【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 第五話
無意識の選択によって、私が辿り着いたのは大学入学の日だった。ここから『生き直し』後のリアルな人生を歩むこととなったのだ。与えられた新しい人生は、自分の意思で動かしていくのだと心に誓った。これから始まる大学生活に期待を募らせていた。
『生き直し』後の高校生活について、書き直された記憶を頼りに振り返ってみた。自分の希望通り市立高校に入学した私は、合唱部に入り本当にかけがえのない高校生活を送ることができた。合唱を様々な場所で披露することを通して、多くの人々と交流していた。歌や音楽は、人の心に癒しをもたらすもので、それを歌ったり、演奏したりしている人自身にとっても癒しになる。
『生き直し』をする前の私には、そうしたものの全てが欠けていた。誰かと会って話したり、一緒に泣いたり、笑ったりする中にこそ、感情は育まれていく。それが自分のピアノ演奏に反映されていくように思えた。
だが新しい人生において、このようなかけがえのない高校生活を送りながらも、突然、孤独な感情に苦しめられることがあり、私は戸惑っていたようだ。『生き直し』後であったとしても、中学三年生までの環境は変わっていないのだから、孤独な感情が残っていても当然のことなのかもしれない。
大学の入学式が終わり、今日から授業が始まる。芸術学部の音楽科ピアノ専攻を選択した。音楽コンクールに向けてピアノソロ演奏の準備をしながら、日頃の授業やレッスンを受けることになる。授業とレッスンだけで忙しいと聞いたので、合唱サークルに入ろうかどうか迷っていた。
ピアノに関しては、入学する半年前からこの大学の田村教授に師事している。希望者は教授のレッスンを受けることが可能だった。田村教授のレッスンは、具体的な演奏方法についての指示は一つもなく、絶えず、その曲から連想するイメージや楽譜が伝えていることを演奏者に問い、その問いの答えに値するように弾くことを求められた。その結果、新しい曲を弾く前に、その曲が作られた時代や、その作者の背景を詳しく丁寧に調べ上げる習慣ができていった。家族構成や、どんな恋愛を経てその曲の作曲がなされたのか、作曲家にまつわる情報をくまなく集めた。
その日は、田村教授のレッスンがあった。そして、音楽コンクール用の曲であるショパンの夜想曲十三番を弾いた。すると、演奏は中断されて、曲想についての質問責めが始まった。この、三連符はどのようなイメージで弾くのか? ショパンは、この旋律にどのような意図をもたせていたと思うか? ショパンは、どんな時に誰のために作曲したのか? など矢継ぎ早に聞かれた。ほとんどの質問に答えることができず、私は重い足取りで帰り道に楽器練習室のある建物に寄った。「合唱サークルに入る余裕は、今のところなさそうだわ」とつぶやいた。
私は、親元を離れて下宿をしている。ピアノの練習は大学構内にある楽器練習室を毎日のように利用していた。私が練習室を使用している時間帯に、よく隣同士になる人がいた。彼は音楽科専攻でコントラバス専攻のはずだったが、いつも何故かピアノの練習もしていた。彼は、私がピアノコンクールに向けて練習中であるショパン夜想曲十三番を、いとも簡単に感情豊かに弾いているのが隣の個室から聞こえてきた。私とは違うタイプのピアノを弾く人だった。彼のユニークな解釈はとても参考になった。彼の名前は、寺田龍司という。
私たちが、最初に言葉を交わしたのは、入学してしばらく経った四月の或る日のことだった。楽器練習室が混み合い、あと一つしかない練習室を巡って、ドアの前で彼と譲り合いになった。
