「書ける人」との比較は無意味
さて。
新たなスキルを身につけるべく四苦八苦する妄想を先走らせつつ、まだ学習開始日すら決めていない私ですが、必須になるスキルについては先日より自主練を開始しています。
で、自分のできなさ加減にウンザリするんです。
練習すれば誰でもできます!
…って言ってたやん。
Anyoneの外にいる私は世界でひとりぼっち。悲しい。
そんな時、私は以下のようなことを考えています。
・小さい頃からやってた人に今更追いつけるわけないし
・才能ありそうにも、向いてるとも思えない
・他の人は簡単そうにしてるのに。やっぱり自分はダメなやつ
ウジウジの蟲が、どんどん思考を占拠していきます。
そんなときふと、このセリフ最近よく聞くなと思ったのです。
noteです。
更新が途絶えてしまったアカウントに、よく出てくるセリフと似ているなと思ったんです。
きっと「文章なんて書いてるうちに上手くなる」みたいな言葉に勇気づけられて、思い切ってnoteの門を叩いたのでしょう。
おそるおそる、何時間も考え抜いた自己紹介ページを公開したんですよね。
おっかなびっくり感がヒシヒシと伝わります。私も同じでしたから。
で、記事を追ううちに、以下の言葉が並ぶ日が増えてきます。
文才ないから…
何も思いつかない…
皆さんの記事が面白すぎて…
で、私がその言葉たちを見て思うのは
「書けてるやん!!」
です。
謙遜にしても自分をサゲすぎてます。
謙譲される人を高く高くアゲすぎて、スカイツリーの頂点まで放り投げています。もはや目視できません。
だってちゃんと伝わってます。
あなたの言いたいこと、感じたこと、100%ではなくとも伝わってます。
言葉で心を伝達した率100%なんて、吉本ばななでも無理ですから。
おっかなびっくり感が私に伝わった時点でどう謙遜したって及第点。
吉本ばななを明視できる距離にいると思います。
一文字10円もらって書いてるわけでもないのに、遠慮のすぎる人が多すぎます。
さすがに私だってnoteを開き、冒頭の書き出しが
عن ماذا تتحدث
↑こんなだったら、僭越ながら
「まだ時代が、日本があなたに追いついていない。日本語教師宅で下宿しながら、皆が追いつくのを待とう」とコメントします。
伝わるかわかりませんが。
noteを書き続けている人だって、多かれ少なかれ誰かの言葉が美しすぎて、シュンとしてしまう日はあるのではないでしょうか。私は24時間に最低5回はあります。
もっと強ぇ奴を探し続けるメンタルなんて、サイヤ人しか持ってません。
でも、ちゃんと2語文以上の日本語で、嬉しい・悲しいが伝わっているのですから、自信をなくす必要などないのです。
人の弱音はこんなに否定するくせに、私も、練習中のスキルでは同じような思考に陥り落ち込んでいる。
なぜこんな、益のない思考に囚われてしまうのでしょう。
その道のプロでもないのに、最高到達点にいる人と自身の実力の差を比べても意味がない。
さらに、最高到達点にいると思われる人だって比較対象が違えば、一般人との差は微々たるものになるのではないか。
ハテハテしているうち、どんどん思考がメタになり、そもそも私は優劣の差というものを、大きく見過ぎでいるのではないかと考えました。
本日は、論理的な文章拒筆症の私が屁理屈や御託を並べに並べて「優劣比較不要論」を書き連ねていきたいと思います。
・優劣差の比較について
明確な数字があるものは比較しやすいですね。
100メートルを9秒で走る人と16秒で走る人。
早い人のほうが優れているとされます。
noteでは、フォロワーやスキが数値化されていて、数の多い人の方が魅力的なのかな、と思ってしまいます。
けれど本当に、100メートル9秒台で走る人こそが理想で、16秒台で走る人は劣っているのでしょうか。
100メートルを9秒58で走るウサインボルトと、16秒86で走る田中博男さんに、優劣の差はあるのでしょうか。
ボルトさんと田中さん、数字の上では明確にウサインボルトが速い。
ただ、田中博男さんが上記の記録を打ち立てたのは、彼が90歳のときです。
人類初の偉業だそうです。
かわって人類で100メートル走9秒台の記録を残した人は、ジム・ハインズ氏から数えて120人を超えています。
私には数字だけで両者の優劣に差をつけることができません。
・人類カテゴリで技能の優劣を競っても差は軽微
そもそもウサインボルトの全力疾走は、原付に乗った私に勝てるか微妙なスピードです。
チーターは3.27秒。原付の3分の1ほどの速さでゴールします。
人類の括りでウサインボルトと私を比較したって、チーターから見ればどちらも足の遅い獲物でしかありません。実力の差などないも同然です。
懐かしのワイナイナだって、休憩なしで13,000km飛べるオオソリハシシギには絶対勝てません。
あいつの家は豪邸だと羨ましく思っても地図の縮尺を変えていけば、どちらの家も針の先ほどの大きさになるでしょう。
そう思えば張り合って落ち込むほど、人の能力やステータスに大した差はありません。
・noteの数字の信憑性&数字で測れないものの重要性
どうやらnoteのビュー数って、記事を読まれた数ではない…のですよね?
クリックされていなくとも、スマホの画面に表示されただけで、ビュー数はカウントされると理解しています。
となると当然、フォロワーの多い人のほうが、ビュー数が増える可能性は高い。
その中で、記事が開かれて、さらにスキが押されて初めてスキ1です。
閲覧数のわりにスキが少ないように感じても、もしかしたら本文よりタイトルが残念だっただけかもしれません。
また、あの人はこんなにスキもらってるのに、自分は…みたいな比較もびみょい。
フォロワー数・その中の現役noterの割合などが違うので、単純な比較で優劣を決めることはできません。
そもそも数字って具体的に見えて、抽象的なことしかわからないんですよ。数弱の私には。
少なくとも私は、スキの数よりスキの強弱のほうが知りたいし大切です。これは、現状noteの機能では測れません。
noteを飛び出し仕事の売り上げの数字とかでライバルに負けたとしても、そもそも貨幣が抽象概念ですし、個人の優劣を測る物差しにはなり得ないと思います。
以上が、優劣をつけることに意味がなく、自分より優れている人と比較して落ち込む必要がない理由です。
noteでなくとも、どのジャンルにも共通するものがあるのではないでしょうか。
こんなにも、なんのはなしか分かってしまうことを書きながら、私はここでも例の言葉を叫びました。
それは、かのマガジンに載ることで、この記事が多くの人の目にふれることを願っているからです。
私の自信をことごとく吸い尽くす、かのマガジン。
有象無象の文豪蠢くあの忌まわしきマガジンを読み、シュンとしてしまう人を少しでも減らしたかったのです。
あと、個人的に新スキルの習得に係る精神的ダメージを軽減させたかったのもあります。そちらがメインです。
例の呪文を一回も叫んでないやんって言ってるかた、ちゃんと読みましたか?
結構冒頭でちゃんと叫んでます。
عن ماذا تتحدث
↑ホラね。
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