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あいさつは心でするもの

松原泰道老師は東京・港区にある臨済宗・龍源寺のご住職だった。
1907年に生まれ。2009年、101歳で逝去されるまで、仏教界の重鎮のお一人だった。

41歳の時に出版した『般若心経入門』(祥伝社刊)が記録的ベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけを作った方だ。

松原老師の講演を聴いたのは25年ほど前。老師はそのとき、92歳。
「現代人が失ったもの、それは『呼びかけ』『声かけ』だと話されていた。

そう言えば、便利な世の中になったと感じることのひとつが、
ものを言われなくても「買い物ができる」、
つまりある程度の用足しができるということだ。
筋肉も脳も使わないと衰えることは一般にいわれているが、
「言葉も使わなければ心が退化していく」と松原老師。

「呼びかけ」や「声かけ」は心を使う行為なのだ。

大学の先生の話が面白かった。
朝、1人の女子大生に「おはよう」と声を掛けたら返事がなかった。
「何で黙っているの?」と聞いたら、
返ってきたのは「何か言わなきゃいけないんですか?」という言葉。
「いい悪いじゃなくて、『おはよう』とあいさつされたら、
『おはよう』と返すのが基本的なマナーだよ」と言うと、
その学生はこう言った。
「朝テレビニュースのキャスターが『おはようございます』と言いますよね。先生はその時、『おはようございます』と返されますか?」
先生は言葉を失った。

「あいさつができないのは心がないからです」と松原老師。
なるほど。あいさつは心でするものなのだ。

ある劇場のトイレの話も面白かった。
奥様と一緒に行ったその劇場でのこと。
休憩時間にお二人ともトイレに行った。
男子トイレに行列ができていたが、
それ以上に女子トイレもかなりの行列ができていたそうだ。

女子トイレで奥様は美しい光景を目にした。
あまりにも感動したので夫である松原老師にすぐに報告したのだという。
その時、1人の中年女性の順番が来た。
すると、その女性は後ろを振り返って「お先に失礼します」と言って、
ちょっと頭を下げたのだそうだ。
今どき、そんなことをしてトイレに入る人がいるだろか。

さらに驚くべきことに、その女性が個室から出てきた時、
次の人にこう言った。「お待たせしました」
すると、さらに驚くべきことが起きた。
次に並んでいた若い女性が、
後ろにいたお年寄りに「お先にどうぞ」と言ったのである。

「そうか、みんな温かい心を持っているんだ。
でも誰かがその心の扉をノックしないとその心が出てこないんだ」と老師。

老師は中学校の時の英語の教科書に書かれてあった一文を思い出した。
「1人では何もできない。だが1人が始めなければ何もできない」

「誰かが始めたらやるんだが…」という気持ちは誰でも持っている。
その「最初の1人」になることを、仏教用語で「菩薩になる」と言う。

菩薩にはなれないと思うが、
「呼びかけ」「声かけ」くらいはできるかもしれない。
それが誰かの温かい心を呼び覚ますとしたら、勇気を出してやってみよう。


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