「パッション・パラドックス 」の感想①創作でもなんでも他人の評価を目的にしたら辛いよね

まずは引用からといきたいが、刺さる文が多すぎて選ぶのが困難だった。
今回は「強迫的情熱」というものに興味を惹かれたので、この言葉を解説しているところから引用したい。

p76
強迫的情熱とは、内面から湧き起こる満足感よりも、成果や外的な報酬がモチベーションの源になっているケースを言う。

ある活動そのものより、その活動がもたらしうるご褒美に情熱をいだく状態と言ってもよい。  

強迫的情熱に乗っ取られると、それまでは楽しく感じられて、倫理的にも問題がなかった情熱の追求がたちまち悪しきものに変わる。

その大きな理由のひとつは、強迫的情熱をいだくことにより、自分ではコントロールできないものに自己評価を結びつけてしまう点にある。

この状態は、極度の苦痛を伴う場合が多い。

「パッション・パラドックス」 より引用


めちゃくちゃ心当たりがある

他者はコントロールできないから自分が変化すべきというのはよく自己啓発やメンタル系の話題で取り上げられる。

今回の話と根本は一緒だ。
自分以外はコントロールできないのである。

いや、自分すらコントロールできないのが人間なのではないか?
あの名著、「人を動かす」にも書いてあったではないか。

P 14
「三十年前に、私は人を叱りつけるのは愚の骨頂だと悟った。自分のことさえ、自分で思うようにはならない。神様が万人に平等な知能を与えたまわなかったことにまで腹を立てたりする余裕はとてもない」

「人を動かす」 より引用

今回の読んでいる「パッション・パラドックス」がどういう風に話を進めるのかは、まだここまでしか読んでいないからわからない。

だが他人軸で行動することの危うさは頭には入れておくことはできても、それからは逃れられはしないだろう。
自分はそう思う。

特に下手くそとはいえ音楽を創作する身としては、自己完結できればそれに越したことはないが、やはり他者評価は得たいと思ってしまう。


「作家主義 映画の父たちに聞く」という本も今同時に読んでいるのだが、ここに書かれたジャン・ルノワールという監督の言葉がこの問題のひとつの回答かなと自分は感じた。

p37
それに、どの映画の場合も同じです。

映画は純粋に芸術的な理由のためだけにつくられるべきだと考えるのは間違いなのです。

映画づくりはそれでもやはり、ひとつの商売なのです。

映画は売られなければならないのです。
だから、ほかの視点からの考慮も加えられるわけです。

私が思うのに、自分が心をひかれない企画に身をゆだねることは間違いです。

でも一方では、映画をどんな商業的な見解とも敵対しながらつくろうとすることもやはり、間違いなのです。

映画はそれでもやはり、何人かの人に見られるべきなのです。

そうでなければ、なぜ映画を作るのでしょう?

「作家主義 映画の父たちに聞く」 より引用


他者評価を完全に捨て去ることはできないし、何かを作り上げるなら(芸術でも商品でもサービスでも)受け取り手は必ずいなければならない。
だからみんな血眼になって顧客なり自分のファンを探すのだろう。

とはいえそれはコントロールできないから辛いことである。
そのことを頭に入れて、良い意味での自己満足と他者評価の比重のバランスをとることが大事なんだろう。

そんなことを考えた童貞おじさんなのであった。

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