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【小説】フェチの調味料


20代くらいの女性の後に続き、駅のホームへと続く階段を上っていた。目の前の女性は膝まであるタイトなワンピースを着ていた。私は丁度、女性の足がよく見える位置にいる。

毎日、駅を利用しているとそんな光景は当たり前にある。よれたスーツのズボンを穿いたサラリーマンの時もあれば、ラッパアズボンを穿いた若者だったり。

いつもなら、そんな当たり前の光景など気にもとめない。だけど、今日に限っては目の前にある足がやけに目についた。

女性はベージュのストッキングを穿いていた。透け具合からして20デニールだろうか。ふくらはぎはツンと上を向いている。太ももの筋肉が発達しているのか、スカートが今にもはち切れそうだ。

その足は、荒波に揉まれてもびくともしないフジツボのような、そんな力強さを持っているように見えた。

ストッキングの光沢と駅構内の照明がその足を艶かしく魅せる。彼女の足はけっして美しいわけではない。私はこの階段で美しい足をした女性を何度も見てきた。なぜだかわからないが、彼女の足がこれまで見てきたどの女性の足よりも美しく見えた。

階段を上りきろうとした所で彼女の足に違和感がある事に気がついた。目を凝らして見てみると、ストッキングが所々、伝線していた。思わずホームへと歩く彼女に駆け寄り、声を掛けた。だが、すぐに我に返った。私のようなずんぐりむっくりで、採取したばかりの岩のりのような髪の毛をしている清潔感のない男から声を掛けられたら恐怖だろう。ましてやストッキングの伝線を指摘するなんて下手したら痴漢に間違われ、駅員に突き出されるかもしれない。私は声を掛けた事を酷く後悔した。

しかし、振り返った彼女は私を見て一瞬、驚いた顔をしたが恐怖で顔を歪めることなく「んふふ。あなたの声、観音様みたいね」と笑った。あろうことか初対面の、しかもストッキングの伝線を指摘した不信な男をお茶に誘ってきたのだ。

私はこれまで女性をお茶に誘った事もなければ、誘われた事もない。こんな容姿だ。昔から家族や級友、近所の人たちから起き上がり小法師こぼしだと揶揄されてきた。女性を誘いたくても躊躇してしまう。それを、そんな私を彼女はお茶に誘ってくれたのだ。初めての経験だ。私は迷わず快諾した。

電車内でお互い簡単な自己紹介をした。彼女は堀子ほりこといって私の8つ上で大手百貨店でエレベーターガールをしているという。実家暮らしで、堀子の家は私のアパートのすぐ近くだった。

田舎から上京して数年が経つ。大学とアルバイトで忙しく、近所にどんな人が住んでいるかなんて知りもしなかった。正確には忙しさを理由に人を避けていたのかもしれない。田舎にいた頃と同様に容姿をからかわれしまうんじゃないかと思ったからだ。

だけどそれは杞憂に終わった。この都会は人で溢れている。岩に密集するフジツボのひとつが歪な形をしていても誰も気に留めないように、私の容姿を気に留めるものはいなかった。現に大学でもアルバイト先でも揶揄された事はなかった。もう少し近所付き合いをしていれば、もっと早くに堀子と知り合っていたのかもしれない。

私たちは最寄り駅に到着すると、駅から徒歩5分ほどの所にある“ボンノウ・マミーレ”という喫茶店に入った。堀子は常連らしく、マスターと親しげに会話を交わした。夕食を済ませていなかったので、絶品だという鉄板ナポリタンを注文した。鉄板の上に敷かれたほんのり甘い薄焼き玉子と粉チーズまみれのナポリタンの組み合わせは確かに絶妙だった。

腹を満たしたところで、改めて目の前に座る堀子を観察した。彼女はすさび海苔に似た黒く艶のある髪の毛をひとつに束ねていた。タレた大きな目にレモンイエロウのアイシャドウがよく似合っている。巻き簾のように密集している長い睫毛が妙に色っぽい。桜でんぶと同じぴんく色の頬、団子鼻の下の控えめな唇には真っ赤な口紅が塗られていた。

何かに似ている。

そうだ、マトリョーシカだ。

私の実家は明治から続く海苔屋を営んでいる。お袋が近所の骨董屋でひと目惚れして買ったマトリョーシカが店先に飾ってある。地味な店内のためか、赤を基調とした50センチ近くあるマトリョーシカはやけに目立っていた。目印に丁度いいのだろう、マトリョーシカの前を待ち合わせの場所にする者もいた。町内会の名簿には、いつのまにか“堀海苔店”ではなく“マトリョーシカ”と記載されている。マトリョーシカはいつしか海苔屋のシンボルマークとなっていた。目の前に座っている堀子は、そのマトリョーシカにそっくりなのだ。

食後の珈琲を飲み終わった堀子が口を開いた。

「びっくりしたよね。初対面でいきなりお茶に誘うなんて」

「いえ…まあ、驚きはしましたが、こちらも伝線してるなんて変な事を言ってしまって…」

「ああ、それは気にしないで。これは舞台の小道具でね、わざと伝線させてるの」

「小道具…?」

「私、昼間の仕事の他に役者をやっててこの近くにある小劇場の劇団員なの。ほら、あそこに三階建てのビルがあるでしょ?」そう言うと、堀子は道路を挟んで向かいにある薬局の隣のビルを窓越しに指さした。ビルには黒字で“しんたいビル”と書かれていた。かなり年季の入った建物で、茶色い外壁には大小様々なひび割れが所々みられた。

