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ミリンダ王の問いの車の譬え

個人的にミリンダ王の問いがマイブームだ。佐々木閑さんが現在YouTubeでミリンダ王の問いを講義しておられる。そこで中村元訳を図書館で借りてきて読んで、書店で宮元啓一さんによる最新の訳出版を見つけて立ち読みで通読して。中村版も分かりにくいわけではないが、宮元版はより今日的で淀むことなく読み進めた。そこでは最初の譬え話が「車は存在するか」、という話で「轅、軸、輪、車体、車棒、軛、輻、鞭のそれぞれが車ですか?それともそれらが合したものが車ですか?」とナーガセーナがミリンダ王に問いかける。私は自動車屋として販売、技術、生産などに触れてきただけに、紀元前二世紀半ば(2千数百年前!)にアセンブリー産業としての自動車を彷彿とさせる譬え話が出てきて、嬉しくてたまらない。1台の自動車は数万の部品から成り立ち、多くのサプライヤーや部品工場から最終組立工場に運び込まれた構成部品が熟練したチームメンバーによって手際よく組み立てられ、最初はプレス工場にスチールコイルとして転がっていた鉄板が、最速1分弱のタクトで流れて、最後は流麗な自動車として検査課を経て出荷される。部品ひとつが欠けても車ではない。しかし6年の償却期間でスクラップになり、当時は下取り1万円で取引されるくず鉄に。スクラップ工場に運ばれれば、小さな鉄の立方体に潰されて電炉工場に向かい新たな製品になる。輪廻だなぁ。しかし上手に性能が維持されれば数十年使われる。私はかつてカムリの市場投入に販売部門で携わり、その後ケンタッキー工場で生産、中国市場への導入などに関わったが、20年ほど以前にカンボジアに訪れたところ、初代から5代目か6代目かまでのカムリがいずれも元気にプノンペンを走っていて感動した。また完成車で輸出すると完成車の高い関税がかかるが、KD部品として6分割すれば、安い部品関税しかかからないので、通関上は部品は車ではないのだ。
さてナーガセーナとミリンダ王の問答で引っかかったのは、部品は車ではないが、組み上がった車も車ではない、とナーガセーナとミリンダ王のお二人は納得し合っている点だ。まぁピラミッドは石の積み重ね、とか五蘊皆空、諸法無我とか知っていたので、そうだそうだ、と私も納得、しつつも、ちょっと結論を急ぎすぎていてshallowだなぁと感じていた。
で、宮元啓一さんはインド哲学七つの難問(2002年、講談社)でどう言っているかというと、ナーガセーナが「轅、軸、輪、車体、車棒、軛、輻、鞭のそれぞれが車ですか?それともそれらが合したものが車ですか?」と問いかけて、ミリンダ王は「尊者よ、そうではありません」と答えるのだが、もし王が「尊者よ、そうです。それらが合したものが車です」と答えていたらどうなったか、と疑問を投げかけるのだ。そしてもしそのように王から答えられたら、ナーガセーナは、実在するのは部品だけで、それらが組み立てられた車は名のみの存在だと言いたいのだろう、と。そうしたら王は「部品も実在するでしょうか?部品もさらにその構成要素にバラしていけば存在せず名のみとなりませんか?」と反論して、ナーガセーナは困るんじゃないかと。面白いなぁ。どんどん細かくしていくと、論理学上の無限後退に陥るということである。論理学では無限後退はダメなんだろうか。物理学でも無限が出てくると論証が難しくなると聞いた。でもフラクタルという概念からはどこまでも細分化できるし、現代の素粒子物理学でも、今はこれ以上細分化できないものをクォークなどの素粒子と呼んでいるが、かつての原子が最小単位ではなかったように、いずれさらに細かなものが発見されるかもしれないとのことだ。ひょっとすると最小単位は真空のエネルギーの凸と凹で足せば無となるものがひととき存在しているだけ、ということかもしれないし、私はそうだと感じている。また組み上がった車も車の効用があれば車として使われるが、グズ鉄として材料にもなる。私が長年奉職した自動車会社の2代目は先年亡くなられたが、生前、直接何度も「籠も馬も無くなった。自動車だっていつ無くなるか分からんぞ」というのが口癖だった。その時車は歴史の上にしか存在しない。三河湾には使わなくなった電車の車体が魚の棲家として沈められたということだ。椅子は椅子の効用を認めるものにとって椅子、机やタンスと合わせて家具ということもあれば、高いところのモノを取るため踏み台になったり、私の学生時代、教室に入れないためバリケードにも使われた。火に焚べる薪に過ぎないこともあるかもしれない。
誠に諸行無常、諸法無我、五蘊皆空である。
というわけで、ミリンダ王の問いでは、ナーガセーナ長老は少し舌足らずと思っていたことを、宮元啓一さんが同じように思っていたという発見であった。がしかし、私は無限後退は構わないと思う。宮元さんと違うと思うのは、小さく小さくしていって、究極は行き着くところないのが真実ではないか、と感じているのである。そして、原子であれ、分子であれ、素材であれ、部品であれ、組み上がった製品であれ、組織社会であれ、太陽系、銀河、宇宙であれ、いずれも宇宙論的な無限の時間の中では、その形があり、その効用があり、その名前を持つのは、所詮一瞬であって、諸行無常、一切皆空ということなのであろう。


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