今年もクルミド
僕たち家族が大切にしているカフェに、今年も行くことができた。東京の西部、国分寺にあるクルミドコーヒーである。
ものすごく遠くにあるわけでもないから、ふらっと立ち寄れそうだけれど、なかなかタイミングが合わなくて「また今度」が当たり前になっていた。
子どもたちにはちょっと後ろめたいけれど、僕の仕事が休みの日、時間を見つけて嬉しくなって、僕と妻と赤ちゃんの3人で行った。
妻のお腹が大きな時「赤ちゃんが産まれたらしばらく来られないね」と言っていたにも拘らず、すべての子どもたちが、生後数ヶ月でクルミドデビュー(店に行くだけだけど)を果たした。
夫婦になる前、さらには付き合う前にも、僕と妻が行っているお店だから、知らず知らず思い入れが強くなっているお店は、子どもたちと行くと、さらに新しい発見ができることがある。絵本やちょっとしたおもちゃを見つけるのだ。
僕たちの顔を覚えてくださっている店員さんもいれば、新しい店員さんだ・・と僕たちが感じる方もいて、店の新陳代謝はいつきても心地よい。
こだわりのコーヒーの安定感と、季節を感じるケーキ(マフィン)の独創性に、毎度よく考えたなぁと思わされる。
この日は、白菜をラザニア風にしてトッピングしたマフィンと、イチゴを使ったケーキを食べた。最近は、セットの提案がメニューにあるので迷わずにすむ。
この店に来るたびに出会えるのが、初めて来たお客さんかな?という人だ。大抵、テーブルについて目の前にクルミがあると、えっ?となる。
そばにくるみ割り器らしきものがあって、なるほど割って食べていいのか、と理解して、バリバリッと割る。
同行者がいれば、店の感想や出てきたメニューについて話しているのも微笑ましい。大きなテーブルを複数人で囲んで座るレイアウトだからこそ、他人の気配を感じながら、自分たちの時間を過ごす。
それは少し緊張する面もあるけれど、お店や周囲に対する配慮について意識できる仕掛けでもある。誰に気兼ねすることもなく過ごせるのもいいが、お互いに客であり、店に来ているという感覚を共有するのは新鮮な体験だと思うからだ。
この店に来始めた頃、ひとつひとつの商品の値段がやや高く感じられた。ふだん使っているカフェならば、飲み物と食べ物で1,000円程度だけれど、クルミドは1,500円程になるのだ。
しかし最近では、価格高騰の波が高く、どのカフェでも値段が上がっており、ひとり1,000円以上払うことが増えている。
良くも悪くも、クルミドの値段が高いという感覚が薄れてしまった気がする。すべての商品に手がかかることを考えれば、クルミドの価格は妥当だと思う。経済的な余裕ができたわけではないからこそ、感覚の“馴れ”には驚く。
子どもたちが成長し、飲んだり食べたりできるものが増えてくれば、クルミドのようなところで過ごすよりも、もっと安くて快適な場所もあるだろう。
この数年で、カフェのような飲食業の危うさのようなものを見た。それは店側の問題ではなく、使っている客としての存在もまた問われているように感じることがよくあった。
いい店でありつづけてほしいなら、いい客としていつづけることが、やっぱり必要なのだと思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!