「君は、今度のピアノコンクールに出場するの?」
龍司は気さくに、私に話しかけてきた。
「そうよ。あなたは、たしかコントラバス専攻の寺田龍司さんね」
「萌歌さん、名前を覚えてくれていたんだね。嬉しいよ」
「どうぞ、お先に練習室使ってください」
どちらも練習室を譲ることを譲らなかった。
「じゃあ僕がコントラバスを弾くから、萌歌さんがピアノを弾いてよ」
「ひょっとして合奏するってことですか?」
「そうだよ。初見でもいいよね?」
「やってみます。できるだけ」
そう言うと二人で練習室に入って、龍司の手持ちの楽譜の中から、練習なしの初見で演奏できそうなものを選んだ。
「あれ、この曲はジャズじゃないですか?」
「そうだよ。この曲はお勧めなんだ。オスカーピーターソンのトリオで有名な『ユー・ルック・グッド・トウ・ミー』ていう曲」
「ピアノ譜、すぐ弾けそう」
「だろ。ちょっと合わせてみようよ」
私たちは、ぎこちなくピアノとコントラバスでセッションを始めた。龍司は、コントラバスをウッドベースのように、指でピッキングをして演奏していた。私はジャズの曲は初めてだったので、アクセントの付け方がよく分からず、クラッシック寄りのピアノの演奏になってしまう。そんな私のぎこちない演奏を、龍司は遠慮なく笑ってきた。
「失礼ね!」
「失礼な意味で笑ったわけじゃないよ。一生懸命だなって思ってさ」
「一生懸命って笑っちゃうことなの?」
「違うよ。一生懸命でかわいいなって思ったってこと」
私は、戸惑った。『生き直し』後の私は、これまで男の人とあまり喋ったこともなかった。それに練習室は狭く、かなり距離感も近い。何も言葉が返せなくなった。
「ねえ、萌歌さん。明日もここで一緒に練習をしようよ」
「え、明日も?」
「そうだよ。明日は、僕が萌歌さんのショパンの夜想曲のレッスンをしてあげるから」
「夜想曲を?」
「じゃあ、また明日ね」
そう言うと、龍司はさっさとコントラバスをケースにしまい足早に練習室を去って行った。勝手に明日の約束まで取り付けて。会ったその日からこんなに距離を詰めてくる人は、龍司が初めてだった。どこか懐かしい感じのする、不思議な出会いだった。
次の日の午後二時に、龍司は約束通り、昨日と同じ練習用個室に現れた。今日は、コントラバスを持っていなかった。昨日は、下はジーンズ、上は白い襟付きのシャツを着ていたが、今日は、もっとカジュアルな服装をしていた。黒いTシャツから、少し日焼けした筋肉質な腕が伸びていて、なんだかたくましい。音楽専攻というよりも、体育専攻といった方が似つかわしい。
私は、いつもよりも、少し洋服を選ぶのに時間がかかってしまった。なぜなら、『生き直し』後の人生で異性と約束をして待ち合わせ場所に行くのは、今日が初めてだったから。
「よっ、萌ちゃん。今日の練習はおしまい! 一緒に出掛けよう」
私は、突然のことに驚きを隠せなかった。
「今、来たばっかりで練習をまだしていないのに?」
「その通り! ピアノで感情を伝えるために必要なことは、練習だけじゃ身に付かないんだよ」
「え? ピアノの練習以外に、必要なものがあるの?」
「行ったら分かるよ。萌歌さんのピアノの音色はきれいなんだけど、悲しすぎて、感情の振り幅が小さくなっちゃうんだよね。」
「なんで、そんなこと知ってるの?」
「だって、僕も、半年前から田村先生のレッスンに通っていて、時々この練習室を使っていたからさ。よく聞こえてきたんだよね。萌ちゃんの悲しい旋律が」
確かに『生き直し』をして充実した生活を送っていたものの、中学三年生までに蓄積された哀しい感情がふと胸をよぎることがあった。元々は悲しみで溢れていた人生だったから、音に出てしまうのかもしれない。時折、溢れそうな悲しみがフラッシュバックしてくるのだ。
