見出し画像

【小説】「夫婦の絆」第二話

第二話「夏」

 年老いた夫の指が私の喉を絞めつけたまま、私の意識は色々な所に飛んでいった。事故で生死を彷徨った友人から聞いたことがある。走馬灯というものは、まるで幻燈のように人生が早送りで映されるのだと言う。
 次に浮かんできた光景は長女が誕生した時のことだ。


 付き合い始めてしばらくして分かったのだが、森山は家族経営の自動車部品工場の跡取り息子だった。結婚すると当然のように夫の両親との同居が始まった。夢見ていたような、二人だけの甘い新婚生活とはほど遠かった。夫の愛情を感じたのは、専業主婦になった私の代わりに、軽自動車の残りのローンを払ってくれたことぐらいだった。

 台所に向かうと、私より早起きの義母がぎこちない笑顔で話しかけてくる。
「早起きはね、主婦の基本なのよ」
 どう答えたらいいのかわからない日替わりの言葉の棘に、曖昧に微笑んで「はい、お義母さん」と答える。味噌汁の香りが、押し付けがましく感じてしまうようになったのは、この家に来てからだ。朝から昆布と鰹節で出汁を取っているのだ。
 四人で食卓を囲むと、会話はいつも同じ流れとなる。
「ねえ、咲良さん。うちは、工場を経営しているのよ。跡継ぎは、あなたにかかっているの」
「そうじゃよ、咲良さん。君にかかっておる」
 私はうつむいて、食べることに専念しようとした。聞き流さないとおかしくなりそうだ。
「父さんも、母さんも、せっかちだなあ。僕たちはまだ結婚したばかり。そのうち立派な跡取りを生んでくれるはずだよ。咲良さんは」

 跡取りを生むためだけに結婚したのだろうか? 息が詰まりそうだった。毎晩のように、逃げ出したくなった。広くて暗い和室に一人分の布団を敷いた部屋は、寒々として、孤独を感じるのに充分だった。夫は気が向いた時にしかやって来ない。地域の会合があるからと言って、外で夕飯を食べてくると言いながら飲み歩いているのだ。夫のいない食卓は、一層、居心地の悪い場所だった。

 もう少しでノイローゼになりそうな一歩手前で、妊娠が分かった。森山の家族は口々に「男の子だといいね」と言ってきたのだが、私は男の子を生む気はなかった。跡継ぎを生むプレッシャーから逃げたいという気持ちや反発する気持ちもあったが、私は女の子を育ててみたかったのだ。女の子は、やがて姉妹のように、友達のように自分とお喋りしてくれることだろう。そのお喋りは、私の心の隙間を埋めてくれるに違いない。自分にそっくりな女の子と一緒におままごとをしたり、少し大きくなった娘と買い物に出掛けたりする姿が目に浮かんだ。

 或る日の出産前検診で一通り診察を終えると、医師は何か確信した様子だった。
「お腹の赤ちゃんは、恐らく女の子です」
 そう言われた私は、本当に嬉しかった。だが、そのことは夫にも義理の両親にも黙っておくことにした。もしも知られてしまったら、どんなことを言われるか分からない。想像しただけで気持ちが塞ぐ。

 それから数ヶ月が経った。いざ出産してみると、跡取りにはならなくとも女の子の赤ちゃんはとてもかわいいもので、生まれたばかりの我が子を抱いて夫は喜んでくれた。私は少し安心した。これでようやく嫁としての役割を少し果たせたような心持ちがしたのだ。

 だがその安心は長くは続かなかった。産婦人科を退院して自宅に戻った夜のこと
「その鳴き声、なんとかしてくれよ。明日、俺は仕事なんだぞ」
「あなた、すいません」
 私は夜泣きをする晶子を抱いてあやし続けた。すやすや寝息を立てたところでベビーベットに寝かせると
「うわぁーん」
 また泣いてしまう。
「いつまで泣かしてるんだ。うるさいな! これじゃ眠れないだろ」
 そう言うと夫は二階の自室へこもった。

