【人相学】『武者鑑』大内貞子/大内義隆/武田勝頼/勝頼室 9 mominaina 2023年12月21日 16:13 出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二』大内貞子おおうちのさだこ貞子さだこは、萬手小路までのこうぢ秀房ひでふさの息女そくぢよにて、義隆よしたかの妻つまたり。義隆よしたか、別館べつくわん に妾せうをおきて愛あいすること一方ひとかたならず。一年ひとゝせ、義隆よしたか、都みやこに上のぼりて国くにに在あらざれば、貞子さだこ、其その妾せうをいたはること、姉妹きやうだい のごとくにして、一首いつしゆの哥うたを贈おくれり。 身みをつみて 人ひとのいたさぞしられける 恋こひしかりける 恋こひしかるらん誠まことに、一首いつしゅにて、其その心こゝろの賢けんなること、押おして知しらるゝ㕝ことぞかし。貞子さだこは中眼ちうがんにして、烏晴くろめがちなり。又また、唇くちびる 紅粉べにをぬりたる如ごとくにして、耳みゝの中なかほどに、黒子ほくろ二ツありしが、これ賢女けんぢよの相さうときけり。大内義隆おおうちよしたか義隆よしたかは、百済国はくさいこくの皇子わうじ琳聖りんせう太子たいしの末孫ばつそんにして、数代すだい連綿れんめんたる名家めいかなり。殊ことに、義隆よしたかに至つては、威勢ゐせい熾さかんになり、数州すしうを領れうして、周防すはう山口やまぐちに城しろを構かまへて、中国ちうごく 九州きうしうに冠くわんたり。義隆よしたか、或時あるとき、月代さかやきをそるに、髪かみの強つよき㕝こと 針はりの如ごとく、眉まゆの間あひだより鼻はな梁ばしらへ黒くろき脉すぢ起おこつて、耳みゝの両方りやうはう赤あかく黒くろし。是こは不審ふしんと思おもふ所ところへ、不意ふいに其その臣しんたる陶すへ尾張守おはりのかみ 晴賢はるかた 叛逆ほんぎやくして、押寄おしよせけるが、竟つひに不叶かなはずして自殺じさつをなす。惜《をし》むべし。|流石さすがの名家めいかこゝに絶たへたり。武田勝頼たけだかつより勝頼かつよりは四郎とて、晴信はるのぶ入道にふだう信玄しんげんの一子いつしなれど、父ちちに似にず、暗愚あんぐにして短気たんき猛勇もうゆうの将しやうなり。屡しば/\、小田をだ勢ぜいと戦たゝかふといへど、威勢いきほいつきて天目山てんもくざんに落篭おちこもる。小田をだ勢ぜいには、今いまは袋ふくろの鼠ねづみと河尻かはしり滝川たきかはの大軍たいぐん押寄おしよせて、攻立せめたつること急きうなりければ、勝頼かつよりはげしく防ふせぎ戦たゝかふといへど不叶かなはず。竟つひに、討死うちじにをなす。時ときに天正てんせう十年三月のことなりし。勝頼かつよりは、其その面貌めんぼう甚はなはだ清きよらかなりしが、準頭はなさきに薄うすく蜘蛛くものごとき黒點ほくろありし。これを散退さんたい破敗ははいの相さうとて、家いへを失うしなひ、身みを亡ほろぼすの相さうなりといへり。勝頼室かつよりのしつ勝頼かつよりの室しつは、小田原をだはらの北条ほうでう氏泰うぢやすの娘むすめなり。勝頼かつより、天目山てんもくざんに落篭おちこもりし時とき、運命うんめいも今日けふを限かぎりと思おもひければ、小田原おだはらへ贈おくりかへさんとあれば、内室ないしつ 泪なみだをながし、武士ぶしの妻つまとして良人おつとと共ともに討死うちじになすは、自みづからの願ねがひなり。命いのち惜をしみて何なにかせんと、静しづかに自害じがいして果はてられき。此この時とき、漸やうや十九才さいなりし。此この室しつ、生産うまれて幾いくばくならずして、父ちち氏康うぢやす相さうして、此この児ちご泣なく声こゑ短みぢかく、気き促せまる。中年ちうねんに不満みてずにして命いのち危あやうし。乍しかし併ながら、眼め至いたつて長ながし。是これを見みれば、賢女けんぢよと成なるべしといへりしことあり。子こを視みること、父ちゝにしかずの語ごにも附會ふくわいして、いと尊とうとくも覚おぼる論ろんなりかし。『武者鑑』の人物一覧はこちら → 【人相学】『武者鑑』人物まとめ 👀筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖 ダウンロード copy #古文 #古文書 #人相 #武田勝頼 #人相学 #大内義隆 #武者鑑 #北条夫人 #大内貞子 9