「あそこの2階で舞台をやってるの。劇場っていっても50席もないから劇場なんていえないけどね」

あんな所といったら失礼だが、舞台など縁のない生活をしてきたので、劇場といったら大きな建物を思い浮かべてしまう。今夜、公演があると堀子は言っていたが、ビルの一画で舞台ができるなんて信じられなかった。

「他に役者さんは何人くらい所属されてるんですか?」

「私を入れて7人。皆、それぞれ本業があって年齢もバラバラなの。そのうちの1人が役者もやって脚本、舞台演出、監督もやってるのよ」

1人で役者だけじゃなくて脚本や舞台演出、監督も?そんな事ができるのだろうか。

「劇団には名前みたいなものはあるんですか?」

「一応あるわよ。起き上がり拳って名前がね」

「起き上がり…こぶし?」

久しぶりに誰かの口からその名称を耳にした。正確にはその名称に似たものだが。田舎で起き上がり小法師だと揶揄されていた頃の記憶が蘇る。本当は嫌だったのに、自ら小法師のマネをして皆を笑わせいた滑稽な自分を思い出し、コップを握る手に力が入った。

「なんでそんな名前なのかわからないけど、私、その名前が決め手で劇団に入ったの」

「名前が?…それは何故ですか」

「起き上がり小法師って知ってる?私、それが好きなの。昔から芝居に興味があって、入団するのに劇団を探してたら大好きな起き上がり小法師と似た名前の劇団を見つけてここだ!って思って」

起き上がり小法師が好きだと言った人は初めてだった。あんな間抜けな置物のどこがいいのか。何度倒されてもヘラヘラして起き上がる姿が嫌いだった。卵形の小さな体が自分を見ているようで腹が立った。

「小法師のどこがいいんですか?」

思わず強い口調で問いかけた。

「昔、おばあ…祖母が東北に旅行にいった時にね、私へのお土産に起き上がり小法師を買ってきてくれたの。小法師って転んでも転んでも起き上がってくるから七転八起っていって縁起物なんだよね。最初は倒してもすぐ起き上がってくる小法師を見て面白い!って思ったんだけど、何度か倒してたらニコニコした顔が不思議と勇ましい顔に見えてきたの。それと、卵形の小さな身体に強くて温かいものが詰まってるようにも見えて、胸がぎゅっとしてきたの。なんだかわからないけど小法師が愛おしく思えて…」そう言って堀子は遠くを見るように優しく目を細めた。

小法師が勇ましい?強くて温かいものが詰まっている?愛おしいって…。そんな見方をする人もいるのか。今まで小法師が私の容姿を貶す材料に使われてきたので、彼女が小法師を好意的に見ている事に、冷たかった手がじんわりと温かくなるのを感じた。

「駅でコタツ君を見た時、起き上がり小法師に似てるからびっくりしちゃった。小法師の声ってこんな声をしてるんだ、もっと声が聴きたいと思ってお茶に誘ったの」

似ていると言われる度に嫌悪感を抱いていたが、不思議とその気持ちはすっかり消えていた。

「その小法師なんだけどね、今でも大事にしてるんだよ。下駄箱の上に置いてあって小法師を倒して起き上がるのを見てから家を出るの。それをすると何故だか元気になるんだよね。でもね、疲れている時は起き上がらなくていいよって、頭をセロテープで固定して寝かせてる時もあるの。んふふ。おかしいよね」そう言って笑うと、堀子のタレた目は更に垂れ下がり目尻からいくつものシワがのびた。駅で私を見て笑った時、彼女のシンボルマークのように笑いジワがあった事を思い出した。

「そういえば、これから舞台なんですよね。どんなお話の舞台なんですか?」

「ああ、フェチの調味料っていう話」

「フェ…チ?」

フェチってあのフェチの事だろうか。調味料って…

「変わったタイトルだよね。私も初めてきいた時、どんな話なのって驚いたもん。劇団はけっこう昔からあるんだけど、ずっと同じ脚本で舞台をやっているの。でも、まったく同じってわけじゃなくて時代背景は変えてるけどね」

堀子の話によると劇団の歴史は長く、結成当初、劇団の代表であった男の家の蔵に、亡くなった祖母が集めていた古書が残されていた。蔵の整理をしていたらその中に、厳重に保管された小説があった。男はその小説を何気なく読んでみたら思いの外はまってしまい、それ以来、男はその小説を肌身離さず持ち歩いた。舞台に上がっている時も男は小説を読んでいたらしい。困った劇団員たちはその小説で舞台の脚本を作ったら小説を手放してくれるのではないかと考え、劇団員で脚本を作り上げたという。その小説のタイトルがフェチの調味料だったというわけだ。男が小説を手放したか定かではないが、そんな事もあり現在まで同じ脚本で舞台をやり続けている。その小説は劇団には残っておらず、脚本だけが受け継がれている。本当にそんな小説が実在していたのか、今となっては誰にもわからないという。