 夜中に、泣き止まぬ我が子を抱きかかえながら涙が出そうだった。「子育てとは、一人で孤独にするものなのだ」と気付いた。この日から夫は、二度と一緒の部屋で眠ろうとはしなかった。
 この当時、子育てに父親が参画するといった風潮は全くなく、外で働くのは男の仕事、家を守り、子育てをするのは女の役割といった考えが主流であった。主婦と呼ばれる女性は、家で休みなく家族のために時間を費やしているというのに、毎日、楽に暮らしているかのように扱われた。この誤差を埋めてくれるものは何もなく、昭和の女性はそれぞれに孤立しながら静かに哀しみを噛みしめ、受け入れていた。
 夫が私に触れることはなくなったのだから、二人目を妊娠する可能性は限りなくゼロとなった。
「咲良さんが男の子を生んでいたらねぇ。今頃、私たちは老後を安心して過ごしていたんでしょうけど」
「これじゃあ、誰に工場を任せたらいいか分からない」
「私たちの代でようやく三代目だったというのに」
「茂樹が四代目で、子供がいたらその子が五代目じゃったよ」
 私は「女の子を一人産んだだけの役立たずな嫁」としてなじられるようになっていた。そんな環境の中でも、一人娘の晶子はすくすくと育っていった。子供の教育には心を砕いた。この子が将来、自分で考えて、自分で人生を切り拓いていく人に育つようにできる限りのことをした。幼少期には過剰なまでにスキンシップを心掛けた。おままごとや、お喋りは勿論、読み聞かせをしたり、一緒におやつ作りをしたり、公園で思いっきり遊んだり、愛情いっぱいに育つよう、思いつく限りのことをした。晶子との時間は、私の空虚さを埋めていった。

 晶子は、小学校に入学する頃になると活発で利発なところが周囲に認められ、一目置かれるようになった。その活発さからリーダー役を任されることも多くなり、まるで男の子のようにやんちゃで、時にはけんかもした。
 或る時、学校から電話がかかってきた。
「晶子さんが、けんかをしました。からかわれている友達を庇おうとして男の子と口論をしていたところ、相手のお子さんが蹴ってきたのでやり返したら、先方が怪我をされたのです。直接、相手と会ってお話して頂きたいのですが学校に来ていただいてもよろしいでしょうか?」
 夫は、晶子のことに関しては協力的だった。この時も、夫の工場に電話をするとすぐに駆けつけてくれて、親子三人で学校を訪ねた。夫は晶子が相手に怪我をさせたことに対して親として謝罪をした。だが夫はひるまず、その発端になった出来事を話題に出し、担任が間に入り相手の保護者ともきちんと話ができた。お互いに悪かったところを反省して、子供同士が和解することができた。この時の夫は、とても頼もしく見えた。
 休みの日には、晶子の勉強を見てくれた。参観会やら、学校行事には時々、仕事を休んで参加した。父親としての役割は充分に果たしているように見えた。ただ、私たち夫婦には「子供の話」以外の会話がなかったのだ。

