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原作と派生作の関係についての考察【最悪の事態は何故起きたのか】

どうしてこうなった

まずは、芦原妃名子先生のご冥福をお祈りします。

2024年1月29日、芦原妃名子先生の訃報に、日本中に衝撃が走った。

その少し前にも芦原先生のSNSでの弁明的な書き込みをチラリと見たが、私自身は件のドラマを見ていなかったので、何の事か事情を全く把握していなかった。

原作者とドラマ制作側との間でトラブルがあったのかな、ぐらいの認識だったが、その数日後に突然過ぎる訃報を聞き、あまりの事態に言葉を失った。

昔から、映像化、と言うよりは原作を基にした派生作品の制作に際してトラブルが起きる事は多く、その内の一つぐらいの物だと思っていたのに、まさかの原作者を自殺に追い込む事態にまで発展したと言うのは、これまで聞いた試しが無かった為だ。

断片的に聞こえてくる声の大きな内容を見ていくと、

  • 原作者は原作改変不可でドラマ化をOKする

  • ドラマ制作側は、条件を了承

  • しかし、プロデューサーや脚本家が原作改変で有名な人達の座組でドラマ製作開始

  • 当たり前の様に約束を守られないままドラマ制作が進行

  • 仕方がなく原作者が自らクライマックスの脚本を執筆する事態に

  • 原作者が脚本に不慣れなのと、改変を直す事自体に無理があり、ドラマ版最終回の出来が中途半端な印象に

  • 脚本家が原作者に降ろされたと不満をSNSに流す

  • 原作者がSNSで裏側の事情を説明(私はコレを見て事態を始めて認識)

  • ネット上で原作と派生作の関係について大論争が起き、一部の人達がドラマ版のプロデューサーや脚本家を叩く

  • 原作者が攻撃の意図は無かった事を弁明、謝罪し連絡が途絶え、翌日訃報が流れる

  • 業界の人々がコメントを発表し、怒り、哀悼、二次三次被害回避、様々なアクションで溢れる。

の様な事態の推移に、私には見えている。

今回の事態は、誰が悪いかと言えば、上記した情報の通りなら、どう考えてもドラマ制作側に非がある。

約束を守らない時点で、非は明白だ。

なのだが、間違い無く一定の非は逃れようが無いのだが、同時に業界の体質や暗黙の了解を無視する事も出来ない。

原作者は偉い? 偉くない?

結論から書けば、原作者は神である。

作品は原作者が生み出した創造物であり、原作者は創造主で、神同然だ。

神と言う表現が極端としても、原作者は作品を形にして我が子として生み落とし、一人前に育てる。

原作者は立場的に神で、親であり、法律的にも最も強い力を持っている

しかし、これは、全体的なルールであり、ローカルなルールの中では時に当てはまらなくなる。

ローカルなルールとは、今回事件を引き起こしてしまったテレビドラマ業界や、他にも、映画、アニメ、漫画、小説、ゲーム、舞台、等々そう言った諸々の各業界の中でだけ通用するルールを指す。

業界毎にローカルルールは大きく違い、これはドラマや映画の制作会社や、出版社、ゲーム会社、組織のリーダーの考え方や、どうやって大きくなってきたのかや、成り立ちによっても大きく変わって来る。

その悪しきローカルルールの中に、

  • 原作者は神では無い

  • コンテンツは金儲けの道具で売れれば何でも良い

の様な精神性の物が、普通に存在し、特定の業界の中では大きな顔をしている。

すると、その業界の中では、そのローカルルールが普通の事とされる。

神を堕とすビジネス戦略

原作者は神なのに、どうしてこんなローカルルールがまかり通るのかと言うと、そこはビジネスが絡むからである。

例えば、ドラマ化、映画化、アニメ化を行えば、原作は話題となり知名度をアップさせ、売り上げを引き上げられる。

原作が大人気の場合は、原作者は絶大な力を持つ。

派生作の制作オファーを蹴っても、痛くも痒くもない。

一方で、大人気とまでは行かない人気作の場合は、原作者からすると派生作の制作オファーは、作品の人気アップや売り上げアップの為のステップアップの側面を持つ。

それでも原作者はやろうと思えばオファーを断る事は出来る物の、オファーに乗れば少なからず作品も得をする部分が生まれる。

そこに、本来は交渉の余地が生まれる。

なのだが、ここで認知が歪むと「派生作の方が原作よりも制作が高コストで、表現的にも上で、原作の売り上げも伸ばして、人気も出してやっているだけ偉いし凄い」等の勘違いが生まれる。