「なんだか面白そうですね。タイトルからして内容はコメディですか?」

「コメディではないかな。強いていうなら怖い話かも」

怖いのは苦手だが、どんな話なのか観たくなってきた。

「観てみたいです。堀子さんはどんな役なんですか?」

「それは内緒。今日は無理だけど、毎月第3木曜日の夜にやるから観にきてよ。今度チケット渡すから連絡先教えて」

お互いの連絡先を交換した後、堀子は今夜の舞台の打ち合わせがあるからと、慌てて喫茶店を後にした。

堀子は慣れた感じだったが、女性と連絡先を交換するのは初めてだった。紙ナプキンに殴り書きにされた電話番号を見て少し胸がちくっとした。

次の公演の日まで私たちは何度か連絡を取り合い、駅でばったり会った時は食事に行くなど、少しずつ親交を深めていった。

大学とアパートを行き来するだけの生活をしてきた私にとって外出といったら食料調達かアルバイトくらいだ。コンパなど興味がないので誘われても参加しなかった。趣味はというと、子供頃からやっている海の生き物調査だ。大学は海洋学が学べる大学に進学した。長期の休みに入ったら色々な地域の海へ調査に行く。そんな私が女性と2人きりで食事に行くなんて誰が想像できただろうか。これは本当に現実なのか。孤独が見せた幻想か。いや、これは現実だ。現に彼女と行ったレストランのレシートと電話番号が書かれてある紙ナプキンが鍵のかかった机の引き出しに仕舞ってある。女っ気のなかった私の人生に、海の守り神である海豚がほんの少し同情してくれたのかもしれない。

公演の日、堀子からもらったチケットを握りしめ劇場に向かった。一番前で観たかったので1時間前に家を出た。劇場は“しんたいビル”の2階にある。1階はテレフォーンクラブが入っていた。3階は今は使われておらず、以前はサラ金だったようで窓にはローンの文字がまだ残されていた。薄暗い階段を上り、2階の入り口にいるスタッフにチケットを渡し、中に入った。室内を見渡すと、床に固定してある椅子が並んでいるのかと思っていたが、パイプ椅子が並べてあるだけだった。ステージはというと、高さ30センチ程で広さはタタミ8畳分くらいの粗末なものだった。

私が一番乗りかと思ったが、何人か客が来ていた。席は自由なのでなんとか一番前の席に座る事ができた。堀子が言っていたが、この劇団の舞台は人気のようで、チケットはすぐに完売するらしい。

時間になると、薄暗かった会場の照明が落とされ真っ暗になった。しばらくすると、ステージの中央にスポットライトが当てられ、男が現れた。ナレーションによると、この男が主人公のようだ。

男はフェチを買い取る商売をしている。フェチが日常生活に支障をきたすまでになった人間が、フェチを手放す為に男の店を訪れるという。フェチを手放す事で元の生活に戻れるようになり、フェチに対する崇拝と異常なまでの執着はすっかり消えてなくなる。ごくたまに、手放しても買い戻そうとする人間もいて、そういう人間には男が買い取ったフェチを少しずつ削り調味料にして渡す。その調味料は塩にも砂糖にもなった。調味料を使うと不思議と冷静になれる。調味料がなくなる頃には執着がなくなる者もいれば、また買いに来る者もいる。1瓶目は無料だが、2瓶目からはフェチを買い取った100倍の値で売られる。その金額に目が覚める者もいる。それでも欲しがる者もいる。それを何度も繰り返し、お金もなくなり周りの人間もいなくなる。最後は残酷な末路をむかえる者もいれば、僅かな不安で戻る者もいる。そんなあらすじのようだ。

スポットライトが消え、暫くすると今度は舞台全体に照明が当てられた。男が営む店に場面が切り替わった。

男の店に1人目の客が来た。20代くらいの女で車椅子に乗っている。女が手放すのは編み上げのショートブーツだった。旅行先でたまたま立ち寄った靴屋で買ったものでショーウインドウに飾られたショートブーツに心を奪われた。女の靴のサイズは24センチなのだがそのショートブーツは22・5センチだった。靴屋の店主に他のサイズをすすめられたがそれを拒否して購入した。女にとって22・5センチが最も美しく見えるサイズらしい。その日から女はサイズの合わない靴を履き続けた。ショートブーツを履く自分を毎日鏡で確認する。そのうちブーツを脱ぐのをやめた。家の中は勿論、入浴中も寝ている時も家族にとめられても履き続けた。ある日、女は歩けなくなってしまった。家族に病院に連れられ、ブーツはすでに普通に脱ぐ事すらできなくなっていた。少しづつブーツを解体し、ようやく足が見えた。その足を見た医師が思わず「もはや人間の足ではない」と漏らした。その言葉で女はショートブーツへの執着が薄れていった。男の店には今まで買い取ったフェチが展示されている。そこに解体された編み上げのショートブーツが加わり、スポットライトが当てられた。

2人目の客は天ぷら屋の店主で、年配の男だった。持ってきたのは真っ二つに割れたまな板だ。10年前近所の鮮魚店で鮪の解体ショーをしていた。鮪の下に敷かれたまな板が使い勝手が良さそうだと強引に買い取った。ある日、今までどんな硬いものを切っても耐えてたまな板が、カボチャを切ったら真っ二つに割れてしまった。男は割れたまな板を持って店を訪れた。買い取り金額はフェチへの崇拝と執着度合いで決まる。今回はそれが見られなかったので逆に処分費用を取られた。真っ二つに割れたまな板は展示される事はなかった。

