見出し画像

【小説】「夫婦の絆」プロローグ・第一話

あらすじ

昭和四十年代、高校卒業後に歯科医に就職した私(岩村咲良)は、理不尽な歯科医の下で働くうちに患者である森山と知り合う。都会的で優しい男であった森山に惹かれ、程なく結婚する。だが結婚して待ち構えていたものは、理想の結婚とはほど遠かった。工場を親から継いで経営していく間に、夫はその重圧から高圧的な人格となる。嫁として、妻としての立場の狭間で、昭和の女性は孤独に子育てをしていた。思春期を迎える娘の性別への違和感、工場の経営難、夫の病など様々なことに翻弄され続けた主人公は、「夫との間に愛があったのか」夫との心中を前に自分の人生に問う。

プロローグ


 年老いた夫は穏やかな瞳に涙を浮かべながら私の喉元を押さえ「ありがとう」と繰り返す度に力を強めた。笑うと目尻が下がり、より一層柔和に見えるその笑顔は何十年も見てきたのだが、今日ほど狂気に満ちて感じたことはなかった。ユリカモメの鳴き声が聞こえる。ここは、夫がよく釣りに出掛けた汽水湖の畔にある公園。「非日常」が繰り広げられていても目撃者は誰もいないような寂れた公園駐車場だ。車のフロント前方には湖が広がっている。青藍色の湖面が太陽の光を反射して穏やかに光るのを天色の空が包む。心中するには最も適していない場所なのかもしれない。夫は、いざとなると気弱な一面がある。最期まで心中できるのだろうか? 
 夫との結婚生活を振り返ると、出会いの頃が「春」だとして、今は「冬」なのだろう。半生をかけて四季の移ろいを一緒に過ごしてきた。

 もう間もなく、私の呼吸は止まってしまうだろう。睡眠薬を飲んだ私を、夫はこの世から解放するために喉元を押さえ呼吸を止めようとしている。苦しくてたまらないような、さして苦しくもないような不思議な感覚で「夫との間に愛は本当にあったのだろうか?」と走馬燈のように人生を振り返った。最期の瞬間は、長い永い旅のようであった。

第一話「春」

 消えゆく意識の中、最初に浮かんできた光景は夫と出会った、二人がまだ二十代だった頃だ。私は、高校を卒業してすぐに町の歯科に就職した。当時、資格の必要なくできる仕事を歯科助手として任されていた。その歯科医院で二年目になる頃、森山という男と知り合った。森山は高身長で、ネイビーのブレザーにボタンダウンシャツを着こなしきちんと感が漂っている。昭和四十年代、アイピー系ファッションが流行っていた。森山は通院する度に女性職員の話題となった。東京の一流大学を出て、実家のあるこの町に戻って就職をしているらしい。

「岩村、椅子の高さ調整が甘い。私が治療しやすい高さに設定するようにと言ったはずだ」
「はい先生、申し訳ありません」
 診察に必要な器具を準備していた背後から、先生の大きな声が突き刺さった。すぐに椅子の高さをもう一度やり直して見せ、先ほどと全く同じ高さに調節した。怒鳴り声が聞こえた時点で椅子の高さはちょうど良かったのだから、それ以上調節したら、今度は本当に不具合が起こってしまう。先生は、先ほどと高さが変わったかのように満足気に治療に取り掛かった。患者に対する態度と、職員に対する態度が百八十度違い困惑した。
 先生に対する返事で忠誠心を見せ、要望通りに動き、聞き流すという能力が私には身につきつつあった。だが患者さんの中には、先生のいつもとは違う棘だらけの声に気分を悪くしてしまう人や、職員を気の毒に思い気遣ってくれる人がいた。そのうちの一人が、後に結婚することとなる森山であった。
「岩村さん、大丈夫ですか? 先生は患者にはとても優しい方なのに・・・・・・。職員には厳しい方なんですね」
 先生がいない隙に、そう声を掛けてきたのが最初だった。
「森山さん、御心配いただかなくても大丈夫ですよ。慣れていますから」
 心配そうな森山に、私は微笑み掛けた。
「岩村さん、今日で僕の歯の治療はとりあえず完了なんですよ。お世話になりました」
 森山は誰にも気疲れないようにそっと紙切れを渡してきた。私は、慌ててその紙切れを歯科制服の胸ポケットにしまい込んだ。お礼の手紙か、口の悪い先生をもつ職員への気遣いの類いだろうと思いながら、すっかりその紙切れのことを忘れていた。その日も、ひっきりなしに患者さんが訪ねて来る日で、十八時半が診療終了時刻だというのに最後の患者の診療が終わったのは十九時だった。その後、器具の消毒やら掃除やら、事務処理も終えて帰路に就いたのは二十時をまわる頃であった。
 中古の軽自動車に乗って帰宅すると、アパートの駐車場は外灯もなく真っ暗だった。夕食を作る気力はなくなっていた。当時は、まだコンビニなどはなく、スーパーの営業終了時刻も早かったため、こんな日はお茶漬けで凌いでいた。私は、素早く着替えをしてシャワーを浴びた。脱いだ制服のポケットから、何やら小さな紙切れが落ちてきた。拾い上げながら、今日、森山から手渡されたことを思い出した。
「岩村さんのおかげで、歯医者に通うのが楽しみでした。僕は、歯の治療が実は苦手なんですよ。男らしくないでしょ。こんな僕で良かったら今度、食事に行きませんか? 連絡を待っています」
 森山の電話番号らしきものも記されていた。その紙切れを両手に広げて読み返した。「もしかして、これはお誘いの手紙?」じんわりと心が温かくなるのを感じた。今、鏡を見たら、きっと頬が朱色に染まっていることだろう。森山は私に好意を抱いていたのだろうか? そういう機微に疎い私は、気付かなかった。このような誘いは初めてだったから、どうしたら良いのかも分からなかった。その晩は、その紙切れをなくならないように棚の上に大切に置いて眠ることにした。すぐに電話はできなかった。アパートには、必要最低限のものしかなかったから、電話は家になかったのだ。それに、高校卒業してすぐに就職したような私が森山につり合うのか不安だった。森山は高学歴で、お洒落で魅力的だが、言葉の端々に優しさがあった。私は、彼からもらった紙きれを財布の中にそっとしまった。