龍司に誘われて、突然、出掛けることになった。これが『生き直し』後の私の人生における初デートになるのかもしれない。デートかどうかは、龍司が私に好意を寄せているかによる。お互いの好意がなければ、それはただの移動のためのドライブである。
私は龍司の車に乗り、シートベルトを締めた。龍司の車は、紺色のセダンだった。ドライブをするのがスキなのだという。運転しながら、龍司は少年のような無邪気な笑顔で言った。
「この曲、昨日、一緒に演奏した曲だよ」
オスカーピーターソントリオの『ユー・ルック・グッド・トウ・ミー』を聞かせてくれた。
「この曲名の意味、知ってる?」
「直訳だと・・・・・・。あなたは、私にとって良い?」
「つまり、僕の言葉で言うと・・・・・・」
龍司は、そこで言葉をにごした。咳払いをしてもう一度、言葉を続けた。信号がちょうど赤になって、車が停止した。
「『君は僕にとってステキだ』っていう意味なんだ。『君は僕にお似合い』っていう意味もある」
私は、その言葉に返す言葉を持ち合わせていなかった。
「だから、つまり、その・・・・・・」
龍司の顔が、ぱあっと赤くなった。私の鼓動も、自分の意思と関係なく速くなっていった。
「だから、僕とつきあってみない? って言いたいんだ。すぐに返事をくれなくてもいいから」
信号が青に変わって、車が発進した。私の鼓動は、今までで一番、速くなった。
「はい」
としか言えなかった。でもその言葉が私にとって、とても嬉しいものだということは理解できた。
「じゃあ、今から、見せたい場所があるから行ってみよう」
「どこに行くの?」
「ないしょ! 着いてからのお楽しみだよ」
といたずらっぽく笑う龍司は、とても無邪気で楽しげだった。私にも、その気持ちが伝わってきて朗らかな気持ちになる。初めてだ。相手が笑うと自分までも笑いたくなる。相手の言葉が嬉しくって、なんだか泣きそうになる。もしかして、こういうのが恋なのだろうか? 助手席で少し考えていたら、龍司が話し掛けてきた。
「ほら、萌ちゃん、また考えごとなんかしちゃって!」
「えっ」
私は、我に返った。いつの間にか「萌ちゃん」って呼ばれてる・・・・・・。
「ほら、もう着いたよ」
車のドアを開けると潮の香りがする。風も心地良い。
「うわぁ! 海だぁ。真っ青でキレイ」
「萌ちゃんに見せたいものは、海なんだ」
私たちは車から降りて、裸足で砂浜を歩いた。裸足で歩くと、砂の触感が心地良い。自分の体重と同じくらいの強さで砂浜が押し返してくる。砂のあたたかみも伝わってきて、体中が、海に解放される。
龍司は、持って来たレジャーシートを広げて座った。
「ほら、萌ちゃんもおいでよ」
龍司はそう言うと、レジャーシートの上に仰向けに寝転んだ。私は少し戸惑いながらも、砂浜の上に寝転んで心地良さそうにしている龍司が羨ましくて、その横に仰向けに寝転んでみた。
「ねえ、龍司くん。真っ青な空しか見えないよ」
「でしょ! 抜群にきれいな青空だよね」
吸い込まれそうになるくらいの、紺碧色だった。仰向けに寝転んで真下から見上げるこの空が、とても美しいと思った。そして、波の音がとても心地良いのだ。
「この空を見せたかったんだ。波の音と一緒に」
「波の音って、こんなに落ち着くのね」
「自然の音というのは、偉大な作曲家が作った曲とはまた違う魅力があるんだよね」
「本当にそうね」
「ぼくは、萌ちゃんの弾くピアノの演奏は、もっともっと自由になったらいいと思ってる」
「自由って?」
「頭で考えすぎずに、その曲を感じたままに弾くということさ。だから、ここに連れて来たんだよ」
