別れ話 第7話【最終話】
第7話
「仕事が終わり次第、僕の勤務する農場レストランで食事をしよう」
と僕は彼女にDMを送った。彼女から「了解」の返信があった。
僕は、一旦家に帰ってスーツに着替えることにした。どんな言葉で「入籍できるようになったこと」を伝えようか考えていた。
プロポーズをしてから半年もの月日が過ぎてしまい、彼女には本当に心配をかけた。
でも、僕の収入が安定してからでないと前に進んではいけないような気がしたのだ。今は、主婦業ではなく主夫業をしているような友達だっている。男性が女性を養わなくてはいけないといったような雰囲気でもない。でも、僕の中でどうしてもこだわりがあった。
彼女の人生に責任をもつには、自分の仕事にまず誇りと責任がもてなくてはならない。半年間必死に新しい仕事と奮闘した。わさびを栽培する農場の仕事は、これまでのデスクワークとは全く違うものだった。だが今は、手応えを覚えつつある。ようやく見習い期間が終わった。仕事の面で一歩前に進むことができた僕は、ようやく入籍を決心することができたのだ。
スーツに着替えた僕は、農場レストランで彼女が来るのを待っていた。でも、いつまで経っても彼女は来なかった。僕は少しずつ不安になった。
ふいに、僕の携帯電話が鳴った。彼女の勤める児童文学館からだ。
「御主人さんですか? 仕事が終わって帰ろうとしたら、突然、気を失って倒れたの。今、救急車で病院に到着したところよ。あなたもすぐに病院に来て下さい」
彼女は、今日のイベントの準備や朗読に向けて、最近ずっと深夜まで起きていることが多かった。過労だろうか? それとも病気なのだろうか?
詳しく彼女の様子を聞きたかったのだが、電話はすぐに切れてしまった。彼女の上司からだった。緊急連絡先に、夫として電話番号が載っていたのだと思うと胸が熱くなった。
僕は慌ててタクシーを呼び、病院の救急センターに駆け付けた。病院に到着すると僕は彼女の居場所を確認し、案内された病室へ駆けつけた。
病室で彼女は点滴を受けていた。瞳は閉じたままだった。僕は彼女の上司に丁寧にお礼を告げ見送った。
病室に先生と看護師がやって来た。看護師は点滴の針を抜いた。点滴の針を抜いているうちに彼女はゆっくりと目を覚ました。窓から、中庭に施されたクリスマスイルミネーションが見える。どんなに悲しい気分の時でも、その光は美しく見えた。
先生は考えうる病名を僕と彼女に説明し、今から検査をすることを告げた。
彼女は、不安気な表情のまま車椅子に乗せられて検査に向かった。
一時間ほどすると、彼女は車椅子ではなく歩いて帰って来た。彼女は先ほどまでとは違い、検査を終えてほっとした様子に見えた。看護師さんも一緒だった。
「今から検査の結果を説明をしますから、御主人も一緒に診察室に来て下さい」
僕は、「御主人」という言葉にどぎまぎしながらも、呼ばれ慣れていない素振りは表に出さないようにした。
僕も彼女も、緊張した足取りで診察室に入った。すると、先ほどまでは険しい顔をしていた先生がとてもにこやかな笑顔で迎えてくれた。
「お二人に良い知らせがあります。奥様は先ほどお伝えした病気ではありませんでした。妊娠11週ですよ」
「ええっ!」
思わず叫んでいた。
「本当ですか?」
彼女が診察ベッドに横たわると、先生は、胎児のエコー画像を見せてくれた。そこには小さな命が横たわり、懸命に足を動かしていた。目や口も確認できた。
エコー検査を終えた彼女と、そこが診察室であることを忘れ二人で抱き合った。喜びを抑えきれなかった。もちろん、彼女の瞳からは涙が溢れていた。
「御主人、特に初めての妊娠の時はこのくらいの時期になると、疲れ易かったり、涙もろくなったり、あと臭いに敏感になるので生魚が食べられなくなる方が多いですよ。いわゆる、つわりです。周囲のサポートが不可欠です。もう一つ言うとね、男女の関係をもつことは本能的に拒絶されます」
僕は、先生の話を聞きながら、全てがつながったと感じた。
「そうか、最近感じていた彼女の二面性は、一緒に暮らしている慣れや僕に対する何かではなく、妊娠初期の症状だったのだ」
「先生、ありがとうございます。最近の不調の原因が分かって安心しました」
彼女がそう言うと、僕も一緒に深い礼をした。僕たちは診察室を後にした。
病室に戻ると、彼女はベッドの上に腰掛けた。僕は判を押した婚姻届けと彼女の誕生石のネックレスを鞄から取り出した。
「入籍が遅くなってごめん。婚姻届けを明日、一緒に提出しに行こう」
「私、ずっと、待っていたの。本当は心細くって」
小刻みに体は震えて、溢れそうな涙をこらえている様子が伝わってきた。
僕は、彼女の白くて細い首に誕生石のネックレスをそっとつけると、彼女の横に座った。その震えている肩をそっと抱きしめ、髪を撫でると気絶しそうにいい香りがした。
「僕たちの赤ちゃんを、ありがとう」
「願いが叶ったの。夢みたい」
彼女は、少し焦げ茶がかった潤んだ瞳で僕を見つめるので、病室だったが思わず口づけをした。彼女はあたたかくて、柔らかだった。僕のかたくなだった心はその柔らかさに包み込まれていった。心の中で、自分のこだわりから入籍が遅くなってしまったことを悔いた。
彼女は言った。
「人生って願うべき方向へも進むのね」
窓からは、東京に居た時と同じように月が見えた。満月だったが、雲で霞んで見えた。そう、今日の朧月のように人生は「不確か」で「はっきりしない」ものだ。彼女の妊娠のように、そこにあるのに「見えているようで、見えていない」ことがある。
「不確か」で「はっきりしない」人生だからこそ、僕は彼女と一緒に歩んで行こうと決意した。新しい命と一緒に・・・・・・。
「朧月夜」望月衛介 Eisuke Mochizuki
毎月、満月の日に作曲をされている望月衛介さんの曲を御紹介します。
猫野サラさんのイラストがもつ世界観に刺激を受け、創作を助けられています。
ありがとうございます😊