原作に、恩恵は少なからずあるが、派生作であると言う事は、原作が無ければ生まれようが無いと言う前提を忘れてはいけない。

しかし、このローカルルールに支配されると、時には他業界を下に見る様にさえなる。

舞台業界が映画業界を下にかつて見ていた様に、、映画業界がテレビ業界を下に、ラジオ業界がテレビ業界を下に、小説業界が漫画業界を下に、ラノベ業界がなろう系業界を下に、実写業界がアニメ業界を下に、漫画雑誌業界がweb漫画業界を下に、テレビ業界がネット動画業界を下に……

本当は、表現やメディアが違うだけで優劣は無いのに、ローカルルールが形成されると、その中の人達は自分達が優れていて、他に劣った業界や新興勢力があると思い込んでしまう。

テレビドラマ業界の人々が、漫画業界に対して「大勢の製作スタッフと資金を使って、有名俳優を使って、実写ドラマに”してやっている”」と考えるのは、ローカルルールの支配下では、そうとしか考えられない可能性があると言えるわけだ。

そうなってくると、下の存在に対して傲慢になった勘違いをした業界人は、

  • 了承だけ得れば、なあなあで自由に出来る

なんて思い上がりきった思考で、いつも通りに原作を自分勝手好き勝手に料理して「ありがたいありがたいドラマ化をしてやったぞ」と考えても仕方がないと考える事も出来る。

神不在のビジネスライク

業界の上下と言う幻想以外にも、原作と全然違う派生作が生まれる事は多々ある。

「超兄貴」や「ポケモン」のコミカライズでは、コミカライズ担当作家に正しい情報が伝えられず、コミカライズ企画だけが先行して進み、原作云々の前に原稿をあげないとならない状況によって、全然原作と違うコミカライズが爆誕したりの例もある。

(どっちも好きよ)

神による無茶ぶりも観測されており、実写映画「進撃の巨人」は、原作と全然違う話になり、漫画の実写化映画の中では散々な出来となったが、これは原作者のオーダーによって原作と全然違う展開を熱望された結果起きた、ある種の自爆テロ的なレアケースだ。

(エピソードとしては凄い好き)

海外まで見ると、原作者の手を離れ作られた結果、原作者が完成品を見て大激怒なんて映画は掃いて捨てるぐらいある。

制作関係者が後に謝罪して話題となったハリウッド版「ドラゴンボール」、ジブリの問題児「ゲド戦記」、1作目から原作者大激怒なのに2、3と駄作化まで進む「ネバーエンディングストーリー」……

原作改変して上手くいくには?

現在映画公開中の実写「ゴールデンカムイ」は、圧倒的な原作リスペクトによって改変部を含め大好評となっている。

度々話題となる漫画「追放されたチート付与魔術師は 気ままなセカンドライフを謳歌する。」は、原作者の先生公認で全く別物に魔改造され、こちらも大好評だ。

他にも原作改変して上手く行く例は沢山あるが、基本的には、

  • 圧倒的な原作リスペクト

  • 原作者の改変快諾

のいずれか、両方があった上で、面白い作品となっていれば、改変は受け入れられる。

原作クラッシャーと揶揄される作品は、このいずれか、両方が足りていない事で大事故を引き起こす。

原作介護と言う特殊パターンも

なろう系作品等で乱造された、お世辞にも出来が良くない作品も、数撃ちゃ当たる理論なのかコミカライズ等の派生作が作られる事が多くなった昨今。

その場合、原作に足りない部分を原作改変によって補完し、一定の水準まで高めるなんて、人気のある原作の派生作を主に作っていた時期には、あまり無い事態もチラホラ。

原作改変して、原作者に渋い顔をされても上手く行く事も……

極端な原作クラッシャーだがファンに、時には原作者にも「別物」として受け入れられる代表格と言えば、宮崎駿、高畑功、押井守、スタンリーキューブリック、等々の名立たるメンツが思い浮かぶ。

ここまで作家性があって、作品を強い自分色に染め上げてしまう場合は、原作と言うよりは原案とか、監督の好きな作品、と言うレベルになり、場合によっては許される例も、少ない物のあるにはある。

しかし、これは改変者のファンが喜んでいる事であり、改変者のファンでなく原作のファンな人には、渋い顔をされる覚悟が必要となる。

原作改変作は減っている?