3人目の客は体格のいい中年の男だ。目が血走っており、なんだか様子がおかしかった。男が手放したのは足だった。半年ほど前に新聞屋からプロレス観戦の割引チケットをもらった。観戦日はたまたま仕事が休みだったのと、女子プロレスの試合は観たことがなかったので好奇心で観に行った。2試合目は新人プロレスラーのデビュー戦だった。新人がコブラツイストをかけられ、体がくの字になってる時に男は丁度、足の後面がよく見える席にいた。技から逃れようと右回りに足を動かす姿を見て、男は子供の頃に実家の牛舎で牛が交尾しているのを目撃した時の事を思い出した。父親を含め、大人たちに囲まれた牡牛の下で雌牛が逃れようともがいて後ろ足を動かす姿と、観客の前で必死に足を動かすプロレスラーの足が重なった。

子供の頃に感じた、見てはいけないものを見た時の背徳感がよみがえる。その背徳感はやがて性的な興奮へと変わった。

その日から男は新人プロレスラーの試合を欠かさず観に行った。プロレスラーがどんな動きをしても、その足はあの時の雌牛の後ろ足に見えた。男の頭の中は足でいっぱいになった。足の事しか考えられなかった。

しばらくすると空前の女子プロブームが訪れた。新人プロレスラーはブームにあやかり人気が出た。ファンクラブができ、観戦チケットの値段も上がり、入手するのも難しくなってきた。チケット販売日は電話の前に座り、繋がるまで電話をかけ続けた。全ての試合を観戦するにも時間が必要となり、足枷となった会社を辞め妻子を捨てた。働いてないので当然お金が底をつき、男はホームレスとなった。それでもチケットの為、日雇い労働をして小銭を稼いだ。

ある日、男が街で鉄屑を集めていると、例のプロレスラーが若い男と腕を組んで歩いている所を目撃した。変装していたが、日ごろ隅々まで観察しているので耳の立ち具合でプロレスラーだとすぐにわかった。けれどハイヒールを履いている足は雌牛の後ろ足じゃなく、女の足だった。デート終わりにプロレスラーが1人になった所で人気のない所に引きずり込み、コブラツイストをかけた。その後の記憶がなく、気がついたら足を持って店に来ていたと男は話した。手放した足は後面がよく見えるように展示され、スポットライトが当てられた。

舞台の上でライトに照らされている足に見覚えがあった。ツンと上を向いたふくらはぎ。筋肉が発達している太もも。所々伝線している20デニールのベージュのストッキング。

あれは堀子の足だ。そうか、堀子は足の役をしていたのか。

ライトがうまい具合に本当に足だけが展示されているように見せていた。

その展示されていた足は、駅ではじめて堀子の足を見た時とどこか印象が違った。そのどこかはわからないが、違うのだ。エレベーターガールをしている姿が見たくて変装して堀子の職場に行った事がある。その時に見た足とも違った。

これまで堀子の足を何度も盗み見みてきた。舞台にある彼女の足はその時のどの足よりも美しく見えた。堀子の足はけっして美しいわけではない。誰もが羨むような足をしているわけではない。けれど私はこの足を、舞台にある堀子の足にすっかり心を奪われてしまった。

頭の中は堀子の足でいっぱいになった。舞台どころではない。4人目の客が手放した声の話など頭に入らなかった。もっと近くで見たい。何故、私はこんな所にいるのか。堀子の足は近くにあるのに遠くにあるように感じた。独り占めしたい。誰にも見られたくない。彼女の足を誰にも見て欲しくない。なぜ私は彼女の足をもっと早く見つけられなかったのだろうか。一体、私は何をしていたのだ。あの足が今までこの舞台で、駅で、デパートで誰かに見られていたと思うと気が狂いそうになる。舞台にある彼女の足を今すぐ隠したい。誰にも見られたくない。着ているスタジャンを脱いで彼女の足を隠したい。誰にも見て欲しくない。

いても立ってもいられず、私は着ていたスタジャンを脱ぎ、立ち上がろうとした。すると突然、室内が明るくなった。同時に役者たちがステージ上に一斉に整列した。一番端には堀子がいた。どうやら公演が終わったようだ。堀子の足に夢中で最後がどうなったのかわからない。主演をつとめた男が挨拶を終えた後、役者たちはお辞儀をし舞台袖へ向かう。一番最後尾にいた堀子は急に立ち止まった。客席を振り返り私に向かって「コタツ君。マミーレで待ってて!」そう言うと、足早に舞台袖へと駆けて行った。

マミーレ…?

ああ、あの喫茶店の事か。

客の視線が私に集まる。刺さるような視線もあった。痛い。それもそうだ。公演が終わったとはいえ、役者が私用の伝言をステージ上から言うなんて普通はしない。それに、特定の客に親しげに話しかけたのだからいい気はしないだろ。もしかしたらこの中に堀子のファンがいるかもしれない。なんだか居心地が悪くなり、劇場を出て足早に喫茶店へ向かった。

この喫茶店に来たのはこれで2回目だ。改めて店内を見回してみると、珈琲の香りが漂うごく普通の喫茶店だ。特に特徴があるわけではない。マスターはというと初老の男性だった。この人も特に特徴はなかった。

注文したウエハースまみれのプリン・ア・ラ・モードを食べていると、「コタツ君、お待たせ」と言いながら堀子が店内に入ってきた。堀子の隣には男がいた。男は私の目の前に立つと軽く自己紹介をした。田中と名乗り、彼が劇団の代表、役者、脚本と舞台演出、監督をやっているという。彼には見覚えがあった。あの舞台の主演の男だ。外資系の会社に勤めており、年齢は私よりひとまわり上だ。舞台の時は化粧で素顔がわからなかったが、端正な顔立ちをしている。リカちゃんのボーイフレンドのマサト君が現実にいるとしたらこんな感じだろうか。彼が街を歩いたら誰もが振り返るだろう。それくらい彼は美男子だった。