 小学校六年間はあっという間に過ぎて行った。中学校に入学すると、中間・期末テストではいつも学年順位が上位だった。内申点も好調で、中学三年生ともなるとその界隈で一番の進学校である県立北高等学校に通うことを期待されるようになっていた。
 受験生にとっては最後の砦となる冬休みが近づいて来た。明日は二学期の親子面談だった。念のため、志望高校を確認しようと軽い気持ちで晶子に尋ねたのだ。
「晶子、第一志望は北高校で良かったのよね?」
 晶子はいつものようにリビングのテーブルで勉強をしていたのだが、シャーペンを置いたまま下を向いて黙ってしまった。目には涙が溜まり、今にも溢れ出しそうだった。北高を受験する自信がなくなってしまったのだろうか? 私は心配になった。学歴偏重の夫が、まだ仕事から帰っていないのが幸いだった。
「お母さん、お父さんにはまだ内緒にしておいて欲しいんだけど、私、北高校は行かない。だって、セーラー服が嫌なんだもの」
 私は洗濯物を畳んでいた手を止めて、晶子の横に座った。
「晶子は、セーラー服が嫌いなの? 今だって中学校のセーラー服着てるでしょ」
「それはね、ママ。行きと帰りに着ているだけだから我慢してる」
 高校生活では大抵どの学校でも、ほとんどの時間を制服で過ごし、体育のように運動する時だけ体操服に着替えるようになるのだ。私は晶子の次の言葉を待った。しばらく沈黙した後に晶子はぽつりぽつりと話始めた。

「お母さん、今まで言えなかったけど私、自分は男の子なんじゃないかって思ってる。友達も男の子が多いし、好きになるのは女の子だし、スカートなんてダイッキライ」
 晶子は私の目をまっすぐに見つめてそう言った。
「晶子ちゃん、いつからそう思っていたの?」
「小学校の高学年くらいからかな。中学校へ入学してセーラー服を着た時に違和感があって、自分は他の人と違うんだって気付いた」
 私は、今まで娘がこんなにも大きな悩みを一人で抱えていたことがショックだった。自分や夫、義父母が、男の子の誕生を切望していたことと何か関連があるのではないかと思うと自分を責めずにはいられなかった。
 そして、中学生になったばかりの頃、晶子が学校を一ヶ月ほど休んでいたことを思いだした。あの時、晶子はきっと、自分の違和感と闘っていたのだ。学校に行けない我が子を心配して、色々話を聞くのだが、晶子が話す内容からは原因が特定できなかったのだ。
「晶子ちゃん、ごめんなさいね。お母さん、今まで晶子がそんなふうに悩んでいただなんて知らなかった」
 私は何度も何度も「ごめんね」と言いながら晶子を抱きしめた。妊娠当時、自分が男の子の誕生を切望していたことが悔やまれて、涙が後から後から流れてきた。「なんでママが謝るの?」と不思議そうに言いながらも、晶子の瞳からこぼれ落ちた涙は、私の胸を濡らした。私たちは、母子一体となってそこに存在しているように感じた。もう一度、私の子宮から育て直し、哀しみを払拭した人生を歩ませたい気持ちになっているのは狂気だろうか? それとも愛情? 或いは自分勝手なのだろうか?

