13年間のマーチング人生を振り返る 【出会い~小学校編】

はじめに

(※私が今スタァライトというアニメにめっちゃハマってるので若干言い回しが影響されてます)

私は小学3年生の時から21歳の年までの13年間、マーチングに打ち込んできた。
その占める時間は今もなお人生の半分以上を占めていて、私の人生を語るのに不可欠な存在で、私の人格や価値観はそこで形成された。
私の全てだったと間違いなく言えたもの。そして私がその後にハマったコンテンツに”なぜ”惹きつけられたのかといった部分にまで関わってくる。
私にとってのマーチングは、スタァライトに登場する舞台少女にとっての舞台そのものと同じ。
マーチングに、生かされてきた。
今回はその、私のマーチング人生について自分の記憶の整理および記録として振り返っていこうと思う。

マーチングとは

そもそもマーチングを知らない人もいるだろう。それに、世間一般に認知されているマーチングと、私がやってきたマーチングは少しだけ違っている。
マーチングは、ざっくり言うと楽器を演奏しながら動いてさまざまなフォーメーションを作り上げる演奏形態である。
マーチングという名称を聞いたことがある人は、そのほとんどがテレビの「笑ってコラえて!」にある吹奏楽の旅というコーナーがきっかけじゃないかと思う。あとはアニメ作品「響け!ユーフォニアム」の影響もあるのではないだろうか。

世間一般的に認知されているマーチングは吹奏楽連盟が主催している大会(全日本マーチングコンテスト)のことを指していることが多く、有名なところで言うと京都橘高校や精華女子高校、市立柏高校などがある。
こちらの大会は基本理念に

この大会は「コンサートバンドがそのまま演奏しながらパレードをしよう」という一貫したコンセプトのもと開催されており、過度な演出や華美な服装を求めてはいません。

マーチングコンテスト 2023年度 規定課題 より

と掲げている通り、かなりかっちりとしていて、めちゃくちゃストレートに言うと地味である(当然悪いという意味ではない)。その上規定課題や制約も狭く、規定課題だと「外周パレード」や「180度ターン」、「指定の拍数以上のマークタイム(足踏み)」があったり、ピット(鍵盤などその場に置いて演奏する打楽器)やプロップ(ざっくり言うと大道具)は禁止だし、バトンやフラッグを投げるのも禁止されている。
文字だけだと伝わりにくいが、ちょっとお堅いイメージだ。そして部門も中学生の部と高等学校以上の部と二つだけで、小学生は一応「小学生バンドフェスティバル」というのはあるが、一般団体(有志の社会人が集まる団体)の枠はない。

これが世間一般的に認知されているであろう方のマーチングである。この大会は吹奏楽コンクールに出場しているようなザ・吹奏楽部が出ていることが多いイメージ。主催の団体も同じだし。
で、私がやってきたマーチングはこっちじゃない方だ。

主催は日本マーチングバンド協会で、その大会はマーチングバンド全国大会と言う。有名な学校で言うと湘南台高校や埼玉栄高校、西原高校などがある。聞き馴染みがないかもしれない(埼玉栄は吹奏楽部とマーチングバンド部が別で吹奏楽部も全国レベルなので聞いたことがある人もいるのではないだろうか)
吹奏楽連盟に比べて規定は緩く、規定課題はないし、ピットも大道具もありだし(サイズ規定はある)、フラッグやライフルもバンバン投げる。部門も小学生・中学生・高等学校・一般、あと幼保もありちっちゃい子たちの演奏する姿は大会の超癒しタイムとなっている。
それなりの規定はあるがかなり広い幅でなんでもできて、フロアを覆いつくすほどの布を用いて一瞬で衣装チェンジをする団体とか、フラッシュを焚いてピカピカ光る団体もいる。割と派手だけどもちろん派手じゃない団体もいるし、先に説明した吹奏楽連盟の大会と並行して出場する学校もある。

