、上手く言語化できたらいいけど…。

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