田中さんは私の前に座り、堀子は私の隣に座った。3人とも鉄板ナポリタンを注文し、他愛もない会話を交わした。暫くして堀子が家に電話をしてくると言って席を立った。堀子が席を離れ、少ししてから田中さんが口を開いた。

「え…と、コタツ君だっけ?」

「あ、はい」

「今日の舞台の感想を聞かせてくれないか?今後の参考にしたいから」

「はあ…」

堀子の足に夢中で最後まで観ていないなんて言えるはずもなく、私は当たり障りのない感想を言った。

「君、最後まで観てた?」

「え?いや…あの…えっと…」

田中さんの指摘に私は動揺して言葉に詰まってしまった。

どうして最後まで舞台を観ていないってわかったのだろう。

「いや、気にしないでくれ。最後まで観ていられないのは無理もないからね」

「…それはどういう」私が言い終わる前に田中さんが「コタツ君、堀子ちゃんの足に夢中になっていたよね?」

田中さんのその言葉に私は声を発することすらできなかった。

なんで私が堀子の足を観ていたってわかったんだろう。田中さんは舞台上にいたはずだ。芝居中で私の様子なんてわかるはずがない。

私が黙っていると「やっぱり観ていたんだね?堀子ちゃんの足にスポットライトが当てられた辺りからコタツ君の目の色が変わったのに気がついたよ。舞台上からでもね」

そんなにも私は堀子の足に夢中になっていたのか?舞台上からわかるくらいに。堀子も気がついたのだろうか。いや、田中さんが言わない限り彼女の足は展示されていたのだから私の様子なんて見えていないはずだ。

私がまだ黙っていると更に「安心してくれ。この事は僕以外は気がついていない。勿論、堀子ちゃんもね」

その言葉に安堵したと同時に私が堀子の足に夢中になっていた事を知っている田中さんに警戒心を抱いた。

そんな私の様子に田中さんは「あ、そんなに身構えないでくれよ。誰にも言うつもりはないからさ」と笑った。

「なんでコタツ君が堀子ちゃんの足に夢中になっているのがわかったかと言うと、僕もそうだからなんだよ。僕も堀子ちゃんの足に夢中なんだ」

驚いた私は空っぽのコーヒーカップに落としていた視線を、田中さんのほうに向けた。

「隠さなくていい。コタツ君も僕と同じく堀子ちゃんの足に夢中なんだろ?」

「いや…その」

私の返事を待たず田中さんは「堀子ちゃんの足は素晴らしいよね。特に太ももの筋肉。あれはは本当に芸術的だ。アンドレ・ザ・ジャイアントを思い起こさせる」と、やや興奮気味に語った。

アンドレ・ザ…?

ああ、あの大巨人と呼ばれてるプロレスラーの事か。そうか、田中さんはそういうふうに堀子の足を見ていたのか。

田中さんの堀子の足に対する気持ちと私との違いに少しホッとした。

堀子の足はけっして美しいわけではない。世間一般では彼女の足を田中さんと同じような事を思う者もいるだろう。だけど私は堀子の足を美しく思う。天地真理の女性らしい足と彼女の足が店頭に並べられていたら迷わず堀子の足を選ぶ。ご飯を食べている時、朝起きた時、テレビを観ている時、何かをしていても堀子の足が私の視界の端にある。私の頭は何処かおかしくなっているのかもしれない。それほどまでに頭の中を埋めるのだ。

しかし、よく考えてみると堀子の足がアンドレと同じだなんて失礼ではないか。堀子は女性だ。そんな事を言われたら傷つくだろう。田中さんの発言に少し腹が立ってきた。

「コタツ君。堀子ちゃんの足を近くで見たくないかい?」

「…近くで?」

「うん。うちの劇団に入団して欲しいんだ。ちょうど役者を募集していてね。コタツ君が入団したら近くで堀子ちゃんの足を見られるよ?」

私が役者?いや、無理だろう。こんな容姿だ。役者なんてできるわけがない。私が舞台になんて立ったら昔のように起き上がり小法師だと揶揄さるかもしれない。だけど堀子の足を近くで観られるのは願ってもない事だ。

「どうかな…?」

ただ、堀子の足は観たいたいが舞台上からではなく、客席から観たいのだ。

「お断りします」と田中さんの目をまっすぐ見てそう言った。すると後ろから「んふふ。やっぱり断ると思ってた」と、いつの間にか電話から戻ってきた堀子が笑っていた。

田中さんは堀子を見て「あ、堀子ちゃん。堀子ちゃんの言う通り断られちゃったよ」と困ったような顔をした。

「どういう事ですか?」と私がたずねると「田中さんがね」と堀子が話はじめた。

堀子の話によると田中さんが客席にいた私を一目見て役者に向いてるんじゃないかと直感的に思ったらしい。だけど堀子は私がそういうのは苦手だから絶対にやらないと言ったが田中さんは直接交渉するときかなかったらしい。

「コタツ君って見た目が特徴的だろ?舞台映えすると思うんだよね。だから是非うちの劇団に入ってもらいたいんだ」

特徴的?