正直見ないとわからないところが多いが、プレイヤー側的には全く別のものだと思っている人が大半のように感じる。マーチング協会のプレイヤーは吹奏楽連盟の強豪すら知らないし、吹奏楽連盟のプレイヤーはマーチング協会の強豪すら知らないと言っても過言ではない。私はマーチングも吹奏楽(座奏)も好きだしやってたし、一時期は笑コラの吹奏楽の旅もしっかり録画して見ていたほどなので、まあここでほんのり話せるくらいには知っているわけである。

ざっくりしっかりめに偏ったマーチングの説明はこの辺にしておいて、私の話に入っていこうかと思う。あんまりちゃんと書くと出身校バレどころか個人の特定すら容易な経歴を辿ってしまっているので塩梅が難しいが、そういう細かいところを残したいのが私が今回書く目的でもあるので、ええいままよ!と書いてしまう。団体名は出さないけど。
こういうのって全然無関係の人にはわからないし、1番バレたくない知り合いにこそ簡単にバレるんですよね……。

出会い

私のマーチングとの出会いは5歳、いや誕生日を迎えてないから4歳か。5つ上の姉が小学校の金管バンドクラブに入部したのがきっかけだった。まだ幼かったのもあり、母親が練習を見に行くたびに連れていかれ、暇を持て余しひたすらゲーム機で遊んでいた子どもだった。まだまだマーチングの魅力など全くわかってなかったし、大会に連れていかれてもずっとゲーム機をぽちぽちしていた気がする。
ただ、姉が所属しているこのチームがめちゃくちゃすごいというのはなんとなくわかってて、実際に上で説明した吹奏楽連盟主催の大会も、マーチング協会主催の大会もどちらにも出場し優秀な成績を収めていたかなり知名度の高い小学校だった。
とはいえ4歳~7歳までの私には特によくわからず、とにかく姉はすごくて忙しくてがんばってるんだな~くらいだった。
その中で唯一、大会に連れていかれた時には、いろんな団体のカンパニーフロントと呼ばれるものが凄くお気に入りで、好きで、その時ばかりはゲームから目を離して見ていた記憶がおぼろげながらあった。カンパニーフロントとは、ショーの中で終盤の最も盛り上がるところを指していて、フォーメーションは様々だが横一直線に並び前進するのが一番よくあるパターン。ここの盛り上がりと、みんなで並んで進むのが幼いながらに唯一すごいな、好きだなってなったマーチングの1シーンだった。
これが私のマーチングとの出会い。

小学3年生

姉が中学に上がって間に一年挟み、私は小学3年生になった。するとどうやら「元々4年生からしか入れない金管バンドが、人数が減ってやばくて3年生からも入れるようになった」という話が流れてきた。けれど私は特にマーチングをやるつもりはなく聞き流していた。
正確な理由は正直覚えていないが、そのひとつには幼稚園生の年長さんの時にやった鼓笛隊でめちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃ怒られながらやった記憶があるのがひとつかもしれない。まじでめちゃくちゃ怒られた。バトンも上手くできないしリコーダーも上手くできないし演奏しながら歩かなきゃいけないし先生に怒られるしで、あんな風に怒られるのいやだし私にはできないしやろうとも全く思わなかった。ちなみに姉は幼稚園生の頃も優秀で、メジャーバトンをもって先頭を率いていた。姉、ずっとすごい。

そんな私に幼馴染の子が「金管やろうよ!」と声を掛けてきたのだった。その幼馴染(Yちゃん)は私と同じく姉が金管バンドに所属していた子で、しかも2人の姉どちらもやっていたのだった。その関係で幼稚園生の時から顔見知りで親同士もたいへん仲が良かった。幼稚園は違うところ通ってたのにね。
そんなYちゃんに誘われた私はなんだか嬉しくなっちゃって、「いいよ!」と入部を決意。学年で最速で体験に向かった。

有名な先輩の妹が2人揃ってやってきた緊張感は割と伝わってきて、というのも私の姉もYちゃんの姉も先輩の中でもかなり怖い方だったという。特に私の姉はマジで怖かったらしい。わかる。
そんな私たちは、よくわからないままに打楽器が並べられた部屋に通されてなんか知らないうちに打楽器パートに決まっていた。Yちゃんの一番上のお姉さんが打楽器だったのでその流れになり、のこのこと一緒にやってきた私もついでに半強制的に打楽器パートになったわけ。先に言っておくが、私はかなり丸め込まれやすいタイプだ。
その後も続々と同級生が入部してきて、活動が始まった。あとから入ってきた子たちがいろんな楽器を体験して自由に楽器を決めていくのを見て「えちょっとまって私選択しなかったよね?」とようやく気付く私。金管楽器やりたかった。トランペットやりたかった。もう遅い。

そうして大会の曲を練習しますとなった時に、なんと今年の打楽器は動きませんと言われた。マーチングの打楽器は二つに分けることができて、動きながら叩くバッテリーと鍵盤や銅鑼などの動かせない楽器を叩くフロントピットがあるのだが、バッテリーも動かないとの事だった。ピットエリアにスタンドで置いて、最大限いろんな楽器を使って音作りをするためと、単純にバッテリーラインを組むほどの人数がいなかったのがある。
私はてっきり太鼓をもってドカスカ叩きながら動き回れると思っていたのでかなりショックだった。私はピットパートになり、あてがわれた楽器はグロッケン(鉄琴)だった。

大会で結果を残すほどのチームだったのもあって練習はかなりハードだった。夏合宿もあったし、校外の体育館を借りて練習に行ったりもしたし、単純に休みが全然なかった。
打楽器パートではかなりしっかりとリズムの読み方を教えてくれたし、幼稚園生の頃に鼓笛隊で配られた譜面を見てなんとなく音符の仕組み(音階とリズム)を自力で解読していたのもあって譜読みはするすると出来た。
幼い頃の私は今より感覚肌で不思議な世界に生きていて、譜面を覚えるという感覚もなく気付いたら脳内に譜面が出来上がっていて、曲の進行に合わせてスライドしていくみたいな(当時はほとんど視界として見える感覚だった、中二病かも)なんか凄い感じで演奏していたので、ぱっと見順調だった。
一方Yちゃんはなかなか音符の読み方に苦戦していたので一緒に読んだりもしていた。

先生も先輩も超怖かったけど割とできるという感覚を持っていたし、演奏するのがすごく楽しかった。
グロッケンの譜面が主旋律に沿っていたから、自主練しているうちにみんなが私の演奏に合わせて段々集まってきて気付いたらパートの皆で合わせている、みたいな事があったりもして、とにかく楽しくて、みんなと演奏できるのが好きだった。

そんな感じで基本的に調子に乗っていた私、憧れの楽器があった。それがスネアドラム。この年は動かなくなったとなっていたバッテリーの中でも中心の存在で、手数が多くてかっこよくて、バンドのテンポ感を担う存在。
そのスネアがめちゃくちゃやりたかった私は、スネアの先輩が叩いてる譜面を耳コピして休憩時間に叩いていた。わ~~こんな感じかも!たのしい!って思いながら叩いていたら「おい!」と怒号が鳴り響いた。スネアの先輩だった。
「え、なに……?」と呆気にとられながら私は怒られた。よく覚えてないけど怒られた。「これを叩いてる私の気持ちにもなれ」みたいなことを言われた気がする。当時の私はめちゃくちゃ調子に乗っていたので「譜面を見ずとも聞いただけで叩けちゃった私に嫉妬してんのかな」と舐め腐った考えが過ぎったが、とにかく人のパートを奪っちゃいけないんだなということは理解した。別に休憩時間に叩くくらいいいじゃんね。やっぱ嫉妬なんじゃないかな……。
今考えても、スネアの譜面は最も高度なので技術的な向上すら妨げるクソバイス&リフジン・ザ・パンチでしかないなと思う。殴られてはいません。
他人の譜面を練習する暇があったら自分の譜面を練習しろということでもあったし、それはまあわからなくはないけどやっぱり息抜きって大事だと思うんだよね……。でもさすがに一番下のガキがやってたらちょっとイラっとしてしまうかもしれない。でも当時譜面はちゃんとさらえていたのでデカい声で叱るような事ではないと思うんだよな。

今更何言ってんだか。

そんなアクシデントがありつつ季節は過ぎ、ジャパンカップも都大会も終え関東大会がやってきた。演奏を終え結果発表に。
告げられた結果は銀賞だった。全国への切符は金賞を獲った中から選ばれる。つまり私たちはここで落選となる。
(近年はだいぶ認知されてきたように感じるが、吹奏楽やマーチングの大会では1位=金、2位=銀、3位=銅、ではなく全ての学校にいずれかの賞が与えられる仕組みになっている。マーチングバンドの小中学生の部だと何点〜何点が銅、何点〜何点が銀、それ以上が金と分けられ、高校・一般は枠の中で3:3:3になるように賞が与えられる)
世間を舐め腐ったクソガキだったのと、姉がいた頃は当たり前に全国大会金賞だったので、当たり前に関東大会では金賞を獲って全国大会にいくと思ってた。だから全国に行けない、ましてや銀賞を取ることなんて頭の片隅にもなかった。
頭をガツンと殴られたようなショックに陥った。6年生とはもうマーチングが出来ない。意味がわからなかった。そうして小学3年生の、初の大会シーズンを終えた。

小学4年生

小学4年生に上がった私は何度も顧問の先生のところに行っていた。トランペットパートの移動を申し出ては断られていたのだった。
割とずっとトランペットをやりたかった(らしい)のと、パーカッションの練習をしていてなんか違うな、つまらないなと思うことが増えていた。こう、みんなで合わせる楽しさみたいなのが無くなっちゃったのだ。で、めちゃくちゃしつこく、今となっては羨ましいほどの執念深さで何度も先生に言いに行ってたのである。頻度は覚えてないけど。
そしてある日、いつものように「先生、トランペットをやりたいです」と言いに行くと「じゃあチューバをやりなさい」と言われた。私は「やった!楽器が吹ける!」と思い快諾した。トランペットとチューバなんて金管の中では真反対の楽器なのに、能天気過ぎて快く受け入れてしまったのだ。アホすぎる。

これはだいぶ後になってから聞いた話だったのだが、あまりに私がしつこく先生に打診しているのを見かねた母親が先生に「『チューバをやれ』って言われたらさすがに無理だと諦めてくれると思います」と根回ししていたのだった。母親も先生も諦めさせたくて言ったのに、バカな私はまっすぐと受け入れてしまったので焦ったらしい。

確かにチューバへの移動を認められた日、私はスキップで帰宅して母と姉に「チューバになった!!」と元気に報告したのだが、2人そろって「ばかじゃないの」「無理に決まってるじゃん」と全力で否定してきた。頑固だった私は本気で心配されてるとか焦っているなんて全く思わず、からかわれていると感じたので否定がショックだったし、絶対に立派にチューバを担いでみせる!と逆に燃えてしまった。

チューバという楽器は低音の金管楽器(ローブラス)で、管楽器の中で最も重い楽器。よくスーザフォンを思い浮かべられるがプラスチックで出来ているので重さがまるで違う(らしい)し、見た目もかなり違う。
一応体の小さい子用にミニチューというのがあって、小学生はそれを使っているのがほとんどだが、あまり小学女児がやる楽器ではないだろう。太ってて図体は割とでかいというか、ぽよぽよだったが。とほほ。
たぶん普通のチューバが10kg程で、ミニチューは……どうだろう、6.5kgとかかな。かなり軽い。回せるくらい。

チューバに移った私とほぼ同時期にユーフォからガタイのいい女の6年生が移動してきた。そして数か月も経たないうちに元々いた6年生の男子は辞めてしまった。かなりまずい状況である、彼はなにも引継ぎなどせずに辞めてしまったのだ。

残された女の先輩は常に「○○君がなにも教えてくれなかったからわからない」の一点張りだった。そのうえ彼女は楽譜が読めなかった。ちなみに副部長だったのだがあまりに使えなさすぎる。
早々にその先輩を頼ることもなにもかもを諦めた私は自力で楽譜もコンテ(マーチングのフォーメーションが書いてある紙)も読み、クソガキ頑固を発動して先輩がリズムも音程もめちゃくちゃのを吹いているのすらガン無視した。無駄無駄、ばーかばーかと思いながら隣で吹いていた。
この先輩、いっちょ前に先輩面をして指導はしてこようとするのだが、マジで舐め腐っていた私は先輩が喋っているのにも関わらず楽器を吹きながら片手間に話を聞いていた。マジでヤバいガキ過ぎる。
練習ノートに先輩から「話を聞きながら楽器を吹くのはやめましょう」と書かれていたのをいまだに覚えている。まあでも尊敬するに値しなかったのでしょうがない。譜面を読めるようになってから来てくださいという気持ちだった。

余談だが、小学生キッズらしく部内の6年生間で大げんかが勃発し、部長派と副部長派で真っ二つに分かれた時期があった。部長はトランペットの結構上手い先輩(すごく怖い)で、副部長は前述の通りチューバの直属のカス先輩。マジでしょーもない。
で、私はまあ空気を読んだら直属の先輩である副部長派につくべきだったのだが、その人を舐め腐っていたのと、本気でこの派閥争いをくだらないと蔑んでいたのと、波音を立てずにやり過ごせる方法を取れるほど大人じゃなかったため、どちらにもつかないという選択をしていた。

そんなバラバラな状態で上手くいくわけがなく、この年も関東大会銀賞で終わった。最後までしょうもない人たちの集まりだったし、先輩は最後まで譜面を読めなかった。

小学5年生

そして小学5年生になった。もうかなり衰退してしまい、ゆとり教育的なサムシングで練習も午後5時くらいで切り上げないといけなかったり、夏合宿もなくなったりとかなりゆる~いクラブになっていた。マーチングへのモチベーションはあったが気持ちだけじゃどうにもならなくて、外部講師の先生もどんどんやさしくなってしまうしで、ぬるかった。

もうすぐ都大会!という時になって大変な速報がやってくる。
昨年までは都大会の出場校はたったの2校、そのうえ関東大会への推薦枠は2校。つまるところなにもせずとも関東大会には行けるシステムだった。
のだが今年は参加が3校に増えたという。しかもその増えたのは吹奏楽連盟の方で全国大会に出ているような強豪で、人数も多い。かなりピンチな状況。

この危機的状況を私たちは打開できなかった。そう、都大会で一番下の成績になり、ついに関東大会の出場すら出来なかった。
この年の6年生(1歳上)とはかなり仲良くさせてもらっていて、思い入れもあったのでかなり悔しかった。ただでさえ自分の目指すところは全国大会の舞台なのに、世話になった先輩をそんな無念な結果で終わらせてしまったのが不甲斐なかった。

たった数年前まで、姉がいた時までは全国の小学生の中でトップクラスだったバンド。小学生とも思えないほどに高度な音作りと精緻なドリル(動き・フォーメーションのこと)。マーチングを始めてからは何度も何度も姉の頃の動画を見てその並外れた上手さに感動して、ああなりたいと願っていたのに、どんどんその背中が遠くなっていく。
一発逆転でいきなり全国金までは戻れないかもしれないが、どうにか再興したいと、そう思って小学5年生を終えた。

小学6年生

小学6年生になって間もない頃だったか、顧問の先生が倒れた。
先生はもう還暦も優に超え、覚えてないけど80歳くらいのおばあちゃんだった。常に杖を手に持ち、歩きは遅かったが、そんなのは関係なくこのバンド結成当初から率いて全国トップクラスに育て上げてくれていた、間違いなく超優秀な指導者だった。

その先生がもう教師は続けられない状態になってしまい、顧問の変更を余儀なくされた。新しい先生は髪の毛量が心許ない中年の男性。どこかの中学で吹奏楽部は指揮していたらしく、最初は全くわからない人が来るよりはマシだと思ったが間違いだった。
その先生はかなり吹奏楽連盟側に傾いている人で、それが悪いということではないが当時の私たちとの相性は最悪だった。私たちが最も目指しているのはマーチング協会主催の方だったが、その顧問は私たちになにも言わず、マーチング協会の出演を辞め、吹奏楽連盟主催の小学生バンドフェスティバルの方に舵を切ったのだ。
他にも少人数で演奏するアンサンブルコンテストの参加を決められて曲を渡されたり、とにかく全ての思想が先生対部員で真反対だった。

