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死ぬまでそばにいて

観念的なことを考えることが好きだ。
1番好きなのは、死生観。
人はなぜ生きるのか、死んだらどうなるのか。

人は自分が死ぬ運命だと告げられたときどう反応するだろう。例えば「余命1年です」と言われたとき多くの人は絶望するだろう。

これはよく人に言うし家族にも言ったことあるけど、自分はいつ死んでもいいと思ってる。
それは決して希死念慮ではない。

今まですごく幸せな人生だった。出会う人全てが良い人ばかりだった。今までの人生で失敗したことはなかった。というか、そのとき失敗したとしても、その結果があって今の自分があるわけで、だからこそ 人生で 失敗したことはなかった。反省したことはあっても、後悔したことは一度もない。そして未来に執着はない。


いつ死んでもいいと口では言っているけれど、本当に死が垣間見えたとき、同じことを言えるだろうか。未来に執着はなくとも、今の幸せに執着して、今が続いてほしい、死にたくない、と思うんじゃないか。絶対思うだろうな。人はそれを未来への執着と言うんだろう。



『夢十夜 第一夜』

この女性は何歳だろう。
今でこそ「人生100年時代」なんて言われるけど、漱石が生きた時代の平均寿命は45歳ほどだった。
自分は、25〜30歳の女性を思い浮かべた。
現代よりももっと大人な女性だ。気高い女性だった。そんな女性も初めて死が垣間見えたとき絶望しただろう。時間を経て、段々と死に向き合っていく。そして静かな声で「もう死にます」と自分に言い聞かせるようにはっきりと言ったのは、この女性が死に向き合った瞬間だった。ただそれは死の受容ではなく生の諦めだった。

「死にますとも」
「死ぬんですもの、仕方がないわ」
この女性は死を受け入れようとしていたし、本人は受容したつもりだろうけど、本能的に死にたくないという思いが痛いほど伝わってくる。そして最後に本音が出てしまう。本当は死にたくないことを、愛しているあなたには分かってほしかった。死を受け入れられないのは普遍的な幸せに執着しているからだった。ずっとそばにいたあなたに、これからもそばにいてほしかった。

「百年待っていて下さい」
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

現代において「100年待ってて」はもちろん現実的ではないけど、まだ20代の自分にはどこか現実的な感じがする。でも「200年待ってて」と言われたら完全に死後の世界だ。平均寿命が45歳である漱石の時代の「100年待ってて」は後者だ。

「私は死ぬ。あなたが死ぬまで私のそばにいて。そして、あなたが死んだあとも私のそばにいて」

もう今まさに死ぬ女性の、死を受け入れたと思っている女性の、でも本当は死にたくないと思っている女性の、悲痛な哀願だった。あなたがそばにいる未来に執着しなければ死ねなかった。
「死んでまた逢いましょう」ではなく「きっと逢いに来ますから」と言葉にした彼女は最後まで気高い女性だった。

百合の花言葉は「純潔・威厳・純粋無垢」
最後に百合の花を咲かせたのは、言われたとおり死ぬまでそばにいて、そして死んでいった男に対しての女性からの供花のように感じる。

死ぬ間際に未来に執着した女性は、無事に執着から解放され、暁星となった。


最後に自分の死生観について

人は死ぬから生きる。死ぬために生きる。
自分が死ぬときに人生を振り返って、幸せな人生だったと思って死にたい。死を意識することで毎日一生懸命生きようと思う。この人生で一つも後悔を残さない。運命のあの子に告白しよう。これは純愛だ。もし散ったときは百合の花を供えてほしい。

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