ああ、起き上がり小法師にみたいって事か。

田中さんは悪気はなく言っているんだろう。だけどその無神経さに起き上がり小法師と揶揄された昔の嫌な記憶がよみがえった。

「田中さん、コタツ君は断ったんだから諦めて。それに、コタツ君が役者になって人気になったら私が困るじゃない!」そう言った後、堀子がハッとした顔をした。そしてすぐさま顔を真っ赤にさせた。

私が人気になったら堀子が困る?

堀子の発言を一旦飲み込んだ。私が人気になって困るとはつまりそういう事なのか?察しの悪い私でもその言葉の意味くらいわかった。彼女が私の事をそんなふうに思っていてくれていた事に胸の奥が熱くなってくるのを感じた。こんな容姿だ。これまで女性に告白もされた事もなければ、した事もない。堀子の気持ちを知り、私は溢れる想いを抑えることなんてせずにその場で結婚を前提に交際を申し込んだ。彼女は私の告白に少し驚いたが目に涙を溜め快く受け入れてくれた。田中さんはというと、急な展開に何故か号泣していた。

それからの私の人生は大きく方向転換した。大学を卒業と同時に堀子に改めてプロポーズをした。仕事は公務員を選択した。海洋生物の研究に関わる仕事も考えたが大学院へ進んで博士課程を修了しておく事が大前提だった。堀子と早く結婚したかった私は大学院に進む事など考えられなかった。この選択を私は後悔していない。毎日、堀子の足を観られるのだから。

堀子と一緒に結婚の報告をしに私の故郷に行った時の事。実家近くの駅で私たちを見かけた近所の人が小法師がマトリョーシカを連れてきたとお袋に知らせたらしく、それを聞いたお袋が真冬だというのに靴下も穿かずサンダルで飛び出し私たちを迎えにきた。マトリョーシカそっくりな堀子を見たお袋の驚く様子は今でもはっきり覚えている。私が子供の頃、半日ほど海に漂流した事があった。目の前で我が子が波にさらわれているというのに慌てる様子もなかった。そのお袋があんなに取り乱した姿はあとにも先にもあれが初めてだった。

双方の両親に挨拶を終えてからは早かった。結婚式では何故か堀子の両親ではなく田中さんが号泣していた。息子が産まれ、皆んなで可愛がった。お袋は海苔屋を親父に任せっきりにし田舎から頻繁に来るようになった。堀子と例の喫茶店に行くようになりマスターとも親しくなった。お土産にと喫茶店を訪れる度にマトリョーシカを置いていくので店内がマトリョーシカまみれになっていった。堀子は結婚を期に仕事を辞め家に入った。劇団は続けていたが、そのうち解散になった。堀子の足をあの舞台で観れなくなるのは残念だが、堀子の足を誰かに観られると思うと胸が苦しくなるので少しホッとした。

それから随分経ち、私も堀子も年を取った。堀子は今、病に伏せている。私は堀子の病室を訪れていた。足の痛みでいつもは眉間に皺を寄せているが今日は表情が柔らかい。静かに寝息をたてている。レースカーテン越しに射す光が、半分、堀子と馴染んでいるのが気になった。

病気が発覚してから堀子の身体はマトリョーシカの中身を取り出すと段々と小さなマトリョーシカが出てくるように、堀子も小さくなっていった。だだ、すっかり細くなった足は荒波に揉まれてもビクともしないフジツボのような力強さはまだ残っていた。

劇団の人たちとはまだ付き合いがあって、時々お見舞いに来てくれている。勿論、田中さんもだ。田中さんは頻回に来てくれるがすぐに帰ってしまう。その理由を私は知っている。堀子に泣き顔を見せないようにと彼なりの気遣いだ。だけど、堀子はそれをわかっていた。田中さんが帰った後きまって「今日は来た時から号泣していましたね」と笑っている。堀子の足をアンドレと言った事は腹立たしいが、情が深い人だ。

「あら、来てくれてたんですね」目を覚ました堀子は目を細め、私に優しい視線を向けた。

「すまない、起こしちゃったかな」

「いえ、大丈夫ですよ。丁度あなたの夢を見ていたんです。一緒に汽車に乗ったんですけどね、あなたが忘れ物をしたって下りたんです。だけどなかなか戻ってこなくて…でも、目を覚ましたら目の前にあなたがいたんです」

「それはすまなかった。しかし忘れ物ってなんだろう…」

「さあ、なんでしょうね。あなたの事だからよっぽど大事なものなのかもしれないですね」そう言って堀子は窓に視線を向けた。

息子がお腹の中にいるとわかってから堀子は私に敬語を使うようになった。敬語なんて使わなくていいと言ったが、いいところの奥様みたいでいいじゃないと取り合わなかった。きっと、私に気を遣っての事だろう。こんな容姿だ。父親がずんぐりむっくりでは威厳なんてない。そんな父親に母親が敬語を使っていたら、息子も自然と私を父親として敬意を払うかもしれないと考えたのだろう。現に息子は小さい頃から私に敬語を使っている。

「覚えていますか?私たちが初めて出会った時の事」

「もちろん覚えてる。私が先に声をかけたんだ。ストッキングが伝線しているって」

「そう、確かそうでした。あの頃、あなたは私の足ばかり観ていましたよね」

「え?そ、そんなことは…」

「責めてるわけじゃないですよ。私、自分の足が嫌いだったんです。今はお婆ちゃんになってすっかり細くなってしまったけど、あの頃はプロレスラーみたいな足でした」

「いや…」

「その足を、そんな足をあなたは観てくれました。愛おしいモノでも観るかのように。私がエレベーターガールをしている時もレストランで食事をしている時も舞台で足の役をしている時も…本当に嬉しかった。だから自分の足を好きになれたんです」

