貞観政要の感想③ネットでよく見る発言するのに資格を求める人たち

まずは引用から

p448
また、文子は、
「同じことを言って信用されるのは、言葉以前にその人が信用されているからだ。
同じ命令を下して実行されるのは、その命令の裏に誠意があるからだ」
と述べています。

貞観政要 全訳注 より引用

今回は上の「信用」について言いたいことを思いついたのでそのことを書くつもりだ。
本の内容とは脱線するのをお許しいただきたい。

まず、これは全くもって正論であると思う。
例えば身体の不調について医者が診断するのと、素人が診断するのでは、仮に同じことを言ったとしても信用性は天地の差だろう。

専門家はその専門知識を信頼されていることを知り、常に信用される人物である努力をしないといけない。
本の内容としてはこういう解釈もひとつできるだろう。

何度もいうようにこれは正論だと思うのだが、この理屈の範囲をいたずらに拡張するような論調をよくネットで見かける気がする。

例えば無職の方が国に対して意見を言ったとしたら
「無職のくせに偉そうな」「まず働け」
というように意見そのものを封殺するような発言を返されるのを見たことがある方も多いのではないだろうか。

もちろん「日本は糞」みたいなことをそのまま言うようなら、相手側にも辛辣な返しをされても仕方ないのかもしれない。

ただこういう人の中には、専門家が本やネット記事で語っていたような論調だなという意見を言っているケースを何度か見たことがある。
また、専門家よりも一歩進んだような新しい切り口の場合もある。

この場合彼らは無職というだけで信用されないばかりか、発言をするなどまで言われるわけである。

こういうやりとりを見るたびに自分は怒りを覚えたものだ。

国に対して意見を言うのに無職であるかどうかは関係ないはずだ。
むしろ様々な界隈に属する人が様々な意見を出すことで、議論が深まっていくものだろう。
そう考えると、特定の属性を持つ人の意見を信用がないという理由だけで封殺するのは愚の骨頂だ。

人前昔に流行った「日本に文句があるなら出て行け」という論調も同じ問題だ。
言っていることだけを見たら、リベラルな学者さんの発言を参考にしているなと思わせるのだが、なぜか一般人である発言者だけが言論を封殺される。
これは発信者の信用度だけで判断しているからだろう。批判的なイメージだけを感じ取って、内容などはなから見てすらいないのかもしれない。

こんなことがまかり通るならば、議論などしようがない。
議論ができない、意見の多様性がないのはそれこそ国の益を損なう行為だ。

何事に対しても、自分の発言の信頼感を高める努力はしたほうがいいだろう。
しかしそれを他人にむやみやたらに求めるべきではないと思う。

自分の信用を高めつつ、他人の意見は余計な先入観を抜きに言葉の妥当性だけで賛否を考える。
このように心がけることで、今回の教えはさらに活かされると思う童貞おじさんであった。


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