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別れ話 第5話

安曇野に来てから彼と同居を始めた。彼からのプロポーズを受けた私は、絶対的な安心感を手に入れたつもりだった。

「結婚してくれないかな。僕と」
別れ話を切り出したあの日、確かに彼はそう言った。それなのに婚姻届けにまだ判が押せないのは、収入が不安定だからなのだという。
彼は仕事を辞め、私と一緒に東京からこの地に移住して来たのだ。
それには、感謝している。

でも三十歳になった私は、結婚というものを手に入れたかった。結婚に類似した何かなどではなく・・・・・・。

私が今、本当に欲しいものは、モノでもキャリアでもなかった。ひょっとしたらもはや、彼の愛情ですらないのかもしれない。
私は、子供のいる家庭が欲しかったのだ。幼少期にあたたかい家庭で育った記憶がなかった私は、いつか必ず手に入れたいと切望していた。
女性は年齢を重ねる度、出産のリスクが上がっていく。
私は少し焦っていた。

私がかつて母に愛されたかったように、我が子をこの胸に抱いて慈しんでみたかった。そこには、優しい夫が必要だった。
優しくて思慮深い彼は、きっと良い父親で、良い夫になるだろう。
だが、慎重すぎて新しい一歩がなかなか踏み出せないのだ。

私は、彼のことがまだ充分好きだ。だから、もう少しだけなら待つことができる。
彼は、私の気持ちには気付いていないようだった。三十歳の誕生日を迎えた今、一抹の不安を感じていた。

「ねぇ今日、職場のイベント、見学に行ってもいい?」
「どうしたの? 突然」
「君の好きな作家にちょっと興味があってね」
彼は、朝食のトーストを食べながら言った。彼は今日、仕事休みなのだ。
「ふうん」
私は気のない返事をした後で、付け足した。
「じゃあ、今日の夕食は一緒に外食ってことで」

最近、私は仕事から帰ると疲労から、夕食を作れないことがある。彼は、いつも私の望み通りにしてくれる。夕食を作れないと言えば、代わりに作ってくれるし、外食したいと言えばそれにも応じてくれる。
私が、具合が悪いと言えば、自分のことのように心配してくれて、残りの家事を全てこなしてくれる。私は、彼に甘えていた。
彼には、上手に甘えることができた。


この日のイベントで、私は児童文学の世界観を立体的に表現することを試みた。ホール全体を、まるで作品の中にいるかのように錯覚させるために雪降る街を演出したのだ。
私の好きな作家は、薄幸で短命だったが、素晴らしい作品を残していた。世の中の不条理を心底知った上で、希望を見い出そうとした人生であったことが作品の中に込められている。私は、彼女と彼女の作品を愛している。故に、その作品を広めたいと願った。

幻想的なピアノ曲をBGMとして流すと、私は、深呼吸をして最も好きな彼女の作品を朗読し始めた。この作品は、或る雪の日のうさぎと女の子の物語で、満月がストーリーの鍵となっている。

つづく

Ancient moon  望月衛介
毎月、満月の日に作曲をされている望月衛介さんの曲を御紹介します。

第1話から第4話をリンクしています。良かったらどうぞ(^^)/


猫野サラさんの素敵なイラストを使わせて頂いています。
いつもありがとうございます。(*^_^*)