「でも、田中さんは気持ち悪かったです」と子供のように口を尖らせた。


堀子は気づいていたんだ。とんがり帽子を被って変装し、堀子の職場に行って足を観ていた事も、レストランで食事中、わざとナプキンを落とし拾うふりをしてテーブル下から足を盗み観た事も、観客席から前のめりで足を観ていた事も。あの頃の私が堀子の足に夢中だった事を…

「私だって嬉しかった。堀子がこんな私を、こんな…」

「足を…摩ってくれますか?少し痛くなってきました」そう言って私の言葉を遮った。

いつもは自分から摩ってなんて言わないのに今日に限ってどうしたんだろう。よっぽど痛いのか。

私は言われた通り、布団を捲りすっかり細くなった堀子の足を壊れないように摩った。摩っているうちに次第に夢中になり、気がついたら30分くらい経っていた。堀子の方を見ると、目を瞑っている。レースカーテン越しから射す光と堀子が一体になっているのに気がついた。私は慌てて声をかけた。

すると目を開け「あら、来てくれてたんですね」と目を細め、私に優しい視線を向けた。

「堀子…わかるか?」

「わかりますよ。丁度、あなたの夢を見ていたんです。一緒に汽車に乗って…あら?汽車に乗ったのは私だけだったかしら…あなたは…どこに?」

「堀子…?」

「もう出発の時間かしら…」堀子はゆっくりと窓に視線を向けた。

「堀子、私も乗るよ…だから、だからそこで待ってってくれ」そう言うと堀子がハッとした顔をし「だめです。あなたは忘れ物を取りに行って下さい」子供でも叱るように嗜めた。

「嫌だ…行かないでくれ」

「私はどこにも行きませんよ。先に行くだけです」

「だったら一緒に…」

「私の荷造りは終わったんです」

「嫌だ…嫌だ…一緒にいたいんだ…」

堀子が行ってしまわないように、強く手を握った。

「今度は忘れ物をしないで下さいね」

「…堀子…堀子…」

「んふふ。やっぱりあなたの声、観音様みたいね」そう言って笑うと、堀子のタレた目はさらに垂れ下がり目尻からいくつものシワがのびた。駅で、初めて出会ったあの駅で私を見て笑った時、彼女のシンボルマークのように笑いジワがあった事を思い出した。



堀子の葬儀には劇団の人も来てくれた。勿論、田中さんもだ。息子も、息子の嫁も、孫もいる。棺の中の堀子は痛みから解放され、レモンイエロウのアイシャドウがよく似合う優しい顔をしていた。葬儀は粛々と進み、皆、最後の言葉を堀子に語りかけ棺の中を花でいっぱいにした。

一番大きな花を式場の職員に手渡され、それを堀子の顔の近くに添えた。ふと、足元を見た。花で埋もれてはいるが、堀子の足はそこにあった。これで最後なんだ、と。そう思ってしまった。

突然、これまで観てきた堀子の足が頭の中を埋め尽くした。私は足元にある花をかき分け、着物を捲り足袋をとった。上着のポケットにしまってあった20デニールのベージュのストキングを取り出し、それを重く硬くなった堀子の足に穿かせた。なんとか太もも辺りまで上げることができたが、爪が引っかかったのか所々伝線している。

式場の照明とストッキングの光沢がその足を艶かしく魅せた。堀子はけっして美しい足をしているわけではない。だが、目の前にある堀子の足は、これまで観てきたどの足よりも美しい。

気がついたら私は天井を見ていた。私を見下ろしている息子が顔を真っ赤にさせ、こちらを睨みつけている。左頬に鈍い痛みがある。状況を把握するまで少し時間はかかったが、どうやら私は息子に殴られたようだ。

頭がはっきりしたところで周りを見渡した。皆、怯えたような顔で私を見ている。孫は嫁にしがみつき泣いている。息子がまた殴りかかろうとしているのを式場の職員と止めに入った田中さんは、憐れむような目でこちらを見ていた。

息子が殴るのも無理はない。自分の父親が母親の遺体にストッキングを穿かせたのだから正気の沙汰ではない。狂っているとしか思えない。なにより堀子に対しての侮辱だ。だけど思ってしまったんだ。またあの足が観たいと。本当は通夜が終わって二人きりになった時に穿かせようと思っていた。だが、できなかった。ちがっていたからだ。堀子の足を美しく魅せる舞台があの瞬間だった。自分がやった事だ。後悔はしていない。だけど取り返しのつかない事をしてしまった…

田中さんたちがなんとか息子を宥め、私は火葬場まで行くことができた。あんな事をしたんだから本来なら最後を見送る資格なんてない。それを許してくれた息子にはこの先一生頭が上がらないだろう。いや、私たちにこの先はあるのだろうか。息子は最後まで私と口をきかなければ目も合わせることはなかった。私を拒絶するその背中が不思議と頼もしく見えた。


堀子の四十九日が過ぎて暫くした頃、田中さんが訪ねてきた。田中さんは仏壇の前に座り、神妙な面持ちで手を合わせた。仏壇といっても位牌は息子のところにある。仏壇には堀子の写真と荒れてしまった庭で摘み取った花が飾ってあるだけだ。

