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大和名所図会 巻六(坤)

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

※ タイトルの「坤」は、「乾坤けんこん」で上下巻を意味しています。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会7』 3/41

続後拾遺
 うき世かな 吉野の花に 春の風
    しぐるゝ空に 有明の月
          慈鎮和尚

※ 「続後拾遺」は、続後拾遺和歌集。
※ 「慈鎮和尚」は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、慈円じえん慈鎮じちんおくりな

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 6/41

いたゞいた 風俗ふうもはじめの とこばしら
  はだうつくしき むすめおらん
           籠島

※ 「とこばしら」は、床柱とこばしら。床の間の脇に立つ化粧柱で、表面がすべすべに磨かれています。
※ 「はだうつくしきむすめ」は、床柱の木肌と生娘きむすめの肌を掛けていると思われます。

三本、五本と柱を担ぐ女性たち
髭剃りと幼子
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 9/41

新後拾遺
 いかなれば おのゝ秋つに ゐる雲の
   なびきもあへず うき名立らん
          道 ● 法師

※ 「新後拾遺」は、新後拾遺和歌集。

機織りの女性と談笑する男性
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 10/41

吉野よしの皇居くはうきよ
𦾔址、秋津のほとりなるべし。秋津宮とよめり。『日本紀』曰、神武じんむ天皇 東征とうせいの時、難波津につかせ給ひ、射駒いこま葛城かつらぎを越、紀伊國を経て吉野に出させ、軍を 調練てうれんし給はんとて、吉野の 行宮あんきうを定め給ふ。其後、應神をうじん天皇もこゝに 行幸みゆきありて、国栖くづひと 三寸みきを奉る事あり。

又、清見原天皇も吉野の宮にみゆきはしまして
万葉
  よき人の よしとよく見て よしといひし
    吉野よく見よ よき人よ君
         天武天皇御製

※ 「三寸みき」は、神酒みきのことと思われます。
※ 「清見原天皇」は、大海人皇子おおあまのおうじ(後の天武天皇)のこと。壬申の乱の後 天皇に即位し、飛鳥あすかの 浄御原宮きよみはらのみやを造営しました。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 12/41

みよしのゝ 国栖くづの翁の なかりせば
   はらかの御調みつき 誰かそなへん
        清見原天皇御製

※ 「国栖くづの翁」は、壬申の乱のとき 大海人皇子おおあまのおうじ(後の天武天皇)を かくまった老夫婦のこと。清見原天皇と国栖の翁のエピソードは後述の『吉野山記』を参考にしてみてください。

清見原天皇と鮎の鱠
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 13/41

国栖くづのしやう
窪垣内くぼかいち新子あたらし、大、南国栖くづ野々のゝくち小村をむら、以上七村、国栖くづのしやうといふ。

国栖くづのうたふゑを奏す。是は吉野の 国樔くづ人の事也。應神天皇十九年十月に吉野宮に行幸ありし時、国栖人 参て、一夜酒奉りて歌をうたひける。此くず人、山のこのみを取てくひ、又、蝦蟆かへるにるに、名をば 毛㳽けみとなづけて 賞味しやうみ有とて喰けるとかや。吉野の河上にゐて、みねけはしく、谷深かりける所なれば、みちさがしく侍る故に、常に来朝する事不叶となん申ける。其後、常に参て、年魚あゆやうのものを献じけるとかや。今の国栖くづそうとて、哥を諷ひ笛をふきならすは、吉野より 年始ねんしに参たるといふ心なり云々。

  (略)

『吉野山記』曰、大瀧より国栖くづへ一里あり。清見原きよみはら天皇、此所へ落させ給ふ。あるじの翁、あゆなます御調みつき 備へしに、供御の残りをあるじに下されしを川にはなち、此君御代に出給はゞ魚いきかへりなんと心にねんじ、水中にはなちければ、そのまゝいきかへりぬ。程なく御代に出させ給ふ。是を国栖のうらかたと申すとかや。かの翁を国栖の 権正ごんのかみにんぜられ、今に末々まで権正といへり。