原作改変を行う作品は、原作付きの派生作の場合は、昔に比べ減っていって感じる。

その主な理由は、原作通りに派生作を作った方が、大抵の場合は上手く行く為である。

そもそも、現代で主に派生作を作るのは、原作が既に面白く、面白さや人気が担保されている為だ。

また、原作ファンの流入を期待する場合は、原作改変は、それだけで叩かれるリスクとなる。

そうなると、原作通りが原作付きの派生作では一番確実なわけである。

なぜ多くの原作者やファンは、下手な改変を嫌がる?

原作者にとって作品は苦労して産み出した創造物であり、我が子も同然だ。

そして、派生作のオファーが来たり、企画が動く様な作品は、出来が良い我が子と言える。

出来が良い、可愛い我が子が、原作品だ。

派生作とは、そうなる場合、我が子から新たに生まれる存在となる。

となると、派生作は原作者からすると、我が子の兄弟か、クローンか、はたまた孫か。

いずれにしても、自分の血を分けた家族の様な存在と言える。

そう考えた時、原作者の手を離れた派生作は、よその家に養子に行ったり、嫁に出す様な感覚があり、原作改変とは、大事に育てた我が子がよその家の色に染まる事を意味する。

仮に、大事に育てどこに出しても恥ずかしくない我が子が家を出る場合に、その扶養先の家族や配偶者が、自分と絶望的に価値観が合わない相手だったら、我が子が家を出る事を快諾出来るだろうか?

言うなれば、大事に育てた箱入り娘を、ヤクザや半グレ気質やDVやヒモやチャラい人種、そう言った何かしらの相容れない価値観の家に入れ、染まる事を許せるだろうか?

逆の立場でも良い。

チャラい人は、極端に固く真面目で面白く無いと感じる人の家に、愛する我が子を出せるだろうか。

要は、原作者の目から見て、価値観として我が子が幸せになる未来が見えない状態で、愛する我が子を信用出来ない相手に任せられるかと言う話である。

我が子を愛していて、我が子に「こうあって欲しい」と言うイメージがある人ほど、そこから大きく逸脱される事には抵抗があるだろう。

原作者とは、作品と言う我が子が、間違った道に進まない様に出来る立場であり、権利を持っている存在だ。

原作改変を作品や作者へのリスペクト無く行う人は、言うなれば、良い子に育っている箱入り娘を見て、もっと悪い事も知っている方が面白いとか、もっと人生楽しまないと損と独自の価値観で再教育して、そこまで大事に育てた流れを無駄にしようとするに等しい。

その結果として、原作を大きく越える事が出来れば良い。

だが、大抵は原作が人気作である前提がある以上は、原作越えは作品への愛のない原作改変ではテーマや要素を使いまわしている時点で難しく、リスペクトが無ければ原作補完も出来ず、濃すぎる作家性が無ければ改変者のファンも絶賛出来ず、失敗に終わる事の方が遥かに多い。

リスペクトと対話こそが正義

原作品や原作者へのリスペクトがあると、作品が我が子理論で言えば、派生作に関わる人は、何をして良く、何をしたらダメなのかが、高い精度で把握出来る。

すると、原作者からすると、我が子を預ける先が同じ考えか、かなり似た子育て方針、かつ、親が子に注いだ積み重ねを無駄にせず、親子の関係を守ってくれる様な事になり、相応の実力さえあれば心置きなく預ける事が出来る事になる。

リスペクトがあるだけで、そこまで変わって来る。

さらに、健全な対話を重ねる事が出来れば、そこには信頼が生まれ、派生作の方向性の統一が具体的に出来て、派生作に関わる人は、リスペクトだけでは見えないギリギリのラインまで攻めた作りをする事も可能となる。

原作者は我が子を清楚系お嬢様に育ててきたが、原作者公認でスポーティにもギャルにもオタクにも育てる事が出来るし、NGも明確に把握出来る。

まず、リスペクトは大前提。

そして、可能な限り対話を重ねる事。

これ以上に、派生作をどうするか清く正しく気持ち良く擦り合わせる方法は無い。

それこそ原作者が、全く別の可能性を派生作で見たいと言えば自由度は上がり、原作者公認になればファンは従わざるを得なくなる。

原作者不在の派生作では?