手を合わせた後、田中さんが口を開いた。

「あれから息子さんとは話せたのかな」

「いえ…一度も口をきいてくれません。四十九日の段取りは全て嫁さんを通してでした。孫も私の顔を見ると怯えています。私があんな事をしたんだから仕方がないんです。田中さんも呆れましたよね…」

「いや…驚いたけど呆れてはいないよ。ただ、敵わないなと思ったんだ」

「敵わない…?」

「正直、堀子ちゃんの足に対する想いはわたしの方が強いと自負していた。だけど葬儀でのコタツ君の行動を見て、これは敵わないなって」

この人は何を言っているんだ?そんなこと当たり前じゃないか。ああ、そうか。そうだったのか。田中さんはあの時、憐れみの目で私を見ていたのではなかったんだ。私は勘違いをしていたんだ。後ろめたい気持ちがあったからそういうふうに見えていたのかもしれない。

もしかしてあれも勘違いなのか?堀子が私に敬語を使い始める前、近所に資産家の夫婦が引っ越してきた。そこの奥さんがやたらと丁寧な口調で…。堀子は私に気を遣っていたんじゃなくて、本当にいいところの奥様みたいに見られたかったんだ。堀子はすぐに影響されるところがあった。ドラマに影響され、やたらとハードな服を着ていた時期があった。ああ、そうか。息子は私に対して敬意を払っていたんじゃなくて、ただ堀子の真似をして敬語を使っていただけなんだ。

私は今まで何をしていたんだ?何を見てきたんだ?息子は何が好きで何を嫌いなんだ?ちっとも思い浮かばない。息子とまともに話したことなんてない。これが私の忘れ物なのか…?

「コタツ君、どうしたんだ…?」

「すみません…ちょっと考え事を」

「堀子ちゃんの四十九日が終わったばかりでこんな事を頼むのも気が引けるんだがちょっと頼みがあるんだ」

「頼みですか?田中さんにはお世話になっているので私にできる事でしたら…」

「マミーレのオーナーにならないか?」

マミーレ…?

ああ、あの喫茶店のことか。

先代のオーナーが店を畳むと言った時に田中さんが外資系企業を辞めてあの喫茶店のオーナーになったんだったな。外資系企業勤めという肩書きを捨ててまで手に入れたあの喫茶店によほどの思い入れがあったんだろうか。田中さんががオーナーになってからは女性客が激増した。あの容姿だ。ファンクラブまであたっとか、なかったとか。今だって女性客が多い。女性からのアプローチが絶えずあったみたいだが、特定の人とは交際をする事なく今も独身だ。

「この年だろ?そろそろ引退を考えてるんだ。だけどあの店には思い出がいっぱいある。畳むのが惜しい。だからコタツ君に継いで欲しいんだ。マミーレを存続させたいんだ」

「田中さんは何故そこまであの、えっと…あの喫茶店の事を?」

「昔、外回りをしていた時に急に雨に降られた時があったんだけどね、その時に初めてマミーレに入ったんだ。入るとマスターがいらっしゃいって言ってタオルを渡してくれたんだ。その気遣いと温かさに思わず号泣してね」

田中さんには悪いがそんな事で号泣?

「そんな事で泣くなんてって思っただろ?当時、仕事がうまくいっていない時でね、人の優しさに触れて溜まっていたものが溢れてしまったのかもしれない。号泣するわたしにマスターは生クリームまみれのホットココアを黙って出してくれたんだ。それからマミーレの常連になったってわけ」

「そんなことが…」

外資系企業勤めという肩書きを捨ててまでのエピソードだとは思えないが、田中さんにとってはそれほどまでの出来事だったんだろう。本当に情が深い人だ。

「ですが私に店の経営は…いくら田中さんの頼みでも…」

「マミーレはコタツ君にとっても思い出の場所だろ?堀子ちゃんとの思い出だって…」

確かに堀子との思い出はたくさんあった。初めて堀子とお茶したのはあの喫茶店だった。舞台終わりの堀子と待ち合わせをしたのもあの喫茶店だった。粉チーズまみれの鉄板ナポリタンが絶品なだけであまり特徴のない喫茶店だったがいくらでもエピソードはあった。お袋が置いていったマトリョーシカは今もあの喫茶店に飾ってある。

「どうかな…?」

だだ、思い出はあるが思い入れはない。

「お断りします」と田中さんの目をまっすぐ見てそう言った。ふと仏壇を見ると、写真に映る堀子の笑いジワが増えたような気がした。

肩を落とした田中さんが帰った後、気持ちの整理がつかなくて見れなかったアルバムを天袋から引っ張り出した。結婚式の写真、新婚旅行の写真、息子が生まれた時の写真…。どれも昨日の事のように思い出す。昔の写真は平気なのだが、息子が結婚し家を出て堀子と2人になった時からの写真は胸が苦しくなり観る事ができなかった。

半世紀近く堀子と一緒にいたが、今でもわからない事がある。堀子はこんな私のどこがよくて一緒にいてくれたんだろう。ずんぐりむっくりで、こんな…。いや、やめよう。起き上がり小法師を愛おしいと言ってくれたんだから。

そういえば観音様の声がどんな声なのかききそびれてしまった。今ごろ堀子は本物の観音様の声を聴いているのだろうか。

                           (おわり)




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