 翌日には、森山から小さなメモを渡されたことなど忘れて、慌ただしく仕事をする日々が続いた。相変わらず先生は自分自身の機嫌に振り回されて、私たち職員にひどい言葉を浴びせていた。私は先生の刃物のような言葉に慣れていくと同時に、その言葉に我慢することで、どろりとした古い墨汁のように漆黒のものが心の中に蓄積していった。
 先生は、四十代ベテラン歯科医で、妻と子供が「いた」。妻と子供は、歯医者二階の居住スペースに最初の頃は住んでいる気配がしていた。だが、今は二階から物音がするのを聞いたことはなかった。だがその事情について先生に、雑談の中でさえ聞く勇気がある者はいなかった。

 今日は、私ではなく同僚に対してヒステリックで、研いだナイフの刃のような言葉が放たれた。
「君、何度言ったら分かるんだ。ミラーや探針の並べ方が間違っている。これじゃあ、診療に差し障るよ。町田君、君は、どんな教育を受けて来たんだ? そうだ、君は高卒だったね。そんなこと分かるわけないのに期待した僕が馬鹿だったよ」
 近くで聞いていた私は、まるで自分のことをなじられているような気持ちになって、怒りが爆発しそうなのを抑えるのに必死だった。
「先生、町田さんも謝っていることですし、患者さんが怯えてしまいます」
 言葉を慎重に選びながら、同僚をかばおうとした。すると
「そうだ岩村、君も高卒だったじゃないか。だから、手際が悪いんだな」
 先生は矛先を私に変えた。そして、何週間も前の話を引っ張り出してきて、私を笑いものにした。それまで我慢してきた糸がぷっつりと切れた瞬間だった。
「先生は、学歴至上主義かもしれませんが、世の中には学歴よりも、もっと大切なものがあると思います。今日で、この歯科医院は辞めさせて頂きます」
 私は清々した気持ちになった。更衣室で着替えを済ませ、ロッカーの荷物を全てまとめた。だが次の瞬間、今後の生計の見通しが立たないことへの不安に駆られた。町田さんは、とても心配してくれて、今月分のお給料はちゃんと私に届くようにするからと言ってくれた。当時の給料は振込ではなく、現金支給だったのだ。
 私は大きな荷物を抱えたまま先生に、「今月分のお給料は受け取りたい」旨を丁寧に伝え、挨拶をして歯科医院を後にしようとした。癇癪の収まった先生は、珍しくこちらの機嫌を伺いながら「もう少し考え直してみてくれないか?」と言ってきた。だが、私はそれには返事をせずに深く一礼をして歯科医院の扉を閉めた。
 帰り道、軽自動車に乗りながら、まだこの車のローンも少し残っていたことが気がかりで、明日は朝一で職安に行って仕事を探さなくてはと思った。まだ明るい西日の差すアパートに帰る気にもなれず、私は近くの公園に車を停めた。気晴らしに散歩をしようと思い立ったのだ。散歩道は湖沿いにあり、湖面が穏やかに揺れ、優しい心地の良い風が吹いてきた。ふと足を止め欄干にもたれながら、湖を眺めた。どこまでも続く美しい湖面を見渡すと、一瞬、満たされた気持ちになる。次の瞬間、それは幻のように消える。そして仕事を辞めた不安と、他人の揉め事に口を出して先生に意見してしまった罪悪感のようなものが押し寄せて、湖面の波のように行ったり、来たりしていた。誰かに、「あなたは悪くない。先生の職員に対する横柄な態度が悪い」と自分を後押しして肯定して欲しかった。親には言えそうになかった。一方的に私が悪いと責められることは目に見えていた。もやもやした気持ちをかき消すかのように、森山の顔が浮かんできた。もしかしてこの人なら私の心を穏やかにしてくれる言葉をくれるかもしれない。
 私は、散歩道から軽自動車を停めた駐車場に戻り、公衆電話を探した。駐車場隅のトイレの屋根下にひっそりと赤い公衆電話があった。時刻はいつの間にか十八時を過ぎて、辺りは暗くなっていた。一つだけある外灯が赤い公衆電話を照らしていた。希望の明かりのようだった。恐るおそる、初めての電話番号を丁寧に回しながら、森山が家に居ることを願った。公衆電話の前に、十円玉をそっと積んだ。
 呼び鈴が十回鳴ったが森山は電話に出なかったため、きっと不在なのだろう。受話器を置こうとした瞬間、元気な声が聞こえてきた。
「もしもし、森山です。どちら様でしょうか?」
 久しぶりに聞く森山の声は、とても落ち着いた安心感のある声だった。
「あの岩村です。歯科医院でお会いした」
「岩村さん? 嬉しいなぁ。お電話、もういただけないんじゃないかと思ってがっかりしていたところです」 森山がとても嬉しそうにはしゃいでいる様子が伝わってきて、何と言葉を返したら良いか分からず黙ってしまった。
「あ、ごめんなさいね。ちょっとはしゃぎすぎました? 何かあったのかな? いつもの元気がないような・・・・・・」
「え? まだ少ししか話をしていないのに、何か伝わってます?」
「はい、いつも歯科でお会いした時には、まるで向日葵のように明るい声と笑顔でしたから」
 向日葵のよう? 自分のイメージと、周囲が自分に抱くイメージには誤差があるものだと思いながらも、少し嬉しくなった。
「実は、今日、歯医者を辞めて来たんです」
「そうなんですか? きっと何かお困りのことがあったのでしょう。どうでしょう? 明日、会いませんか?」
「明日・・・・・・」
 森山は、明日の仕事終わりに、二人の住んでいる中間地点にある喫茶店で会うことを提案してきた。誰かに話を聞いて欲しかった私は、その提案に賛成して受話器を置いた。森山との電話の後、軽自動車に乗った私の気持ちは先ほどまでと違って、晴れ間が少し見えていた。明日、森山に会えることを考えると、わくわくするような気持ちさえ感じた。仕事を失ったのに、こんなに気持ちが上がるなんて不謹慎だと思い、我に返った。

