一の月(イチノツキ)

書いたり、編んだり、書いたりしています。

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  • 『レスポワールで会いましょう』

    創作大賞2024 恋愛小説部門 参加作品。全話をおさめてあります。

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『レスポワールで会いましょう』第1話

第1話 ばばっ、ばっ、ばっ。 すぐ前に停まっていたセダンの4つのドアが、すべて開いた。 午後8時過ぎ。 陽が落ちてずいぶん経ち、あたりは真っ暗だ。いつのまにか、B県にまで移動していた。 みのりと尾崎が乗ったワンボックスカーは交通量が少なく、街灯もほとんどない道で信号待ちをし始めたところだった。信号機の赤い光が道路を不穏に照らしている。 助手席で体を硬くしたまま、みのりは思わず「あ」の形に口を開いたが、驚きのあまり声は出なかった。 ハンドルに載った尾崎の指先がこわばっ

    • 『レスポワールで会いましょう』執筆を終えて

      先日、『レスポワールで会いましょう』最終話を公開しました。 私にとってはじめての小説で、読み苦しい点が多々あったかと思います。 自分でも「ここ、うまくいかないな……」と悩むことがたくさんありました。 にもかかわらず読んでくださった方々、スキしてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。 小説を書いてみることで創作の楽しさ、文章と向き合う苦しさ、自分を見つめる難しさに気づけました。 今は時間にゆとりがない時期ということもあり、すぐには次の作品に取りかかれそうにあり

      • 『レスポワールで会いましょう』最終話

        最終話 輪郭もあざやかな月がのぼり始めた夜、岡田が「L'espoir」で一つの提案をした。えっとですねえ、と言って話を切り出す様子は、照れくさそうにも見えた。 「……たまにはこのカフェの外で会う、っていうのはどうでしょう。いつもここで会うというのも、どうも」 岡田はそう言って、困ったような笑みを浮かべた。みのりは右手をぱっと広げて突き出し、その笑顔が目に届くのを遮った。心が揺れる前に、自分の気持ちを正確に伝えたかった。 「外で会うのはちょっと心の準備が要ります。しつ

        • 『レスポワールで会いましょう』第11話

          第11話 それから、岡田は毎週月曜日と木曜日に「L’espoir」にやって来た。今の常駐先で仕事の都合がつけやすい日なのだという。 みのりの会社で仕事をしていた頃よりはカジュアルな洋服を着ていることが多い。みのりと岡田は長話をすることもあれば、それぞれが別の本を読んで過ごすこともあった。 コーヒーを飲みながら二人が交わす言葉は、とりたてて変わった傾向があるわけではない。 今日、職場で起こったささいな出来事。電車内で触れた他人の優しさ。昨夜観たドラマの、どうしても納得でき

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        『レスポワールで会いましょう』第1話

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        • 『レスポワールで会いましょう』
          12本

        記事

          『レスポワールで会いましょう』第10話

          第10話 久しぶりに読もうとしている文庫本には「あなたに贈る至高のラブストーリー!」と大きく書かれた帯がついている。なんとなくそのフレーズに気後れがして手に取らずにいたものを、みのりはようやく購入した。 ただ、帯をどうしても直視できず、レジカウンターで「紙のカバーをおつけしますか?」との店員の問いに勢いよく「はい!」と返してしまった。 レトロな幾何学模様がプリントされた紙のブックカバーを前に、マグカップを右手に持つ。 いつものように「L’espoir」で休憩しようとして

          『レスポワールで会いましょう』第10話

          『レスポワールで会いましょう』第9話

          第9話 みのりが今さら痛感しているのは、岡田の存在がいつのまにか日常を構成する一つの要素になりつつあったことだ。 「L'espoir」に行けば、淡々と英語のテキストを読み進める岡田が見られる。ときには言葉を交わす。「英語、まじで嫌だなあ」とぼやくその横顔を、見るともなしに視界の端に収められる。 岡田の言葉はどんなときもフラットで、誰の肩も容易には持たず、迂闊なジャッジを下すこともない。ただ一度、みのりについて「悪いことはしていないだろうと思ったんです」と軽はずみとも言

          『レスポワールで会いましょう』第9話

          『レスポワールで会いましょう』第8話

          第8話 会社で仕事をする時間を苦痛だと感じることが減ってきたと、みのりは思う。もちろん、まだ陰湿な噂の存在を嗅ぎとる機会もたびたびある。興味ありげな、下世話な視線を感じることもある。 しかし、遠野由貴のように噂のいい加減さに気づいてくれる社員も少なくないのだろう。社内のカフェテリアでは、以前と変わらぬ調子で声をかけられることが増えた。 「お! お疲れさん。このあいだは社内便のイレギュラー対応、ありがとう! 助かったよ」 「さっき『管理課ALL』に投げたメール、見てくれた

          『レスポワールで会いましょう』第8話

          『レスポワールで会いましょう』第7話

          第7話 仕事中にうんざりするような空気を感じたときの救いになっていたのは、澤井マネジャーの気遣いだった。直属の上司として、業務上の指示を出しながらもみのりの精神状態を慮り、ときにはフォローの言葉を投げてくれた。 「無理しないでよ。無理する必要はなにもないから。困ったことがあればすぐ相談!」 部下にかける言葉の優しさにはもとから定評のある人だ。威厳と決定力に欠けると物足りなく感じる若手社員もいるようだけれど、みのりはその手の張りぼての権威性が苦手だった。 口の堅い人だ

          『レスポワールで会いましょう』第7話

          『レスポワールで会いましょう』第6話

          第6話 この国で会社員として日々を送るのに必要なことは、協調できることらしい。誰が何を考えているかを聡く嗅ぎわけ、いやらしさを排除したうえで感じよく共感し、同調する。 仕事において求められるのは的確に、迅速に業務を遂行する能力であるはずだという正論は、そこでは無効化される。 「だって、あの人ちょっとアレじゃん?」 短時間のやり取りで周囲に違和感を与えた人物に下される評価は「ちょっとアレな人」である。空気が読めない、相手が嫌がる単語やフレーズを回避できない、ほどほどの距

          『レスポワールで会いましょう』第6話

          『レスポワールで会いましょう』第5話

          第5話 みのりは紙カップにコーヒーがじゃぼじゃぼと落ちてくるのを眺めていた。 座り心地がよいとは言えない椅子に腰を据え、デスクに向き合う時間が続いたので、気分転換にと社内のリフレッシュルームに出てきたのだった。 背後で風が起こった気配がして、情報システム課の遠野由貴がみのりの右脇に現れた。紙カップ自販機の隣には、ペットボトル飲料だけを扱う自販機が並んでいる。 そういえば、と思い出す。 由貴との気楽なランチタイムが最近減っていることに、みのりは気づいていた。とりあえず

          『レスポワールで会いましょう』第5話

          『レスポワールで会いましょう』第4話

          第4話 検察庁から帰る足取りは、自分のものとは思えないほど重かった。 尾崎によって起こされた事件からは2週間ほど経っている。検察側が起訴または不起訴を決めるにあたり、検事からの呼び出しに応じたところだった。 TVドラマで見るような部屋に案内され、検事による事情聴取を受けた。 ようやく日常に心を落ち着けられつつあったのに、事件のことを鮮やかに思い出す必要に駆られることばかりで、少しずつ気分が塞がっていく時間が過ぎた。 A県内の地方検察庁からみのりの自宅までの途中には、会

          『レスポワールで会いましょう』第4話

          『レスポワールで会いましょう』第3話

          第3話 仕事を終えると「L’espoir」でひと息つくのがみのりの習慣になっている。 入社5年目のみのりにとって、喫茶店でのコーヒー代を毎日捻出することはまだちょっとした痛手と言ってもいい。しかし、セルフサービスのカフェであれば、コーヒーを飲みながら自分の心を鎮めるひとときが安価で確保できる。 それに、「L’espoir」はあかつき新町駅の隣駅から歩いて7分。大通りから一筋入ったところにあり、会社の人間に会うこともほとんどない穴場だ。セルフサービス方式のカフェとしては老舗

          『レスポワールで会いましょう』第3話

          『レスポワールで会いましょう』第2話

          第2話 事件のあとは、拍子抜けするほどあっさりと何もかもが流れていった。 手の施しようがないダメージを受けたと思われたみのりの精神状態は予想外に穏やかで、朝は以前とそれほど変わりなく目を覚ました。だるさとうんざりするような憂鬱さを伴ってはいたけれど。 それでも、4日間の有給休暇を取り、休養のための時間をつくった。 「事後処理もあるだろうし、なにより心を休めて」 そう言ってくれたのは直属の上司である澤井だった。マネジャーという肩書きを「なんかすごくカッコつけてる感じする

          『レスポワールで会いましょう』第2話