私は、少し体を起こして、上から龍司の顔をじっと覗き込んだ。
「ほら、海って自由しかないでしょ」
龍司は、仰向けに寝転んだまま答えた。私も、もう一度仰向けに寝転んで、空を見上げた。一点の曇りもない紺碧色の空は、私たちを優しく包み込んでいるようだった。
「ほんとね! 私、今、自分のことがようやくスキになれそう」
「それなら良かった。何か、いろいろ困っていたことがあったんだろうね」
龍司は、仰向けに寝転んだまま、私の手の甲に自分の手のひらを重ねて、私の手をそっとやさしく包んだ。私は、胸が熱くなった。
「ほら、波の音だけじゃなくて、もっともっといろんな音が聞こえるでしょ」
「風の音や鳥の声も聞こえる」
「そうだね。たくさんの自然の音が聞こえるよ。これが、一つの音楽でもあるんだ」
私は目を閉じて、風の音や鳥の声、そして龍司の手のひらのぬくもりを感じた。龍司は、私の手を包んだまま、そっと動かした。
「ほら、これが僕の心臓の音だよ」
私の手のひらに、龍司の鼓動が伝わってくる。少し速い心拍とぬくもりとが伝わってきた。そして、龍司から私への好意をも感じ取ることができた。
「龍司くんの心拍は、速さでいうと、アレグロぐらいだわ」
「そう。今、とってもドキドキしてる。アレグロと同じで一分間に八十くらいの心拍だ」
「龍司くんは、よくここに来るの?」
「時々ね。気持ちをリセットしたい時なんかに来るんだ。でも今日は別の目的だよ」
「別の目的?」
龍司は突然、レジャーシートから体を起こした。私も、つられるように体を起こした。
「そう。君の心を悲しみから、解き放ちたかったんだ」
「悲しみ?」
「萌ちゃんの弾くピアノを聞く度に、美しい音色から君の感情がぼくに伝わってきた。『悲しい。誰か助けて』って聞こえた」
「私のピアノが? それは、悲しい曲だからじゃないの?」
「曲のもつ悲しさとは違うんだ。君自身が紡ぐ音に悲しみが混じっている。それは何なのか、僕は知りたいと思っていたんだ」
私は、手のひらにまだ残っている龍司のぬくもりを感じながら、しばらく言葉を探していた。波のゆらぎを見ていると自然と心と言葉がほぐれていった。
「実は、私の家は中三くらいまで、両親が不仲で、当時父は、暴力的で恐くてたまらなかった。自分の意見を何一つ言えない状況にあったから、感情を表現できるのはピアノを弾く時だけだったの」
私は、これまでの自分の生い立ちを、全て龍司に話してみることにした。龍司は頷きながら、話を最後まで聞いてくれた。
「悲しみをピアノの音に込めて弾いていたのかもしれない」
「萌ちゃんの音が、あんなにも悲しいのは、まだその当時のことを引きずっているからかもしれないね。トラウマってやつなのかな」
「トラウマ。表面上の悲しい気持ちは消すことができても、心の奥底にある悲しみを癒すところにまでは達しない感じ。今、あの頃と比べたら、とてもハッピーなんだけどね」
「今日は僕が、萌ちゃんの悲しみを解放して、そのトラウマが消えちゃうようにがんばるよ」
私は龍司の言葉を聞きながら、既に、たくさん心を解放してくれていることに気付いた。
「ねえ、龍司くん、ありがとう」
龍司は、重ねた私の手をもっと深く包み、私の瞳を見つめた。そして、
「好きだった、ずっと」
私の耳元でささやくと、龍司の唇が私の唇と重なった。私は、龍司の顔を見ることができず瞳を閉じた。あたたかくて、柔らかくて、優しさに包まれたようなキスだった。時が止まってしまったかのような静寂の中で、アレグロの速さの二人の鼓動だけが聞こえてきた。
龍司の唇から、絡めた手から、彼のあたたかさが伝わってきた。心の奥にずっとあったわだかまりがそのあたたかさで溶けていくようだった。