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【人相学】『武者鑑』大内貞子/大内義隆/武田勝頼/勝頼室

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二


大内貞子おおうちのさだこ
貞子さだこは、萬手小路までのこうぢ秀房ひでふさ息女そくぢよにて、義隆よしたかつまたり。

義隆よしたか別館べつくわんせうをおきてあいすること一方ひとかたならず。一年ひとゝせ義隆よしたかみやこのぼりてくにあらざれば、貞子さだこそのせうをいたはること、姉妹きやうだい のごとくにして、一首いつしゆうたおくれり。

  をつみて ひとのいたさぞしられける
     こひしかりける こひしかるらん

まことに、一首いつしゅにて、そのこゝろけんなること、おしらるゝことぞかし。

貞子さだこ中眼ちうがんにして、烏晴くろめがちなり。またくちびる 紅粉べにをぬりたるごとくにして、みゝなかほどに、黒子ほくろ二ツありしが、これ賢女けんぢよさうときけり。


大内義隆おおうちよしたか
義隆よしたかは、百済国はくさいこく皇子わうじ琳聖りんせう太子たいし末孫ばつそんにして、数代すだい連綿れんめんたる名家めいかなり。

ことに、義隆よしたかに至つては、威勢ゐせいさかんになり、数州すしうれうして、周防すはう山口やまぐちしろかまへて、中国ちうごく 九州きうしうくわんたり。

義隆よしたか或時あるとき月代さかやきをそるに、かみつよこと はりごとく、まゆあひだよりはなばしらくろすぢおこつて、みゝ両方りやうはうあかくろし。不審ふしんおもところへ、不意ふいそのしんたるすへ尾張守おはりのかみ 晴賢はるかた 叛逆ほんぎやくして、押寄おしよせけるが、つひ不叶かなはずして自殺じさつをなす。惜《をし》むべし。|流石さすが名家めいかこゝにたへたり。


武田勝頼たけだかつより
勝頼かつよりは四郎とて、晴信はるのぶ入道にふだう信玄しんげん一子いつしなれど、ちちず、暗愚あんぐにして短気たんき猛勇もうゆうしやうなり。

しば/\小田をだぜいたゝかふといへど、威勢いきほいつきて天目山てんもくざん落篭おちこもる。小田をだぜいには、いまふくろねづみ河尻かはしり滝川たきかは大軍たいぐん押寄おしよせて、攻立せめたつることきうなりければ、勝頼かつよりはげしくふせぎたゝかふといへど不叶かなはずつひに、討死うちじにをなす。とき天正てんせう十年三月のことなりし。

勝頼かつよりは、その面貌めんぼうはなはだきよらかなりしが、準頭はなさきうす蜘蛛くものごとき黒點ほくろありし。これを散退さんたい破敗ははいさうとて、いへうしなひ、ほろぼすのさうなりといへり。


勝頼室かつよりのしつ
勝頼かつよりしつは、小田原をだはら北条ほうでう氏泰うぢやすむすめなり。

勝頼かつより天目山てんもくざん落篭おちこもりしとき運命うんめい今日けふかぎりとおもひければ、小田原おだはらおくりかへさんとあれば、内室ないしつ なみだをながし、武士ぶしつまとして良人おつととも討死うちじになすは、みづからねがひなり。いのちをしみてなにかせんと、しづか自害じがいしてはてられき。このときやうや十九さいなりし。

このしつ生産うまれいくばくならずして、ちち氏康うぢやすさうして、このちごなくこゑみぢかく、せまる。中年ちうねん不満みてずにしていのちあやうし。しかしながらいたつてながし。これれば、賢女けんぢよなるべしといへりしことあり。

を視みること、ちゝにしかずのにも附會ふくわいして、いととうとくもおぼろんなりかし。



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