 翌日、仕事を失った私の予定は、午前中に職安に行くこと、夕方、森山に会うことくらいだった。職安では、自分の希望を伝えた。これまでの歯科補助の仕事があれば一番希望通りだったが、贅沢は言えない状況でもあった。一刻も早く、職に就いてお給料をもらわなければ立ち往生してしまうような生活だったのだから。
 時間よりも十分ほど早く喫茶店に到着した。ドアを開けると、既に森山は到着していて、私を見るや否や笑顔で手を振ってきた。予想外のことで、すぐに手を振り返すことはできなかったが、嬉しさで笑顔を浮かべている自分に気付いた。
 私は、森山が座っているテーブルの前に腰を下ろすと、職場での出来事を話し始めた。森山は、途中で私の分のナポリタンとコーヒーも注文してくれるような紳士だった。彼は、じっくりと私の話を聞いてくれて、「歯科医の先生の言動が人として間違っている」と断言してくれた上で、私の境遇を心配してくれた。
「岩村さんに、得意分野の歯科の仕事が見付かるといいですね」
「森山さん、相談に乗ってくださってありがとうございます」
「いえ、僕はただ話を聞いていただけですから。でも、もしも、岩村さんにぴったりな仕事が見付からなかった場合、僕のところに就職してみるのはどうでしょう?」
「森山さん、会社かお店をやっていらっしゃるんですか?」
「違いますよ。まだ一回目のデートでこんなことを言うと信用してもらえなくなってしまうかもしれませんが、咲良さん、僕の所に永久就職、つまり僕と結婚してくれませんか? 必ず幸せにします」
 思いも寄らない告白を超えたプロポーズに、赤面してしまった。鼓動は加速し、頭が真っ白になった。
「今、お返事いただかなくて結構ですから。その代わり、また僕と会っていただけないでしょうか?」
 私はすっかり森山のペースに呑まれ、次回会う約束をしていた。

 彼のような親切で紳士な男性と一緒になったら、きっと一生幸せにしてもらえるに違いないと考えるようになった。森山と私の半生の始まりは「春」のように希望に満ちていた。

 一回目のデートから一年後には森山と結婚生活を始めていた。私は世間知らずだったのだろうか? それとも森山に二面性があったのだろうか? 誠実さに溢れた優しい男と結婚すれば、必ず幸せになれるのだと信じていた。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: