見出し画像

『レスポワールで会いましょう』第1話

【あらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
いわれのない噂や周囲の人々との溝に苦しめられるなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田とカフェ「L'espoir(レスポワール)」で言葉を交わすようになる。
その交流によって癒やされ、救われたとみのりが思ったのもつかの間、岡田との「いつもの」時間は失われてしまう……。
二人が心を繋ぐことはできるのか。

※ストーカー事件に関する描写、記述があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。


第1話

ばばっ、ばっ、ばっ。

すぐ前に停まっていたセダンの4つのドアが、すべて開いた。
午後8時過ぎ。
陽が落ちてずいぶん経ち、あたりは真っ暗だ。いつのまにか、B県にまで移動していた。

みのりと尾崎が乗ったワンボックスカーは交通量が少なく、街灯もほとんどない道で信号待ちをし始めたところだった。信号機の赤い光が道路を不穏に照らしている。

助手席で体を硬くしたまま、みのりは思わず「あ」の形に口を開いたが、驚きのあまり声は出なかった。
ハンドルに載った尾崎の指先がこわばったように感じられたのに、その表情を確かめられない。何が起こっているのか飲み込めない。恐怖心は胸を通り越して喉もとまでせり上がり、息が止まりそうなほど苦しい。

みのりは反射的に後ろを振り向いた。リアガラス越しにまた別のセダンが停車している。続いてみのりはそのドアの二つが開くのを見た。ばっ、ばっ。
助手席にみのりを乗せた尾崎のワンボックスカーは、いつのまにか2台のセダンに挟まれていたのだ。

前方の車から男性が4人降りてきて、こちらへと歩いてくるのが見える。
肩が大きく盛り上がった上背のある男性が、運転席の窓ガラスを叩く。コン、コンコン。
尾崎の口もとにぎゅっと力がこもるのが見てとれた。もうだめだと観念したのかもしれない。
みのりが全身に緊張を走らせていると、尾崎は案外すんなりと窓を開けた。

「B県警です。運転免許証、見せてもらえますか?」

有無を言わさぬ口調に、尾崎が何ごとかを返そうと唇を動かした。その瞬間、男性はぐいっと窓から腕をさし入れ、ドアロックを解除した。後部座席のチャイルドシートにも目をやるのがわかった。

「なっ……!」

尾崎が言葉にならない声を発したところで、みのりの左側、助手席のドアも別の男性によって叩かれた。車の外には背の高そうな男性がやや腰を曲げて立っている。「ドアロックを開けて」と、その口の動きは語っていた。

みのりが震える指でドアロックピンを上げると、外からドアが勢いよく開かれた。
唇を相変わらず「あ」の形に固めたままで唖然とするみのりの左腕が、ドアに手を掛けた男性によってがしりと掴まれる。そのまま、みのりは車外に出るよう促された。膝に乗せていたバッグは、男性の左手へと移っていた。

「大丈夫ですか? 歩けますか?」

みのりはそのとき初めて、助手席側に立った男性がベージュ色のシャツを着ていることを認識した。年の頃が40歳過ぎであろうことも。

「あ……」

かすれ声しか出なかった。掴まれた左腕だけが先行するような、おかしな歩き方しかできない。脚の動きはあとからついてくる。背中に誰かの手が添えられ、支えてもらえたのを感じた。

両側を畑に囲まれ、夜の暗さを一手に引き受けたような漆黒の空間に、赤い光が大きくひらめいた。尾崎のワンボックスカーを挟んだ2台の車に、警察の緊急車両であることを示す赤色回転灯が取り付けられたのだ。

同じくワンボックスカーから出るよう指示された尾崎が、前方を塞いだ車に乗り込むのが見える。身をかがめ、こちらを見る様子はない。両脇を固める男性はどちらもおそらく私服警察官だろう。

みのりは後方のセダンに乗るよう促された。後部座席に乗ってもなお、かたかたと震え続ける指先と唇。体の右側にバッグがそっと置かれる。

(助かったんだ)

理解できたのは、その事実だけだった。身の安全が確保されたとやっと思えた瞬間、どっと涙があふれ出て止まらなくなった。殺されるかもしれないと思い続けた7時間は、終わりを迎えた。

以来、尾崎には会っていない。

――A県内に住む知人女性(27)に交際を迫り、車で7時間連れ回したとして、B県警○○署は無職の男(31)を逮捕したと発表した。すでに容疑者の身柄はA県警△△署に移っている。同署によると、男は×日午後、A県内の女性の勤務先近くで待ち伏せ、無理やり車に押し込んだ疑い。
(2012年8月●日朝刊、■■新聞社会面)

事件は12行ほどの小さな記事となって朝刊の片隅に載っていた。みのりの氏名はもちろん、尾崎の名も伏せられている。
一人の警察官がマスコミに発表してもよいかと意思確認をしにきたとき、みのりは「被害者が私だと判らないようにしてください」と答えた。被害者のプライバシーを守るため、容疑者の氏名をも明らかにしない判断が下されたのだろう。

8月×日の午後1時過ぎ、社用の外出から帰ったみのりは、会社の最寄り駅であるあかつき新町駅の階段を降りきったところで、尾崎に声をかけられた。
シルバーのワンボックスカーの運転席から出てきた尾崎は、ぎょっとして体を固まらせたみのりに「もう付きまとわないから話を聞いてほしい」と懇願こんがんした。

こんなところで男と揉めていたら、社内の人間に見られて怪しまれないとも限らない。焦りが、みのりの判断力を狂わせた。「車の中で話そう」と言う尾崎の言葉を受けて、助手席のドアから上半身を入れる形で覗き込んでしまった。
途端にみのりの右腕は強い力で引かれた。バランスを失ったみのりが助手席のシートに腰を沈めた途端、尾崎はワンボックスカーを急発信させた。

迂闊だった。数か月前から郵便物を盗まれ、ここ数日は学生時代のアルバイト先で同僚だった尾崎から不気味なメールを受け取ったり、つきまとわれたりしていたのに。
そのメールを証拠として、どうやらストーキングをしているのは尾崎らしいと報告するために、警察署を訪れようとしていた矢先だったのに。

「ちょっと! 降ろして! 車を止めて!」

叫んだみのりを尾崎は果物ナイフのような小型の刃物で脅し、その後7時間にわたって車で連れ回した。

車が発進したばかりのとき、揉み合いながらみのりはスマートフォンで「110」をプッシュした。しかし、警察関係者かと思われる女性の声が応答した瞬間、スマートフォンは尾崎に奪われ、窓から車外へと投げられていた。

「ふざけたことしたら殺すからな」

ナイフを握りながらハンドルを取る尾崎の声は、これまでみのりが触れたことのない粗暴さをたたえていた。こめかみに血管が浮き出ている。

戦意喪失。スマートフォンを投げ捨てられた瞬間のみのりの心境を表すなら、その4文字で足りる。もう、暴れる気も起こらなかった。

通報は、少なくとも数秒間は警察に繋がったはずだ。

(逆探知とか、できるんじゃない? テレビで見たことある。警察の人は、わたしの電話番号を知っているはずだ)

1か月ほど前、郵便物が盗まれているらしいと知ったみのりと母は、最寄りのA県警の警察署を訪れた。そのときに電話番号をはじめとした連絡先を警察官に教えてある。

(あの情報をもとに、誰か助けて)

「デートだね」と言いながら、尾崎は車をあちらこちらへとあてどなく進めた。行き先はいつまで経っても決まらないようで、みのりにとっては恐怖としか言いようのない時間が過ぎていった。
あかつき新町駅に着いた頃にはじりじりと照りつけていた太陽が西へ沈んでずいぶん経った頃、みのりは尾崎に訴えた。

「トイレに行かせてほしい」

膀胱に貯められる尿の量には限界があるという。身体的な限界とともに、みのりの精神にも限界が迫っていた。このまま夜を迎えたら、尾崎はどこかに泊まろうとするに違いない。
その歪んだ意思が、肉体的な欲求をも果たそうとすることは予想がつく。おそろしさがみのりの頭だけでなく、体じゅうを巡った。そして、殺されるかもしれないという思いはもう爆発寸前だった。

トイレを借りる場所として、尾崎が選んだのは畑に囲まれた一軒のコンビニエンスストアだった。いつのまにか長閑のどかな田園が広がる地域を走っていて、ほかに適した場所は見当たらなかった。

コンビニの店内は閑散としていて、レジに初老の店員が一人いるだけだった。尾崎はみのりにぴったりと張りつき、トイレのすぐ外で待っていた。車を出るときには「おかしなこと考えんなよ」と釘を刺された。

みのりは尾崎の目を盗んで助けを求めることに決めた。この店員の少なさを見る限り、何をしでかすかわからない尾崎が凶行を試みた場合に取り押さえられるとは思えない。何か、確実に、保護してもらえる手立てはないか。店内に誰かが入ってくることを期待したが、入口の自動ドアが開く気配はなかった。

トイレの中でみのりは顔を上げ、鏡に貼られた手づくりのポスターに目をやった。かわいらしい字で「当店のトイレをきれいにお使いいただきありがとうございます」と書かれた紙を破り、清掃チェックリストの脇にぶら下がるボールペンをむしり取った。震える手で、破り取った紙の切れ端にメッセージを書きつける。

――車に監禁され、連れ回されています。警察に通報してください。車のナンバーは28××。

トイレを出た後、先を歩く尾崎の死角になる位置に来たとき、乱れた字を書き連ねた紙を初老の店員に押しつけた。レジ前を通り過ぎる一瞬を狙って手渡したもので、店員の表情を確認する余裕はなかった。どうか、警察に知らせて。

店を出るみのりから目を離さないまま尾崎は車のドアを開け、固い笑みを浮かべた。「さあ、行こうか」。みのりの肌がぞわっと粟立あわだち、脚はかくりと震えた。

20分後、農地に囲まれた静かな県道で、みのりはB県警の車両に保護された。

(第2話へつづく)

『レスポワールで会いましょう』全話一覧

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話

第11話

最終話


#創作大賞2024
#恋愛小説部門
#小説


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?