※ 「不叶」は、かなわず。
※ 「御調みつき」は、ここでは天皇への貢物みつぎもののこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 15/41

続後拾遺
 白妙の 袖かとぞ思ふ 若なつむ
    御墻が原の 梅のはつ花
           定家

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 14/41

御垣原みかきのはら
清見原天皇おはしましける跡に、御垣原とて名所ありといへども、所はさだかにしれがたし。『河海抄』曰、御垣原みかきがはらは名所ならねども、御墻みかきによせていふなり。御かきの松ともよめり。

※ 「河海抄かかいしょう」は、南北朝時代に書かれた源氏物語の注釈書。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 18/41

『和州巡覧記』曰、
宮瀧は瀧にあらず。両方に大岩あり。其間を吉野川ながるゝ也。両岸は大なる岩なり。岩の高さ五間ばかり。屏風を立たる如し。両岸の間、川の廣さ三間ばかり、せばき所に ● あり。大河こゝに至て、せばきゆへに、河水 甚深し。其 けい絶妙ぜつめう也。

里人、岩飛いはとびとて、岸の上より水底へ飛入て、川下におよぎ出て、人に見せ、銭をとる也。飛ときは、両手を身にそへ、両足をあはせて飛入、水中に一丈ばかり入て両手をはれば、浮み出るといふ。

※ 「和州巡覧記」は、貝原益軒が書いた『大和やまとめぐり』のことと思われます。『大和廻』(人文学オープンデータ共同利用センター)
※ 「せばき」は、せまき。

里人の岩飛(いわとび)

岸の上より水底へ飛入て川下におよぎ出て
人に見せ銭をとる也
飛ときは両手を身にそへ両足をあはせて飛入
水中に一丈ばかり入て両手をはれば浮み出るといふ
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 17/41

宮瀧みやたき
宮瀧村にあり。両涯りやうがい 清麗せいれい にして、怪石くはいせき磊砢らいかとし、南の岸に 巨石こせきありてかべの如し。流下りうか重淵ちうのふちのぞんで、よく 水練すいれんなるもの石頭せきとうより水中すいちうなげながれに したがふて 下流かりういづ。これを 瀧飛たきとびといふ。行人かうじん こゝを莊観さうくはんとす。代々の帝もこゝに 行幸みゆきあり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 21/41

寶治百首
 東野あづまのの  露わけ衣 はる/\と
    きつゝ都を 恋ぬ日はなし
           教定

※ 「寶治百首」は、宝治百首(宝治御百首)。『宝治御百首』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「教定」は、鎌倉時代中期の公家、二条にじょう教定のりさだのことと思われます。

茶店の前で遊ぶ子犬がかわいい
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 22/41

東野
善城ぜんき、下市、二村のにあり。『言塵けんぢん集』曰、東野は芳野の安騎の内なり。『藻塩艸』に吾妻野、安騎野、同名。あきの小野ともよめり。

※ 「二村のにあり」は、「二村の間にあり」の欠字と思われます。
※ 「言塵けんぢん集」は、南北朝時代に書かれた歌学書『言塵集ごんじんしゅう』。『言塵集』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「藻塩艸」は、藻塩もしおぐさ。室町時代に編纂された連歌用語辞書。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 24/41

大峯 てんの河社

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 25/41

天ノ河
在原業平朝臣、天の川の石窟いはやに入定し給ふよし『河海抄』に見へたり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 23/41

天川てんのかは
名水なり。水源、山上ヵ嶽より流れて、洞川どろかわの北を経て、河合に至り、しゆ渓とがつし、数村すそんを経て、清水に至て、十津川といふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 27/41

大塔宮
殿野とのの兵衛 たくは、十二村の 荘殿しやうとの村にあり。大塔宮 二品親王、山臥やまぶしの御すがたにて 熊野より落させ給ひ、十津とつ川に 御つきおはしまして、竹原八郎入道のおひ戸野との兵衛といひしものゝ家にしばらく入せ給ふよし、『太平記』に見へたり。その末葉、今の世にもありとぞ聞へし。

