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写真は表現の手段、カメラとレンズは道具

他人の趣味、嗜好、性癖に対して、お節介は無用、と言われたら、その通り、としか言いようがない

しかし自分のような通りすがりの一見さんが、主観でスナップ写真として切り取る、その時その場の刹那について

その被写体の表層を写し撮った瞬間のデータから、その被写体の姿の後ろに、その奥底にある何かを、写真で表現し得るのだろうか?

あらかじめしかるべき時間をかけた、被写体との対話なり観察なりがあって、自分に何かしらの予備知識が仕入れてあるならまだ分かる

しかしそういう準備なしに、他人の写真から直接何かを感じ取ることは、あるのだろうか?

それは違うだろう・・・

それでは表現の手段として、何をしたいのか分からない
あるいは表現者として、思考も努力も放棄している
(例えばシュルレアリズムに興味はあるけれど、今さら写真表現でやる必然性はあるのか?)

じゃあそれは印象操作、情報操作じゃないのか?

それは価値観の違い、人それぞれで十人十色、なんだろうか?

その表現の意図するところは、その被写体にとっては、どうなのだろうか?

それとも、写真やデータさえ売れたら、後は何も考えなくてもいいのか?

それは違うだろう・・・

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