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自動車専門商社→自動車メーカー本社労務課→アメリカ工場工務部→本社技術部→中国工場(成…

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自動車専門商社→自動車メーカー本社労務課→アメリカ工場工務部→本社技術部→中国工場(成都)→中国本社(北京)→本社技術部→ハウスメーカー(名古屋、東京)→ようやくスローライフ

最近の記事

わたし的には第2の仏教伝来

佐々木閑さんのミリンダ王の問い(YouTube版)では、初期仏教において身体の不自由な方に対する差別思想があったかどうか論じている。ミリンダ王の問いにおいて、ナーガセーナは「現在、目や耳や肢体に不自由のある方は、過去の業の因果の結果、すなわち過去生において悪をなしたことの報い」と答えている。このことは今日的な価値観からはちょっと差別的、身体不自由のある方にとって不快な説である。中村元の翻訳においては、この部分をそのまま訳さず、曖昧で、何を言っているのか不明な書き方になっている

    • 長部経典沙門果経 出家の功徳についてなるほど

      アジャセ王が釈迦に「出家するとどんないいことがあるか?」と問われて答えたこと。ウィキペディアで調べたら分かりやすくこれならできるかもと。 ちなみに六師外道の先生方は主に功徳はないという答えでアジャセ王は満足しなかったという。 ホント分かりやすい。以下引用 「釈迦はまず、下僕や農夫であろうと、 身体・言葉・心(身口意の三業)を制御し、最小限の衣食に満足し、閑居を楽しんで日を送れる ことを述べる。 更なる果報を問われ、波羅提木叉(具足戒)による制御により、正しい行いや托

      • 中田考さんのことを仏教徒みたいに感じる理由の説明

        私は中田考さんと佐々木閑さんを推しとしているが、どちらかというと初期仏教から大乗の唯識や、空の思想、そして実家の宗旨である浄土真宗の関連を読んだりYouTubeで聞いたりして仏教関連雑学を身に着けて楽しんでいる。そうした中で中田考さんはイスラミックステートの事件くらいから読むことになり、同志社一神教センター教授の頃の講演をYouTubeに見つけたり、飯山陽との対談や(この方は強烈な反ハマスだったのだが、ガザの殺戮以降、選挙戦でもあまりこのことに触れないで、触れたら反感買うと思

        • ミリンダ王の問いの車の譬え

          個人的にミリンダ王の問いがマイブームだ。佐々木閑さんが現在YouTubeでミリンダ王の問いを講義しておられる。そこで中村元訳を図書館で借りてきて読んで、書店で宮元啓一さんによる最新の訳出版を見つけて立ち読みで通読して。中村版も分かりにくいわけではないが、宮元版はより今日的で淀むことなく読み進めた。そこでは最初の譬え話が「車は存在するか」、という話で「轅、軸、輪、車体、車棒、軛、輻、鞭のそれぞれが車ですか?それともそれらが合したものが車ですか?」とナーガセーナがミリンダ王に問い

        わたし的には第2の仏教伝来

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          手塚治虫ブッダと小此木啓吾の日本人の阿闍世コンプレックス

          手塚治虫ブッダと小此木啓吾の日本人の阿闍世コンプレックス

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          Q.なぜ唯識思想は大乗仏教の救いの思想に繋がるのか A.一人一宇宙だから

          唯識が大乗仏教の慈悲に繋がるのは一人一宇宙だから、という答えを横山紘一さんの「やさしい唯識」(NHKライブラリー)に見つけた。 唯識思想ではただ識のみが存在し、識以外に自分も外界も存在しない。 すべての存在と認識するものは、意識の最も底にある阿頼耶識の投影である。 人はみな、ひとりひとり、阿頼耶識から生じたものを世界、宇宙と認識し、そこから抜け出ることはできない。これを「一人一宇宙」という。一人ひとりは別々の宇宙を持っているということだ。お互いの眼前に「あり」、同じように見

          Q.なぜ唯識思想は大乗仏教の救いの思想に繋がるのか A.一人一宇宙だから

          なぜ空の思想は大乗仏教において多くの人に救いを与える根本思想と言えるのか?ChatGPTの答えはよかった

          龍樹は、古代インドの哲学者であり、彼の空の思想は、大乗仏教の重要な基礎となりました。空の概念は、個々の実体や永続するものの存在を否定し、あらゆるものが相互に関連し、依存し合って存在するという理解を表しています。なぜこのような空の思想が、小乗仏教ではなく大乗仏教の根本思想として位置づけられるのか、その理由を論じてみましょう。 多元的な解釈と包括性: 大乗仏教は、一般的に多元的な解釈と包括性を重視します。空の思想は、この包括性の中核を成すものであり、あらゆるものが相互に関連し、

          なぜ空の思想は大乗仏教において多くの人に救いを与える根本思想と言えるのか?ChatGPTの答えはよかった

          諸法無我(3)よく整理されたお話をみつけた

          「空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ」という東大斎藤明先生のお話がよく大乗仏教や空、諸法無我について整理されていて、わかった気がする。以下抜き出しつつ自分として理解してみる。 釈迦が修行で気づいたことは、苦しみは過度に自分自身に執着することから生じるのだと。でも諸行無常であり、諸法無我だから、こだわり執着する対象もこだわってる自分もないよ、ということで無我、非我を説いた。しかしそのためには出家して、布施のみで生き、財物を一切所有しない、という厳しい戒に従うことが求めら

