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「生きる意味」について

先週末、「生きる意味」について訊かれて、「細かな役割を集積して生きている」みたいなことを答えたのだけど、その場しのぎに答えてしまったので、自分の中でもう少し深堀りしてみたいと思う。

究極的には、「生きる」というのは、生物としてインプットされている本能なのではないかと思う。
そして生物の中でホモサピエンスだけが飛躍的に脳を拡大していき、インプットされている本能を上回る知性や感情を得て、自死を選んだりするようになったのではないか。

「生きる意味」は究極的にはないと言ってもいいような気がする。
生きたいと思っても100年後には100%死んでいるわけで、「どうせ死ぬ」のであれば、今つらい思いをして生きている人にとっては、死んだってかまわないような気もする。
「自死」はよくないことだとされているけれども、例えば不治の病にかかった人が毎日治療で苦しみながら治る見込みもなく生きていくのはつらいと思う。そういう状況になったら、わたしは自死を選ぶような気がする。
でもそこに1mmでも望みがあるならば、未来に希望があるならば、そのために生きていられる気がしていて、それが「生きる意味」なのではないかと思う。
例えば、不治の病にかかっていたとしても、来週末に孫がお見舞いに来てくれることになっていたら、その日まではがんばって生きていようと思うかもしれない。桜が咲くのをもう一度見たい、でもいい。
少しでもうれしいとか、幸せな心地になるような未来があれば、それが「生きる意味」となりうるように思う。

わたしが答えた「細かな役割を集積して生きている」というのは、その未来の希望を対人関係に絞った言い回しだったのだ。
わたしの場合、大きな予定でいうと、6月に友達と北海道に行く、10月に親と韓国に行く、それはわたし自身が楽しみにしている約束であるし、一緒に行く相手にもわたしの参加が求められているわけで、この予定はおおかた幸せな未来であるので、意識しているわけではないけれど「生きる意味」なのだ。

細かいことをいえば、「日々、当たり前に職場へ出勤すること」も「生きる意味」であると思う。
自分に与えられた仕事をこなすことはもちろんだけど、例えば職場の誰かが急に休んだら風邪かな?などと心配する。
そういうささやかな”気持ち”のつながりみたいなものが、実はすごーく大切なのではないかと思うのだ。

今日の夜、あの映画を観に行く、でもいい。
ワンピースの結末を知りたい、でもいい。
あの友達と仲直りしたい、でもいい。
家族との絶縁状況をいつか改善したい、でもいい。
いつか、オーロラを見てみたい、でもいい。

大したことのない楽しみや希望、誰かの笑顔。
または現状の課題と認識しているものごと。
そういうものを少しずつほうきで手繰り寄せて、ちりとりに入れたら、そこには生きるための糧ができている。


でも、わたしが「細かな役割を集積して生きている」と答えたとき、それはわたしの人生がうまくいっているからだ、というようなことを言われた。
今までの人生に挫折がなかったわけではないけれど、気分が沈み込んで心療内科を予約したこともあったけれど、たしかに今のわたしは仕事とプライベートの調和がとれた生活を送っていて、何人かの信頼できる友達もいて、概ね楽しく心豊かな毎日を送れているなあと思うのだった。

わたしの考える”望みや希望”を大きく上回る”不安や失望”があったのであれば、それを抱えてまで生きていく必要があるのかと先が見えなくなってしまうかもしれない。
でも過去は変えられないから、今の行動を変えて未来を明るくしていく。
その希望を持てれば、それも「生きる意味」になるのかな。
こんな状況で、わたしを終わらせたくない!というような気持ち。
そういう立ち直りの力、いわゆるレジリエンス力をみんなが持てれば、鬱や自死は減っていくのかな。
うーん。とても難しい問題だ。


「生きる意味」ってなんだろう?
もしよかったら、あなたの意見を聞かせてください。

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