先生のやりたいことは何一つ合わず、私たちが目指しやりたかったことは何一つできなかった

部員の減少も留まることを知らず、この年は4学年で合わせて18人くらいだったと思う。これはめちゃくちゃ少ない。マーチングのフィールドは30m×30mの正方形が基本で、150人くらいの大編成になると枠を超えることはあるが、18人でそのフィールドを使うとなると空間が余ってしまい、簡単に言うと前の15m×20mくらいでも充分過ぎるくらいだ。そんな狭い空間でやるドリルなんてたかが知れている。
顧問の方針的にも、部員の人数的にもあらゆるものに制約がかかる。辛いというか、もどかしい一年だった。

同学年の子たちは気の強い子が多く(というか割とマーチングをやってる人はハッキリとした性格の子が多い、そのうえワガママな小学生の子どもだ)、先生への不満が限界突破した結果、どうやら先生を泣かせてしまったときがあったらしい。私は全く覚えてないけどやりかねないなと思った。
恐ろしい小学生キッズだ。
でもそのくらい、先生と私たちの間には溝が開き不満が積もっていた。

私もかなり消化不良だった。無念ばかりが積もっていく。あの輝かしい過去が見る影もなく落ちぶれ、自分たちの手で壊した。そんな自責の念もあった。
こんなので終わらせられない。全国大会に出たい、金賞を獲りたい。
憧れたカッコイイマーチングをしたい。その気持ちが膨れていった。

進路

歴代の先輩方の中には中学進学後もマーチングを続けた人たちがそこそこの人数いた。いくつか選択肢がある中で一番進学率の高かった中学校の公開練習が、全国大会を一週間後に控えた日にあると聞き、私は観に行った。

その中学校は全国大会で優秀な成績を収めていた超強豪校。
スタイルも私が求めているものに近かった。
というのは、マーチングバンドには楽器を演奏するブラス(管楽器)・バッテリー(動く打楽器)・ピット(動かない打楽器)の他に、カラーガードと呼ばれるダンスを踊ったりフラッグやライフルを回したり投げたりする、視覚効果を担当するパートがある。あとは最初の説明にもあったプロップという大道具を用いて、表現するテーマを伝わりやすくしたり、お立ち台を作ってその上に立って演奏したりするバンドもあるのだが、当時の私はそれらを受け付けていなかったのだった。
存在を否定していたのではなく、とにかく私がやりたいのはカラーガードもプロップもなく、楽器とその演奏者のドリルだけで魅せたいと、そう思っていた。

それに、指揮者も生徒であってほしかった。小・中・高の中には顧問の先生が指揮を振る学校もあれば、生徒が指揮を振る(DM=ドラムメジャーと呼ぶ)学校もある。
大抵は、先生が振るところは先生がスーツを着ていて、生徒が振るところはバンドと同じようにユニフォームを着ている。指揮だけ先生でスーツを着ていることのなんとなくの違和感と、生徒だけでマーチングを成立させたい、という想いから、私はDMを置いている団体で演奏したかった。

その両方を満たす、いや全国大会常連の実力も含め3つの条件を満たすのがその中学校だったわけだ。
とにかく私の理想は姉がやってたマーチングだった。あれをやりたかったし、あれになりたかった
唯一、楽器編成が小学校は金管バンドで、中学校は吹奏楽だったのが相違点だったが、この際その妥協は必要だった。それより他の条件の方が大事だったし、音楽が上手いなら問題じゃなかった。

そんな理想的な学校の公開練習に行き、
私は、運命の出会いをした。
(ふふ、スタァライトっぽく表現したかっただけです。でも本当に運命だった)

近隣の体育館を借りて行われていた練習。テキパキと行動しハキハキとした返事が飛び交う。緊張感のある雰囲気に息を呑んで見学していた。
カウントが始まる。ショーのどの部分かもまだわからないけれど、ドリルが展開していき、一列に並んで、一歩目と同時に鳴った一音目で、私はハッとした。