※ 「大塔宮二品親王」は、護良もりよし親王のこと。大塔宮おおとうのみや は通称。「二品」は、律令制における位階のひとつ。
※ 「末葉」は、子孫のこと。
※ 「竹原八郎」は、元弘げんこうの乱のとき、十津とつかわにのがれた護良もりよし親王を自邸に迎え助けた人。
※ 「戸野との兵衛」は、竹原八郎の甥で、護良親王の令旨りょうじをうけ南朝方のために働いた人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 29/41

竹原たけはら八郎 たく
谷瀬村にあり。大塔宮 護良もりよし親王、こゝに寓居す。『太平記』に見へたり。

※ 「太平記」は、南北朝時代の軍記物語。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 30/41

山上まいりは、毎年 四月八日より九月八日まで、諸人詣する事、日毎ひごと幾千いくせんといふ際限かぎりなし。まつ吉野安禅寺より山上まで六里あり。

七八月の頃は、本山 当山の 修験道しゆげんだうの山伏 入峯じゆほうす。峯中ほうちうに三百八十餘の 岩窟いはやあり。螳螂窟とうろうのいはや聖天しやうてんいはやきくの窟、しやう窟、蝙蝠かうもりのいはやなどは大なり。

螳螂かうもりのいはやは深き事 二町余。いはやの廣四尺ばかり奥に池あり。きくのいはやはその岩こと/\く菊の紋をなせり。其外、修験道しゆげんだうの秘所なれば、たやすく見る事なし。

山上参りの一行でしょうか

金剛杖、最多角(いらたか)念珠、法螺貝を手にしています
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 31/41

山上嶽さんじやうがたけ
『大和志』曰、吉野山より南六里、洞川の東南にあり。山勢さんせい 高峻かうしゆんにして、霜雪さうせつ嚴沍けんこたり。山頂さんてう浄刹じやうせつあり。其あいだ 山路さんろ嶮阻けんそにして、おほ天上てんじやう天上の二ほうこへれば、今宿の茶あり。多古たこ村に属す。又、洞辻どろつぢ茶店ちややあり。洞川村に属す。

これよりおほ鞍掛くらかけ鞍掛くらかけの二坂を歴てへ、鐘懸かねかけいは西臨にしのぞきいはをすぎ、こゝに至て巍々ぎゝたる 梵閣ぼんかくあり。本尊、蔵王ざわう権現ごんげん ゑんの 優婆塞うばそくを安置す。又、古鐘こしやうあり。鐘楼しゆろうもなく、だうゑんにすへ置たり。其 めいに曰、遠江國佐野郡原田莊長福寺天慶六年七月二日云々。

※ 「梵閣ぼんかく」は、寺院のこと。
※ 「ゑんの 優婆塞うばそく」は、役小角えんのおづののこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会6坤』 33/41

世説曰、嵩山すうざんの北に いはやあり。晋人こゝに入る事 十日ばかりにして、室内明きこと昼の如し。時にかこむの 老翁らうおう二人あり。晋人しんひとに一さん酒菓しゅくはを進む。たちまち蜀中しよくちうに出て半年にして洛下に帰る。又、張華ちやうくはといふ人 これを聞て、所謂いはゆる仙舘せんくはん也。のみたるものは玉漿ぎよくしやう、喰ふたるものは 龍穴りうけつ石髄せきずいなり。はたして 長壽ちやうじゆなりとかや。わがちやう山上嶽さんじやうがたけ岩窟いはやもこれらにやせん。

※ 「世説」は、世間のうわさのこと。
※ 「嵩山すうざん」は、河南省北西部、洛陽の東にある名山で、中国五嶽のひとつ。
※ 「晋」は、三国司馬しばえんが建てた王朝。都は洛陽。
※ 「張華ちやうくは」は、西晋の文人、政治家。



筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