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「ビューティフル・ドリーマー」と「エンドレスエイト」と資本主義

ももクロ→エビ中→東北産の魅力」で書いた文章を編集・加筆して掲載します。



ビューティフル・ドリーマー


映画『うる星やつら2  ビューティフル・ドリーマー』は、難解な作品で、納得できる評論は読んだことがないのですが、簡単に私論を書きます。

この作品は、高橋留美子の原作を、押井守が勝手解釈して、自分の思想を表現した作品であると思います。

結論から書けば、『ビューティフル・ドリーマー』が描く「学園祭前日が繰り返される時空」は、「半祝祭」的な状態が常態化した「資本主義の日常」を表現しています。

学生にとって、学園祭は「非日常」です。

だから、その準備をしている学園祭前日は、半祝祭的な「半非日常」です。

伝統的な文化では、「日常(ケ)」とお祭りの「非日常(ハレ)」のサイクルが繰り返されます。

ところが、資本主義の世界では、商品が非日常的な刺激を取り込んで、毎日の生活を作り出すので、毎日が半祝祭的になります。

『ビューティフル・ドリーマー』では、登場人物の中から、早々に、温泉マーク(教師)、しのぶと、錯乱坊(僧侶)が、この時空から消され、この世界を石像として支える存在になります。

なぜなら、学校で仕事をしている教師の温泉マーク、しのぶは「日常」、僧侶の錯乱坊は「非日常」の象徴だからです。

『ビューティフル・ドリーマー』の時空は、伝統的な世界の「日常」と「非日常」を排除することで成り立っているのです。

『うる星やつら』という作品は、主人公の少年あたるが、ラムちゃんという異界の存在をつかまえて、日常に引き込んだことで、いつもにぎやかな「半祝祭」的な生活が始まりました。

これは、「資本主義的日常」の始まりを象徴している、というのが、押井監督の解釈なのです。

ラムちゃんは、「資本主義の女神」というわけです。

・伝統文化の日常  :温泉マーク、しのぶ
・伝統文化の非日常 :錯乱坊
・資本主義の半非日常:ラム

だから、『ビューティフル・ドリーマー』の時空は、ラムちゃんの見る夢であって、夢邪鬼という妖怪的存在が、その夢を現実化しているのでした。

でも、それは、単に個人の夢ではなく、資本主義が作る共同幻想のことです。
その夢、つまり、資本主義の日常は、甘美です。

それなら、ラムちゃんは、「ビューティフル・ドリーマー」なのでしょうか?

夢邪鬼はそうだと思いました。
でも、あたるは、限界のない欲望の自由を求めて現実へ戻ろうとします。

夢邪鬼は、それを思い留まらせようとして、あたるに、現実に戻る人間が体験するだろう体験を多重夢の悪夢として見せます。

それでもあたるは、彼女の夢を終わらせます。

少女のラムちゃんに、「好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ」と語って。

彼は、自分で「ビューティフル・ドリーマー」になろうとしたのでしょう。


エンドレスエイト


「ビューティフル・ドリーマー」はたくさんの作品に影響を与えましたが、「涼宮ハルヒ・シリーズ」、特にアニメ版「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」のストーリーは、この影響を受けた作品でしょう。

「ビューティフル・ドリーマー」は、ラムちゃんの見る夢が現実化した世界の中で、「学園祭前日」が無限ループするのに対して、「エンドレスエイト」は、ハルヒの無意識の願望が現実化する世界の中で、「二学期直前」の「夏休み最後の2週間」が無限ループする話です。

このアニメ版は、谷川流の原作ライト・ノベルでは短編だったものを、大幅に拡大して8話に渡ってループします。
(すみませんが、私は、小説版を読んでいません。)

ハルヒは、自分が無意識で望んでいるものを、物理法則を越えてまで宇宙スケールで実現してしまう、超・超能力を持っていますが、自分ではそれに気づいていないのです。

ハルヒの物語の世界は、ハルヒの夢のような世界なのです。
その意味では、ハルヒは、「ビューティフル・ドリーマー」のラムちゃんに似ています。

「エンドレスエイト」で、ハルヒが無限ルーパーになっていた理由は、無意識のレベルで、夏休みを後悔なく満喫しきっていないからでした。

ですから、ラムちゃんは夢のループを終わらせたくないのに対して、ハルヒは満足できないのでループしているのです。

それに、「エンドレスエイト」は、「ビューティフル・ドリーマー」のように、資本主義の構造を表現するような意図はないでしょう。

その点では、「うる星やつら」の原作に近く、ラム、ハルヒをきっかけにして、自然に資本主義的な世界が表現されているとも解釈できます。

「ビューティフル・ドリーマー」で、主人公の少年あたるがループを終わらせたのと同じように、「エンドレスエイト」でも、主人公の少年キョンがループを終わらせます。

しかし、キョンが終わらせたのは、あくまでもループであって、あたるのように、その世界ではありません。

その後の劇場版「涼宮ハルヒの消失」では、キョンは、ハルヒが超・超能力をもった世界を終わらせて、普通の世界にするかどうかの二者択一を迫られます。

そして、終わらせないこと、つまり、ハルヒの願望が実現する、彼女の夢の中にいるような、奇想天外なSF的世界を選びます。

つまり、あたるはラムの夢に満足しない、資本主義に飽き足らない欲望を持ち、ラムの夢の外に出ました。

ですが、キョンは、欲望が実現されるまで世界をループさせるようなハルヒの欲望に期待をかけ、その中から協力するのです。


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