見出し画像

ピンクとむらさきのくべつ(4998字)


膝裏をつたう汗に風をとおすように柚香は、聡よりもすこし強く日焼けした足を、ゆったりとバタつかせている。
小高い、山の中腹にある公園の、小さくも大きくもない楡の木のした、不自然なほどに人がいないそこで、いつか誰かが置いた汚い木製のコンテナに二人で腰掛け、かれこれ10分ほど無言のまま座っていた。
日差しから逃れるためか、今は姿の見えない学友の冷やかしを避けるためか、自分自身判然としないまま聡は立ち上がり、楡の木の股に指先をかけはじめる。
別の小さな股につま先をひっかけ、腕のちからと足裏の感覚を使って、スルスルと登りだす。
木の上、といってもせいぜい地上二メートルくらいのところ、半分立ったような姿で幹に腰掛け、一息ついて柚香を見下ろす。
頭には強い日差しがかかっていて、肩には、焼けて肌の薄皮がめくれているように見える箇所があった。
ふり上げてはおろされる足は退屈そうに聡を責めていて、何か、柚香にかける言葉はないかと探してみるも、目に映るのは毛足の長い雑草がはびこる上を風が撫でてよぎる影、楡の葉がつくるまだら模様の光の溜まり、縦に伸びる厚い雲の群れは音もなく漂い、しかし、肺臓のように空気を含み膨れ上がる姿には引き込まれるような騒音の気配がする。
太い枝には螺旋を描いて蟻が這う。
ところどころに節穴があき、やはり日差しのせいなのか乾いて剥がれる木肌がある。
遠くの空はうるさい姿で、静かに見えて、近くの雑な細部は、静かな姿で、やけにうるさく、蝉の声と、踊る楡の葉に掻き立てられるみたいな聡の心臓の高鳴りが、柚香に聞こえない不思議と合わさり、その夏はいつ思い出しても浮かれている。
視覚と聴覚が混ざる。
記憶の中の大人が好き勝手を言う。
柚香はどうすれば喜ぶだろう。
適切な会話も行動も、無限の夏には見当たらず、限られた世界にも見当たらず、気が狂ったように駆け回る夏の、暴力的な明るさを聡は感じた。
「熱中症の始まりにはよく注意するべきだ」
それは誰か、大人が言った言葉だったか、聡が感じたことだったか、今では思い出せない。
そんなことより女の子の気をひく方法が知りたかった。
柚香の気を引くものは見つけられず、脱げかけるサンダルの、ビニルの鼻緒を器用に足の指先でつまみ、足裏にまで風を通している姿ばかりに目を奪われる。
柚香の仕草から聡は目が離せずにいる。
夏の中。
聡の視線だけが動かない。
日差しが柔らかい槍のように降って、柚香を貫き、好き放題に焼いていく。
柚香の踵がコンテナに小さくぶつかる音や、柚香にぶつかる風の音ばかりが観測との差を持たず、聡の敏感な耳と、動かない目に突き入ってくる。
そこへ柚香から「ねえ」と声を掛けられ、少し体を動かした拍子に、木の股に足の甲が入り込み、軽く挫いたことが完全な記憶の切れ目。



あのとき柚香はなんと言ったのだったか、今では思い出そうにも思い出せないが、「いいこと教えてあげようか」と言ったところまでは覚えている。
それから「さとし、顔まっか」と言って柚香が笑ったこともかろうじて。
その先、「いいこと」とはいったい何だったか。覚えていないということはそれほど良いことでもなかったのか、それとも柚香の気まぐれで、口を噤んでしまったのだったか。
それとも顔が赤いと言われて恥じ入り、何も考えられなくなってしまったのか。
その夏、白いTシャツに短パンを履いて過ごした柚香の姿は何度思い出しても細く、筋張り、腰つきも男の子のようで、首の後ろだけが長い髪の毛に隠れていつも白かった記憶がある。その髪の首筋の部分だけが女の子らしかった。
ただ聡はいつ、柚香の首筋を見たのかを思い出せない。
柚香の後ろの髪が風になびいたのか、柚香が自らの手で髪の毛をよけたのか。
思い出せない柚香の首筋の前後があの夏の空白を作り、埋まらない記憶と会話がもどかしいあの季節を青く彩ったまま、まるで水底に沈んでいるように息苦しい姿をしている。
思い出そうとすればするほど、柚香の細部が生々しく浮かび上がってくる。
汗ばんだ膝の裏とか、赤い踵とか。
首筋とか、尻と太ももの境目とか、見た目とは違う、女の子らしい、こい、甘いにおいばかりが浮き立ってくる。
記憶の中の聡の視線は、背中側から見るときばかり遠慮がない。
夏はいつも思い出せない記憶の探索から始まる気がしている。
実のところはいつも風に吹かれてから慌ただしく始まる。
風が楡の木の下のざわざわ鳴る木陰を思い出させ、風が雲を煽って奔放に揺れる柚香の足を思い出させ、風が金木犀の香りを運んでは夏の悪さを思い出す。
数珠繋ぎの、匂いつきの記憶が、夏の記憶をあぶり出す。
寄せては返す音、光、においの波は、いつも夏に流行る歌の中に納まっている。
小学3年生だった。



