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<4月>スランプまっただなか

Photo by Dan Cristian Pădureț onUnsplash
※先月にも書いた通り、卒業時期が伸びることになり卒アルなのかよくわからなくなったので笑、今月からは普通に月一の定期投稿として書いていきます。


これまでで一番の研究低迷期に入った

三十路を目前にしているこの頃、「自分のため」といった理由では研究や仕事などの作業のモチベーションを維持することが難しくなったと感じている。学生や社会人になりたての頃はやりたいモノやコト、なりたい姿があって、それを実現するために頑張ってきたように思う。だけど、最近は自分のためだとしたらやる気が湧いてこなくなった。

4月になって大学に新入生が入り、自分ともう10歳以上も年の離れた子たちがこれからの日常にワクワクしている姿を見て、正直そんな未来に対する明るいモチベーションを大学という環境に今はもう抱けない自分を強く感じてしまっている。自分がずっと同じ大学という場所にいながら歳を重ねて、(いらない心配だとは気づきながらも)何年同じ場所にいるんだろうという自分の進歩のなさも感じてしまう。

それから、博士課程における「お金のなさ」が実害として生活から彩りをうばってくる。そして今後博士号を取るまでの生活を精神的にとても不安にさせてくる。大学生の頃から生活水準は変えず、月額で使うお金はここ10年くらい変えていない。物価の上昇もかなり大きく影響していて、月に2〜3万円が足りないと感じる。政治家は賃金もあがるから税収が増えても問題ないというけれど、国から出ている博士課程向け給付型奨学金制度(学振やJSTなど)はここ30年近く金額の水準があがっていない(月18~20万円程度。この金額は今では大卒初任給よりも少ない場合もある)。政治家はよくそんなこと言うなと世間に対しても嫌味を吐きたくなる。

誰かのためなら頑張れるのに

自分のためには頑張れないけれど、逆を返すと「誰かのため」なら頑張れるかもしれないのにと考えることが増えた。モチベーションとなる何かを自分の外側に見つけるか、あるいは自分を突き動かせるだけの大義名分が切実にほしい。
その意味で今子供がいたらなぁと考えることも出てきた。別に仕事や研究をする理由なんてなんでもいいから、我が子を育てるために(お金を稼ぐために)働き生きるのでもいいじゃないかと。決して子供に自分を託すわけではないが、そういう生きる動機があったって良いんじゃないかとも思う。

このようなことを考えてしまう理由は、そもそも今研究していることが何の誰の役に立っているのかなかなかすぐには分からないのが人文系の研究であり、その坩堝にはまっているだけなのかもしれない。もちろん研究は今目の前で役に立つことだけが目的ではないし、長い目で見た時に人類が幸せになれるような思想を探求することで、大きくは人類に貢献している(と信じたい)。

そう考えると、自分の人生のテーマや人生を通して社会に貢献したいことはなんなんだろうと考えてしまう。研究でも研究じゃなくても、自分はどのようなことを社会に対してしたいんだろうか。それが見つからないと今のモチベーション低迷期はなかなか抜け出せなさそうだ。

夢ってないとダメかな?
(UnsplashのPAN XIAOZHENが撮影した写真)


人生におけるテーマとは。

いったん地図とか研究とか置いておいて、私は長期的に何がしたいのかを考えてみる。その時ヒントになったのは私の指導教授である石川さんの今年最初の研究会での言葉だ。石川さん曰く(私の解釈では)、うちの研究会では世界をつくるために(建築的な)「建設する」という方法だけでなく、「名づける」「育てる」「見立てる」などのさまざまな方法を使っており、それらの方法を通して世界の見方を更新することで世界をつくろうとしている。最終的には「この世界もわりと生きるに足るな」と思わせることが研究の目的であると言う趣旨のお話をしてくださった。
私もほぼ同じような考えを持っていて、この石川さんの言葉をヒントに再度自分の言葉で自分のやりたいこと、長期的に考える自分が成し遂げたいこととは何かをちょっと以下にまとめてみる。