          諸法無我(3)よく整理されたお話をみつけた

          諸法無我(2)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」を読んで

          この本の最初にリベットの実験。手首を動かそうとすると、手首が動く550ミリ秒前に脳波(準備電位)が出て、それから200ミリ秒経って自覚的な意思が「手首を動かそう」と思い、それから350ミリ秒経って手首が動いた。この意味するところは意思より前に脳が反応しているということはなんだろう。ここから、自分の意思なんか存在しなくて、本能というか、自然が自分を動かしている、のではないか、ということの実証実験となっていると。 次に、この本には唯識が出てくる。親鸞の正信偈に出てくる天親菩薩が考

          諸法無我(2)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」を読んで

          諸法無我(1)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」をこれから読む

          清澤満之が大谷大学を辞めて最後、愛知県大浜の西方寺に副住職として入り、結核を病んで浜風として寺に伏して暮らすようになってから。ミニマルポッシブルな生活を営むことで意識の上では極めて初期の原始仏教的な禁欲に自らを律するが、自分のものなど無い、ということで妻子と縁を切り(西方寺は奥さんの実家のようで、死ぬまでそこに起居してるし、昨年お会いした現在の住職は満之のお孫さんだが)、さらには病で自らの体も自分の意思でどうにもならないことで、無我の真実を実感したと読んだ。そうなんだ。心臓や

          諸法無我(1)。「未来は決まっており、自分の意思など存在しない」をこれから読む

          仏教の流れについて(2)無知だったこと、今ようやく成る程、と

          廃物毀釈について腹に落ちた。これまで齧って来たことに加え佐藤哲朗、星飛雄馬、岡本直人諸氏の対談を聞いて、そうか、と。これまでは明治新政府の欧化政策のなか、ヨーロッパ王権がカソリックや国教会によって権威付けられている仕組を取り入れて、王政復古とセットで国家神道を新政府に導入するに際し、邪魔だから、さらに神仏習合の下、仏教僧侶の下流に置かれた神道家の積年の恨みもあって、寺や仏像が破壊されたとのみ理解して来た。しかし、梵我一如、国土草木悉皆仏性、ひとはみなそれぞれに仏性を備えており

          仏教の流れについて(2)無知だったこと、今ようやく成る程、と

          仏教の流れについて(1)無知だったこと、今ようやく成る程、と

          ヒンドゥー教10講から。 空海の密教は全く正当なタントリズムだと。ヒンドゥー教の今日に残るタントリズムの儀式作法と空海が招来した真言宗の儀式作法は全く同一であると。ミシェール·ストリックマンは1972年学会のため訪日したがこのことにショックを受けて5年京都にとどまり密教を研究した。1300年以上も前に書かれた中国のテキストを通じ知っていたことが突然京都で目の前に現れた、と。インドの中世シヴァ教の聖典と中世仏教のタントラは全く同じもので、後者は中国から日本に伝わり、真言宗として

          仏教の流れについて(1)無知だったこと、今ようやく成る程、と

          釈迦の仏教から大乗、阿弥陀如来に来る流れ

          保坂俊司氏のインド宗教興亡史で、今日までの仏教の成立の流れについて、これまで不思議だったことがつながったように思う。 インド社会の都市化にともないバラモン教で飽きたらない新興層に向け仏教ならびに六氏外道と仏教側が呼ぶウパニシャドの沙門新宗教が数多く並び立った(ジャイナ教やヨーガなど)。シャカは自らの解脱のみを目指していたが、梵天の依頼でちいさなサークルで教えを広めた。没後アーナンダの記憶など中心に経典化し、スリランカへの布教がタイなどのテーラワーダ(長老派、小乗仏教)として今

          釈迦の仏教から大乗、阿弥陀如来に来る流れ

          文豪春秋、御堂関白記 面白かった

          文豪春秋、御堂関白記 面白かった

          小乗と大乗、修行と称名、臨済宗と曹洞宗

          仏教思想のゼロポイント、最後の巻末辺りに、テーラワーダ(小乗)は修行によるガツンがないと解脱して涅槃に行けないが、大乗は日常生活で阿弥陀如来に帰依し称名念仏すれば浄土に連れていってくれる。その流れに禅ふたつの派閥もあるんだ、というのが面白かった。 臨済宗では公案が覚りに必須科目。なかには答えた途端、気を失って、ふと気づいたら覚っていたと。 曹洞宗ではあんまり深く考えず、座禅と作務、掃除、洗濯、草刈、皿洗いを極まったところに覚ると。 小乗はクシャトリア中心とした釈迦のようにエリ

          小乗と大乗、修行と称名、臨済宗と曹洞宗

          仏教思想のゼロポイントを読みながら思ったことの最後に

          著者は最後に大乗を定義している。 独覚の人は自分だけで涅槃に行く。最初の釈迦はそうしたかった。しかし仏陀は梵天に頼まれて、理解しついてくる人には門を開こうか、と。小乗、テーラワーダになると、なんとか小船は出るくらいの人々が修行によって輪廻を脱して涅槃に。それが大乗になると、この世の物語の世界の苦を乗り越える方に重点が。小乗の涅槃は輪廻転生の苦からの解脱。死んでも死んでも続く苦は、苦しい生の入り口になる生老病死。方や物語のこの世界での苦は、尽きない煩悩、すなわちもっともっとの満

          仏教思想のゼロポイントを読みながら思ったことの最後に