「記憶は夜に凝縮しまして、夏の日差しに目が覚める頃、放散します」
「思い出せない記憶について、わたしはいつも思い出します」
聡は柚香の首筋を思い出し、どうして柚香の首筋を見たのかが思い出せないことを思い出す。
お祭りの夜に髪を縛っていたのだったか、鉄棒にぶら下がって天地逆転したのだったか。
思い出せば思い出すほどどれもこれもそれらしく、夏を繰り返すたび聡の眼には、本当にあったのかなかったのか分からない柚香との記憶が、淡々と積み重なっていく。
今日会ったら聞いてみようと何度か思ったが、聡に植え付けられたフェチズムを晒さずにどうやってその記憶にたどり着けば良いのか分からずに二回、三回と夏を越した。
あの記憶から、多分間違えてなければ五回、夏を迎えた夜。中学2年の夏休み。
聡の一番痛い夏。
天体観測の約束をした。
柚香と、友人3人、つまり五人で、夏休み中盤の登校日、悪だくみをするみたいにウダウダと教室に残って、何時に集まるとか何を持ってくとか、星を見終わったあとは何をするかをよくよく話して、解散した。
本当はずっと一緒にいたかったし、夜までずっと一緒にいたって良かったのだけど、待ち合わせの数を増やしたかった。会い始めが好きだった。五人ともそうで、そんな五人だから仲が良かった。
一人、また一人と集まってくる。誰が何番目に集合場所にたどり着くかは決まってる。柚香が一番、二番は聡、夏海が来て、好也と翔真は最後に、わざとちょっと遅れて、二人で来るに決まってる。
ところが最初に待ち合わせ場所にたどり着いたのは聡だった。
意外だとは思ったが、いつもの聡よりも数分早く歩いたのは絶対に、柚香と二人の時間を増やしたかったからだと思う。
そう思うのは、聡かどうか分からない。
この話の語り手がそう思ってる。
だからそう語る。
この話の語り手は聡とほぼ同じ存在で、記憶を共有しており、思い出せない記憶について、聡と一緒に思いを馳せることができる。特別。夏に出てくる。毎年の夏、この、天体観測の夜みたいに風が強い日に出てくる。風に連れられてやってくる夏の実感の中に、この日の出来事がある。台風のような形をしている。
その夜を駆け抜ける風はぬるく、空は星で明るい。
星の上を、星の下を、そのどちらかを、風が走り、いや、風で雲が流れている。
誰も来ない夜になった。
級友は聡と柚香を二人きりにしようと企んだ、と後から知った。
怒りはしなかったが、疎遠になった。
柚香は恐れをなして聡と二人きりになるのを拒んだから。
その日、柚香からメッセージが届いた。

またバカにされるところだったよ!

聡は楡の木の下で二人、戸惑いながら過ごした日の空白が一つ埋まった感覚がした。
何かのバツゲームと称したからかいだった。
男女でふたりっきりにされるというだけの幼い遊びだった。
会話は続いた。
会わなかったけれど、会えなかったけれど、聡は帰る道々、柚香と会話をしながら夜道を歩き、返信のために立ち止まったりした。
強い風に煽られる雲を眺めながら、柚香の声がポケットの中で震えるのを待った。
やっぱりこれから会わないかと誘うには遅すぎる時間に、柚香と会いたかったなと、思い切って誘えば良かったなと思った。柚香もそう思ってたんじゃないかと思ったのはもうずっと後のことだった。


この日に連なるのは小学6年生の夏の出来事。
記憶は時系列通りに積みあがっていなかった。
級友と共に花火を見る約束をした。
やっぱり五人。聡と、柚香と、夏海と、好也と翔真。
河川敷に向かう前に、コンビニで待ち合わせをした。
聡の腕に巻き着けられたデジタルの腕時計が6時23分を示している。
意味もなく液晶のバックライトをつけて、仄青く光る時計と、まばらな雲の向こうに沈む淡いオレンジを見比べれば、なぜか寂しさと心細さが募った。
6時30分に集合の予定だった。
柚香は早く来ると思い、聡は10分頃からコンビニの前にいる。
間もなく柚香が来た。
大きな朝顔の花がちりばめられた黒い浴衣姿に、えんじ色の巾着を持っていた。
髪の毛を後ろで縛り上げているから首筋が見えた。
聡がこの日の首筋を覚えているのは、いつか見た柚香の首筋の記憶が既にあるからだった。


「自由研究やった?」と聡は、長い時間をかけてから言った。
「やったよ。でも、やり直すかも」
「なんで?」
「なんかつまんないかも。時間あるしね」
柚香は口が大きい。笑うと口が横にいっぱい広がるところが可愛いと思う。
笑顔の研究。柚香の肩を掴んで、正面からよく観察したい衝動にかられた日だった。
「なにやったの?」
「どうして絵がへたくそな人は絵がへたくそか」
「は?」とか細い声を出しながら聡は笑う。
「さとしは?」
「いや、おれは普通だよ」
「普通?」
「普通に、星の研究」
「普通なの?」
「うちに天体望遠鏡あったし、父さんが、天体観測に連れてってくれるって言ったから」
「いいなあ。男同士ってかんじ?」
「うん、まあそんなかんじ」
 

聡はのちのち何度も思い出した。
してない会話を思い出した。
男同士って感じ?
そんなことないよ、妹も一緒に行くこともある。
あいつすぐ眠くなって帰りたがるけどな。
そうだ、今度柚香も一緒に来ない?
天体観測。後部座席。コンビニ。
そういう夏を柚香と過ごすことができた可能性について思い出す。
この日の、この記憶を越えていれば、中学二年のあの夏の日、級友に唆された天体観測の夜、素直に柚香を誘うこともできたかもしれない。
この日から始まってた。楡の木の下から始まってた。何か言えば良かった。
実際は「絵下手でしょ? わたし」と、柚香の自由研究の話が続いた。
「いや、おれよりはマシだろ」
下手だった。
柚香の絵は下手だった。
聡はそのことに気付いてた。
目立たない絵。見せられても困る絵。
「下手なんだよね。それが何でなのかってことを研究したの」
「面白そうだけど」
「結論はねえ、ちゃんと見てない。これだった」
「例えば、この浴衣の花の色」
「ピンクと、むらさきがあるけど、きっと私が何も言わなかったら、絵が下手なさとしはよく覚えてない」
「だから絵に描こうとしたら、ぜんぶむらさきの花にしちゃったり、ぜんぶピンクにしちゃったりする」
「見てるのに、注意してないから、描けないものがたくさんある」
「色は忘れなくても何の花か忘れる。浴衣の形とか、きんちゃくの形とか、わたしの髪形とか、全部、見てるようで見てない。見ながら描いても描けない」
「見て描いたとしても、絵が下手な人は思い込みで描いちゃう」
「読書感想文のやつでね、『シャーロック・ホームズの冒険』を読んだの」
「『君は、目に見えはするが、観察しないんだよ。見るのと観察するのと、その区別は明らかだ』」
柚香は肺に思い切り空気を溜めてから言った。
「記憶は夜に凝縮しまして、夏の日差しに目が覚める頃、放散します」
「思い出せない記憶について思い出します」
これは聡が読んだ本の言葉だったか。

柚香が着ていた浴衣の柄を覚えてる。
聡が見つめた柚香のこと全部。
記憶にあります。小さなことまで覚えてます。
黒地。ピンク色の朝顔の花、むらさき色の朝顔の花。
夕顔だよと、柚香は、そんなどうでもよいことを言って、聡をからかうかもしれない。
そんなどうでもよいことを言って、聡の気持ちをはぐらかすかもしれない。
そんなどうでもよいことを言ってるうちに、他の三人が来る。
そういうことばかり思い出す。
始まらなかった二人の会話と、交わされなかった二人の視線がずっとある。
毎年同じにおいの風が通る。
毎年同じ星が巡る。
何もなかった二人の夏の話は、歳を重ねるたびに濃くなっていく。


ピンクとむらさきのくべつ(完)

この記事が参加している募集

夏の思い出

いただいたサポートは本を買う資金にします。ありがとうございます。