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漫画「風の谷のナウシカ」と4つの社会体制

パソコンの中にあったメモを掲載します。

手元に漫画もなく、しっかりした文章にまとめていない草稿メモ的な文章です。

漫画「風の谷のナウシカ」の中心テーマは、ある種の原罪を認めながらそれを受容する「生命肯定主義」で、それを王権論、救済論、社会体制論と結びつけているように思います。


族長でも王でも皇帝でもなく


経済・政治体制、それと対応する宗教・思想が異なる4種の社会が描かれる。

(社会形態) (トップ) (作中組織) (思想)
・帝国   :皇帝   :ドルク   :清濁二元論
・王国   :王    :トルメキア :聖俗二重性
・部族共同体:族長   :風の谷   :シャーマニズム
・遊動狩猟民:なし?  :森の人   :シャーマニズム以前?

現実社会では、この4つを下へと、つまり、人類史を遡るほど、純粋な生命肯定思想を持っていて、思想的には二項対立を固定せず、権力を集中させない。

また、現実社会では、国家以前の「部族共同体(定住農耕民)」の「族長」は、平時の調停者である。

部族共同体には他に「シャーマン」と「戦士長」がいるが、この3役は兼任できない。

だが、「王」はこの3つ、政治、宗教、軍事の権威を一身に集約する存在。

ナウシカは最初から「族長」、「シャーマン」、「戦士長」の性質を持つ(候補者)なので、「王」的存在。

それだけではなく、科学者であり、哲学者であり、破壊者であり、救世主であり、皆の母であり…

キャラ的に欲張りすぎ。

ナウシカ(NSC)とクシャーナ(CSN)は、名前からして、二人は別方向にして一体。

トルメキア王国にいるクシャーナにとってはナウシカが「王」で、自分を「代王」とした。

ドルク帝国の「皇帝」は旧世界の知識を継承し、「清濁2元論」の普遍思想(世界宗教)を持つゆえに「皇帝」。

ドルクの墓所は選ばれた「王」だけを「皇帝」にする。

ところが、トルメキア王は墓所の思想を否定する。

「王」は日常と非日常、聖俗を兼ねた二重存在であり、「王」が常に「道化」を連れていることがこの二重性を示す。

だから、「王」は「王」のままでは「皇帝」にはなれない。

帝国の二元論普遍思想は、伝統的な意味での非日常性(二重性)を持たない。

その思想は、そもそも文字が無限に現れ、解釈が無限に続き、完結できないしろもの。

それを伝えるのは「生命」がない墓。

ナウシカも帝国の清濁二元的思想を否定した。

人間の罪を認めながらの原罪の浄化(エデン復帰、肉体を伴わない神の国)を否定する。

ドルクが継承している堕落・浄化・貯蔵・復活のプロジェクトは、旧約聖書の洪水・方舟神話と似ている。

ナウシカは、洪水計画とノアの方舟を破壊する。

神を破壊する神になる。

また、帝国を否定したナウシカは、エジプト帝国を否定して出エジプトしたモーゼとも似ている。

ナウシカは新しいものをもたらす(改革者である)風の人。

同時に、ナウシカは、部族共同体のドルク土民の救済信仰も否定した。

ラストで青い衣で金色の大地に立ったが、そこは清浄な野でない。

ドルク土民の宗教は帝国の二元論に汚染されている。

ナウシカのような多才で強力な指導者が出ると、部族共同体は王国になりそうになるが、ナウシカは王にならずにそれを否定した。

ちなみに、釈迦は王とならず、ナウシカのように戦わずに出家したので、シャカ族は王国に飲み込まれた。

「滅ぶべし」という虚無主義も、「改良すべし」という墓所の思想も、救済を求めるドルク土民の信仰も、すべて「清濁二元論」の範疇にある。

それに対して、ナウシカの「王蟲教」は、純粋な生命主義。

その生命は清濁を合わせ持つ。


シャーマンか、破壊者か


シャーマニズムの観点では、ナウシカは、酸の湖で王蟲の子供を助けて「青い衣」の者になってシャーマン候補者になった。

次に、粘菌に食べられる王蟲に食べられて(食べられ吐き出されるイニシエーション・テーマ)、その後、腐海の底、清浄の地を見る(霊界飛翔のイニシエーション・テーマ)ことで、シャーマンになった。

だが、その後、巨神兵を得て、シャーマンでなくなった。

ナウシカが巨神兵の母になりオーマと命名した時、ナウシカは強力な破壊力の行使者、破壊者、裁定者になった。

これを母性として描いてはいけない。

ナウシカは巨神兵を得た時、テトが死ぬ。

テトはシャーマンのスピリット・ヘルパー的存在。

つまり、ナウシカは裁定者(破壊者)になったことで、シャーマンではなくなった。

オーマを得た代わりにテトを失った。

これを描いたのは正しい。

オーマは攻撃力で、テトは守護力。

ナウシカがオーマの母になれた理由を正しく描くべきだった。

それは、ナウシカが母性を持っていたからではなくて、自分が正しいという確信でなければいけない。

王蟲の心を覗いてその生存の正しさを確信していることが根本。

墓所の卵の破壊は、清濁二元論の否定という中心テーマなので、これは悲劇ではない。

母性を持っているから卵を皆殺しにできる、Aは守りBは殺す、というのはおかしい。

破壊の正しさの確信こそが、オーマを使える理由でなければいけない。

ナウシカは、オーマの命名によって心を閉ざした。

だから、庭の主の心の攻撃を防げると言っている。

その代償がテトの死。

それは一方的な成長じゃなく、悲劇でもあって、その悪影響を描くべきだった。

心を閉ざしたのに、誰とも念話が自由にできているのは都合が良すぎる。

テトとの守護関係を失ったのに、森の人セルムとの守護関係が続くのも都合が良すぎる。

ナウシカは、墓所の血でさらに青く染まることで、救世主になった。

そして、ナウシカは事実上、ドルクの一時的な王になった。

その後、風の谷は族長制に戻り、ナウシカは最終的に風の谷を捨てたのだろう。

最後に、森の人の元に行くことで、原シャーマンに戻ったのか?

宮崎駿は、若い頃、マルクス思想を持った活動家だった。

森の人の元に戻ったナウシカは、原始共産制に戻ったのか?


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