この曲を私は知っている。

たった一音目でわかるくらい、耳に馴染んだ曲。

当時の私には唯一めちゃくちゃ好きな吹奏楽曲があった。その曲は姉が出ていた2006年の全国大会のDVDのオープニングに使われていた曲で、華々しいファンファーレのような曲だった。しかしそのオープニング映像で使われている数秒間しか知らず、曲名もわからず、それでも、まだ小学生だった私の心にとにかく刺さりまくった音楽。
曲名は何だろう?作曲者は?続きはどうなっている?
そう思っても、どうも調べるあてもなく、ただただ憧れてて、キラキラしてた、正体不明の曲。

その曲が鳴り響いたのだ。日本トップレベルの、全国大会を目前に控えた学校の生演奏で。
しかも、隊形は横一列。カンパニーフロントだ。
すごーーく上の方で書いた、マーチングを始める前から私が好きだった唯一の隊形。
(この時はまだ名称も知らないが、実際にはカンパニーフロントではなくてファーストプッシュというショーの一番最初の見せ場だったのだけどまじでそんな細かいことどうでもよかった)

幼少期から一番好きだったフォーメーション。
唯一好きだった名も知らぬ楽曲。

胸が張り裂けそうだった。立って叫びたいくらいだった。
これ以上ない、私にとって最高の完璧な魅力を、目の前でなんの心の準備もなく浴びせられた。

運命だと思った。何度も、何度も。この出会いの奇跡を、今までの人生で何度噛みしめたかわからない。

私はここに行くべきだと感じたし、能天気な性格の部分を出すと「ここに行ったらこの曲のタイトル教えてもらえる!」とか「これと同じ作曲者のを演奏できるかもしれない!」といった期待もあった。
その後も着々と進んでいく中学生の練習は、当然ながらハイレベルハイクオリティだった。早く同じフロアに入りたい、私はこのレベルでマーチングをしたいと、わくわくが止まらなかった。夢のような空間だった。
ので、この学校への進学を決意した。ここしかない、ここは最高の場所だと確信した。

「練習キツイだろうな、着いていけるかな」なんてことは一ミリも考えなかった。4年やって全く届かなかったその舞台に辿り着くのに、私の想像するような辛さ以上に厳しいものが待っているに決まっている。そうまでしてでも、どのくらいキツイ代償が必要だったとしてもそのハイレベルな世界に行きたかった。
絶対にキツイ、それでも着いていくしかない。据わった覚悟だった。一種の執念かもしれない。

私のほかに、一番最初に誘ってくれた幼馴染のYちゃんと、トランペットにいた子の3人がその中学への進学を決めた。これは実に4年ぶりだったそうだ。(進学先をこの中学にしたのも、中学でマーチングを続けたのも4年ぶりだった)

ちょっとした振り返り

ここまで書いて、よく考えてみた。小学生の私はマーチングを「楽しい」と思えていたのだろうか?と。
皆で演奏することの楽しさは小3で知った。でも、マーチングそのものに対してはどうだったのだろう。

いや、多分楽しいとは感じていて、ちゃんと好きではあって、あのフロアを照らすライトとか、降りかかる拍手と声援だとか、熱気だとか、あの空間のことは好きだったけど。
どちらかというと憧れへの執着心で続ける道を選んだ。マーチングが好きだからというより、結果を出したい、上手い世界に行きたい。こんなので終われるものか!と、そういった想いが圧倒的に強かった。
それだけの強い気持ちや目標を持っている=好きであるのは間違いないのだけど。

間違いなく見るのは好きだったし、贅沢なことに上手いマーチングしか見てこなかった。
休日練習のお昼ご飯を食べる時間に、みんなでよく部屋のテレビを使って大会のDVDを見ていたのだが、そのラインナップも黄金期と呼ばれる先輩たちの代や、私が進学を決めた中学、全国トップの高校など、主に卒業生が進学していった日本のトップレベルのを見て過ごした。

好きと楽しいってもしかしたら別なのかもしれない。楽しいとは違ったなにかが私を突き動かしていたように感じる。それは随分と長いこと、あるいは辞めるまで。

次回中学校編!

顧問「あなたクラ顔ね~どう?」
私「え……!(トゥンク)」

世の中を舐め腐ってるクソガキだった私の運命や如何に!?

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