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不自由から得た自由

木工作家の馬所あゆみです。
最近、何を作るにもまず鋸を握ることが多くなりました。
丸太を縦半分にするのも、スプーンの形に切り出すのも、割と何もかも、鋸で大体の形にしてしまいます。

以前はそうではありませんでした。あれをするにはこの工具がいるし、これをするにはあの機械が必要だけど、置き場所もお金もなく、その不自由にずっとストレスを抱えていたし、他の作家さんが羨ましいと思う時期もありました。

でもある日、人を羨ましく思うのが嫌になりました。羨ましく思う以前に、思う存分、場所と道具を持つことができたとして、それを使いこなせる自分なのかどうか、甚だ疑わしくなったのです。10畳以上の作業部屋、十分な種類の機械工具。果たしてその環境を手にしたとして、工具機械をメンテナンスする技術も、10畳の部屋(+自分の家)をきれいに保つ家事力もない私が、そんなものを望んでるなんて、荒唐無稽でしかない。

つまりこういうことです。
持っていないことを言い訳に、できない自分から目を背けたかったのだと気付きました。そもそも、私が好きな中世ヨーロッパの素朴な作りの家具や暮らしの道具を作る職人が、そんなたくさんの機械工具を持っているということはなかったはずです。自分の持ちうる道具を最大限使いこなして、身近な材料でコツコツと作る、そんな暮らしだったと思います。それこそが私が求めていた暮らしじゃなかったのかと、ふと気づいたのです。

そしてもう一つの大きな気付きは、背伸びをしなくていい、ということ。
いつから木彫りを始めたのですかと聞かれることがあって、そういえばいつからだろうと、アルバムを見返したら、2020年の10月に、初めての梅の木のコップを作った記録が残っていました。つまり、独学で木彫りを始めて3年とちょっとになります。木彫り人生としては、まだ3歳なわけで、背伸びなんてもっての他で、3年で、作りたいものを少しずつだけど作れるようになってきたことを、もう少し自分自身誇りを持ってもいいんじゃないかって、思うようになりました。

そう気付いてから、何となくの焦りやダメだと思う気持ちが少しずつ消えて、今ある道具と材料を最大限使って作れるものを作ることに集中できるようになりました。それを続けるうちに、いつの間にかバンドソーを出して整備し動かすよりも、鋸で切り出した方が切れ味が綺麗なため後処理が不要となり、彫る機械を探すよりも鑿で彫ったほうが早く望む形により近づけられる。気付けば、不自由だと感じていた機械工具の少なさに、作りたいものを作り出せるという無限の自由を感じるようになったのです。まさに足りるを知るを、身をもって体感したのだと思いました。

表現においても、作家として個展を来年、再来年にする!という目標は確かに大事かもしれない、でも、例えば毎日同じスプーンを作っていたとして、たまに自分でもびっくりするほど良い出来のものができることがあって、その事に心から感動するし、とても特別な瞬間です。だから、個展はおばあちゃんになってからでも良いし、いつだって良い。多くの人に喜んでもらえるほどたくさんを生み出せなくても、身近な人がまず喜んでくれることがベースにあって、そのことに、私自身もまた大きな喜びを感じ、制作の原動力となるのです。

少し話が逸れてしまったけれど、木彫りは今も私にたくさんのことを教えてくれるし、外の世界と繋げてもくれる。そのことにとても感謝しています。木彫りに恩返しできるとすれば、続けること、同時にいつやめても後悔のないように、その時の最大限の自分で挑むことだと思います。そうあるためには、もっと自分自身を磨かないといけないし、余分なものを削ぎ落していく覚悟を持って、これからも木彫りを通じて自分自身と向き合っていきたいと思います。

子育てが少し落ち着いたときに始めた木工の木端工房、
そして木彫りの今。「暮らしの木彫り舎」として歩み出すことを、ここにそっと宣言します。

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