わたしがやりたいこと・関心の中心は、たぶん「世界観を作ることでよりよい世界を作る」ということだ。一つには、自分が発見した世界を見るフィルターを作品として世の中に送り出したい。もう一つには、自分以外の多くの人の世界の見方を可視化させたい。これらを通して、「こういう風に世界を見ている人がいるんだ」という他人への共感力としての想像力を豊かにすることで、世界に優しさを生むことが私の目標だ。
一つ目の自分の世界の見え方については、「考え方」や「思考」「世界の見方」を作品として世に出したいと考えている。その作品の形式は特に決まっておらず、必要なのは自分以外の人に見えるように表現することだと思う。なので思考の表現方法として、私は「文字書き」「地図描き」「喋り」を磨いていきたい。一つのコトやモノでは成せないので、とにかくアウトプットすることが大事だと考えている。

これを達成するための所属先かつ環境として今博士課程を選択しているのだと思う。こうやって書けば書くほど、今学生のうちに作ったアウトプットが先々生きていく上での「ネタ」であり、道標となるはずなのに、現状全然アウトプットができていないじゃんと自己嫌悪になってくる、、(ネタとアウトプットについては2月卒アルで詳しく書いたので読んでみてほしいです。)
けど、要は上記目標?↑に近づくための研究であり、今の生活であり、博士課程なわけだ。

ロールモデルがほしい

これまで語ってきたようにさまざまな不安を持ったり進路に迷走する理由には、アラサーで博士課程(学生)兼半分主婦というような人はそもそも日本では多くはおらず、この状況をリアルな体験として相談できる人や、目標となるような具体的なロールモデルが少ないことも今の状況に対する見通しづらさの一因にあると思う。

少し話は違うが、これまで子供をほしいと思ったことのなかった私が最近になってとても子供がほしいと思うようになった。その理由は結婚して夫のお兄さんのご家族(お子さん二人)がとても楽しそうに見えたからだ。私は父方母方双方の初孫で、親戚の中の同世代では歳が一番上である。会社などに所属していない今、親戚やコミュニティを含めて5〜10歳年上にあたる先輩がおらず、子供がいる家庭を身近で見る機会がこれまでなかった。漠然と子どもを持つことに不安を感じてあまり欲しいと思うことがなかったが、実際に近くで子どもがいる家庭を見て、そして子どもたちと遊んでみると、それがとても幸せなことであることを知ることができた。

そう言う意味で、身近に自分より少し先を生きるロールモデルとなるような先輩の存在が大きいことに気づいた。私には全く同じ状況を生きる先輩はいないが、数少ない先輩たちがそれぞれの将来は示してくれている。その先輩たちの背中を追いながら、反対にこれから私と同じような道を行く後輩たちに背中を見せられるような人になっていきたい。

家族は楽しいってあらためて気づいた
(UnsplashのOPPO Find X5 Proが撮影した写真)

今月のさいごに

私が大好きなポッドキャストの「コテンラジオ」でこの間とりあげられていた「やなせたかし」さんの回が非常に印象的だった。やなせさんとは言わずと知れたアンパンマンの作者である。わたしはやなせさんのことを絵本作家、あるいはアニメーター(あと手のひらを太陽にの作詞家)だと思っていた。しかし、彼は生涯のなかで劇作家や漫画家、三越の広報部などさまざまな仕事をして最後にアンパンマンで有名になったようだ。アニメを始めたのは40代に入ってからだと言う。
また彼は戦争経験者でもある。やなせさんを始め戦争を経験した方でその後大きな偉業を成し遂げた方は多い。例えばワコールの創業者である塚本さんはインパール作戦に従軍したことでも知られているが、「生きているのではなく生かされている」と戦争体験を通して感じたとどこかの文献に書いてあった。現代では、なかなか彼らのように人生観を大きく一変するような経験をすることは多くはないだろう。その意味では現代はどのように志を持つか、抱くかが大きな課題なのかもしれない。

漠然としながらも自分のやりたいことを今月は整理できた。いきなり大きくはモチベーションを回復できないかもしれないけれど、地図を描く手が止まる時は文字を書き、文字を書く手が止まる時は誰かと話し、と手を替え品を替えちょっとずつ私なりの世界制作を進められるように頑張りたい。

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