 どうしたらこの子を守ることができるのか考えた。考えたけれどもよく分からなかった。当時はまだ、LGBT+といった類いの言葉は生まれていなかったのだ。こういった事象は「おかま」という言葉で全て片付けられていたように思う。でも、私はそんな言葉でこの子の一生を片付けたり、傷つけたりしたくなかった。
「晶子ちゃん、北高じゃなくて、どこの高校なら行きたいの?」
「私は、私立のクリストフ学園に行きたい」
「何か理由はある?」
「色々な教科を英語だけを使って教えてくれる授業があるの。それに一番の理由は制服を選ぶことができるからなの」
「制服を選ぶって?」
「男女共にブレザーで、下はスカートでもスラックスでも自由に選ぶことができるの」
「初めて聞いた。珍しい学校だわね」
「その制度が始まるのはちょうど来春からで私の入学に間に合う」
「そうなの? 良かった」
 私は安心した心持ちになって、晶子の顔を見た。晶子もほっとしたような表情を浮かべ、マグカップのホットミルクを一口飲んだ。その高校は、私学高校であるため、他の学校が実施していないような新しい試みを様々に取り入れ、入学希望者を増やしているのだという。
「ねえ、晶子。お父さんには何て話そうかしら」
「ママだけに言うわ。ちょっと耳を貸して」
 晶子の考えはこうだった。表面上は父親の希望である県立北高校を受験し、入試の際には誤答を記入して、惜しくも合格できずに残念だったふうを装い、滑り止めである私立のクリストフ学園に入学するという算段だ。なるほど娘の考えならば、最小限の摩擦で自分の願いを叶えることができる。恐らく、北高に落ちたことをなじられるのは、この子の教育を担当していた母親である私であろうから。「この案でやっていける」と感じた。
「晶子ちゃん、いい考えだわ。ひょっとすると北高に落ちたことをお父さんからひどく言われたりする可能性はあるけど、何か言われても気にしないでいられる?」
「うん。大丈夫。きっと、クリストフ学園には、私と同じような子が集まって来ると思うの。だからそこで本当の友達を作りたい」
 私はもう一度、晶子を抱きしめた。今まで仲良くしていた友達には、恐らくこんな話はできなかったに違いないのだから。これまで抱えていたであろう孤独を少しでも埋めたくて強く抱きしめた。
 この子はなんて親思いの子なのだろう。親に心配掛けまいと、性別の問題を解決するための情報を自分で集めていた。解決できる見通しをもって私に打ち明けて来たのだ。解決策なく報告すれば、私が取り乱してしまうことをこの子は知っていたのだろう。そして、父親との間に無駄にエネルギーを使って大きな軋轢を生じることなく、自分の願いを叶えようとしている。
 この子が男性であろうと女性であろうといいではないか? 間違いなく、何者かになる大きな素養がある。これからの世の中は、性別に関わりなく、女性や男性を超えて平等に社会に貢献していく時代になるだろうと私は信じたかった。

 あれから数十年を経て、世の中は変わっただろうか? 老女になった私は、薄れゆく意識の中で自問自答していた。私の首元にある夫の指は、依然として力がこもっていた。

 晶子は改名して「ショウ」と名乗っている。改名するまでには、様々な誤解や偏見の目にさらされた。親友だと思っていた人から裏切られ、哀しみに暮れる様子を幾度も見守ってきた。晶子の二十代の頃は心配で仕方がなかった。でも今は、同性婚とまではいかないが、パートナーと暮らしているのだ。
 父親は、そんな彼女、いや彼の生き方を認めてはおらず、疎遠になっている。改名してどんな生き方をしているにせよ、私にとって、晶子は晶子で愛しい我が子なのだ。夫には内緒で、時々会っている。
 晶は、起業して新しい社会の仕組み作りに携わる仕事をしている。様々な偏見と向かい合ってきた晶だからこそできる仕事だ。自分と同じような悩みを抱えている人が、就職するためのサポートセンターを開設した。世の中を変革したり、自分の人生を動かしたりするには、ただ待つだけではなく晶のように自分で動かないといけなかったのだ。

 私は、自分の人生を自分自身で動かしたことがあったであろうか? 二十代の私は、勤めていた歯科医院を辞めて人生に立ち往生していた。その岐路を自分自身で解決することなく、ちょうどいい具合に現れた森山の結婚話に乗ってしまった。今思えば、私が勤めていた歯科医の先生と、夫は何ら変わらない同じ人種だったのだ。学歴偏重で、女性を軽視する昔ながらのタイプだった。結婚前の優しい夫は一体何者であったのだろう? まるで別人のようになってしまった。 

「夫が変貌したのは、私のせいなのだろうか?」 

 それは長年問い続けた疑問だった。自分で人生の課題を解決できずに流されていた私は、幸福な人生だったとは言えないのだろう。しかし、子供と一緒に過ごした日々は、かけがえのない季節だった。晶は唯一、自分の人生において誇れる宝物なのだ。

 森山と私の半生における子育ての期間は、夫婦の間にたとえ愛がなくとも「夏」のように晴れの日が多く楽しいもので、時に突然天気が変わって大雨や雷になっても、また「晴れの日」が来ると信じることができたのだ。








この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: