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映画「AGANAI~地下鉄サリン事件と私」を観て

この映画を観て思ったこと。これは、さかはらあつし監督によるオウム真理教(現Aleph)広報部長 荒木氏への「尋問」ではないか?

「尋問」は自白させようと責めたてても何も出てこない。責めても相手が殻に閉じこもるだけだ。さかはら監督はその人間心理をぐっと掴んでいる。何故、共に互いの思い出の地に行く必要があるのか?最初は分からないその意味が荒木氏の表情や言葉を聞くうちに理解する。荒木氏の「核」に触れるための旅なのだと。

さかはら監督はじわじわと荒木氏に真相に触れる問いをしていくのだが、その方法が凄まじい。自分の痛みと現実を荒木氏の前に曝け出すのである。これが本当の意味での「尋問」なのかもしれない。問いをする側も痛みを受ける覚悟がなければ真実は出て来ない。

荒木氏は事件に関与はしていない。だから何故、あの事件が起こってしまったのかは推測すら出来ないようだ。ただ、彼は麻原が作り上げた宗教の信者。あの宗教を信じている生き証人なのである。映画を通し、荒木氏の語る入信以前の自身の出来事、家族との時間の話を聴きながら、あの信仰が何なのかが見えてきた。

それは感受性が高く誠実な人間ほど、はまっていく闇。闇というか「無」のようなもの。感じることを削ぎ落とした「無」。そこに固執し自分を追い込むが矛盾を抱えながら生きているように感じる。あの宗教がなぜ今も成り立っているのか? いや、Alephだけじゃない。歴史の中に麻原のような教祖は大勢いるのだ。私も含め、多くのヒトの心に発生する「無」が彼らに吸い込まれていく。

手に取った映画のチラシにこんな言葉もあった。「ジャーナリズムとは何かを突きつける、心揺さぶる映画」

さかはら監督と荒木氏との旅が終わったラストシーンでこの言葉を嚙み締めた。あのシーンがメディアに流されても、私たちは何も見えてこないのである。映画を見た私たちにだけに感じる、あのシーンの残酷さがある。

でも、あの事件は起きてしまったのだ。14名が亡くなり、負傷者は6000名余りに及んだ事件なのだ。さかはら監督を始め、多くの方が今も後遺症で苦しんでいるのは事実。

映画はその上にある。人間のエゴと感性が渦をまいて絡み合い、多くのヒトの日常を破壊した事件。

出来れば、その発生源が生まれない社会にしたい。同じ人間が人間に対して引き起こした事件なのだから。

その行動へのヒントがこの映画にはあるのかもしれない。そんな余韻が私の中に風を吹かせた。

■映画「AGANAI 」公式サイト https://www.aganai.net/



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