古い作品であれば、その自由度は飛躍的に上がる。

著作権切れまで行けば、完全に自由だ。

著作権が残っている場合は、やはり、まず原作者へのリスペクトを忘れてはいけない。

そして対話する相手は、作品の下手な権利者よりも、作品を本気で愛しているファンである場合も多い。

「スターウォーズ」は、初期3部作は圧倒的人気を得たが、続編の3部作は賛否両論となり、原作者は権利を売ってしまった。

当然、法律や権利を見れば、権利を手に入れたディズニーが絶対だ。

だが、ディズニーは権利を買っただけに過ぎず、派生作を公式として作る立場でしかない。

こうなった場合、派生作の作り手は、ディズニーも見なければならないが、それ以上に本来の原作者や、作品を愛するファンを見なければ、良い派生作は作れない。

権利を売っても、原作者は原作者なのだ。

原作者との対話が出来ないなら、大抵は作品そのものや、作品を一番理解しているファンを大事にする事が正解への近道となる。

終わりに

原作改変が悪いのでは無く、リスペクトも対話も無い原作者に許されないとか、ファンに求められていない原作改変が悪いと言う話でした。

まずリスペクト。

リスペクト出来ないなら、派生作には関わるな。

リスペクトしてるなら原作者の嫌がる事はするな。

原作者と作品に対して、愛をもって接すべし。

リスペクト無く原作レイプorクラッシャーで許されたとしたら原作者の優しさに甘えてるだけ。

基本、そう言う事です。

上に出た作品以外にも、仮面ライダー、デビルマン、等々昔は原作改変や、別物の同発作品が当たり前でした。

中には表現的に過激すぎた物を放送や出版の為にソフトに改変する様な例もあり、原作者が望まない改変が必ずしも悪とも限りません。

ですが、だからと言って約束を反故にして改変して良いと言う事では無く、むしろ、社会はホワイト化が進み、コンプライアンスがしっかりする事を求められるのですから、リスペクトと対話と契約の順守とコンプラの徹底は、絶対必要です。

漫画協会や映画会社が今回の事で原作者に寄り添う旨の声明を出していますが、実際どうなっていくかはまだ分からないので、業界のローカルルールや意識への改革過程を見守るしかありません。

今回起きた悲劇は、絶対に許されない物で、二度と繰り返してはいけない事です。

最後に改めて、心無い人々に追い詰められ、結果的に志半ばで旅立たれた芦原妃名子先生のご冥福を心よりお祈りします。

追記

原作者とは、0を1にした人で、これはアイディアを早く出したり持っているという事では無く、アイディアを一番早く形にして発表した人を指す。

形になっていないアイディアには、権利を主張する力は無く、原作者たりえない。

この、形になっていないアイディアと言う0を、形になっている作品と言う1にする事が、とても大変だからこそ、原作者は客観的に凄く、作品に対して神としての振る舞いを名実ともに許される。

リスペクトの無い派生作を作る人は、この1を自由に使わせろと言うスタンスだ。

確かに、1を100に出来れば凄いだろうが、0から1を生んだ事への原作者へのリスペクトが無ければ、他人の宝物を勝手に使って、あたかも自分の手柄の様に振る舞う愚かな無礼者と言う面が前に出てしまう。

そうなれば、どんなに素晴らしい改変を行っても「自分のオリジナル作品でやれよ」と言う正論は、どこまでも付いてまわる。

最初に0から1を作ったから原作者は神であり、その創作物に関わる人は神を称えるべきだ。

仕事だからリスペクト出来る作品ばかりではないと考える人もいるかもしれないが、リスペクト出来ない作品には関わるべきでは無く、仕事なら猶更であり、リスペクト出来ないで関わる姿勢はプロ失格である。

関わらざるを得ないなら、前提としてリスペクト出来る要素を探してでも絶対するべきだ。

他人の墓の前に行かなくちゃならなくなったとして、厳かな気持ちで形だけでも手を合わせる事から始めるか、バチなんて怖くないと墓石を蹴り倒すか。

どちらが文化的・道徳的・倫理的・論理的に正しいかを考えれば、原作へのリスペクトの大切さがわからない人も少しは分かるかもしれない。

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