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【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 第七話


 初夏の眩しい朝陽が窓から差し込んできた。いつもより早く目が覚めた私は、隣に寝ていた龍司の異変に気付いた。息苦しそうに肩と口で呼吸をしている。汗でびっしょりの額は手で触れただけでも高熱だと分かった。体温計は、四十度を示した。
 慌てて、救急車を呼んだ。恐る恐る龍司の財布を覗くと、大学附属病院の診察券を見付けた。救急車に一緒に乗り込むと、大学附属病院へと向かうよう救急隊員に伝えた。時々、行き先を告げずに出掛けていたのは、きっとこの病院だったに違いない。薬も隠れて飲んでいたようで、財布には錠剤が数種類入っていた。

 大学附属病院の救急外来で診察を受け、そのまま集中治療室に入院することになった。医師の説明によると龍司は、悪性リンパ腫の治療をしていたのだという。集中治療室は、面会が禁止されていた。私は、突然の出来事にとても動揺した。龍司の回復をただただ願うばかりだった。これまでの、どんな願いごとよりも、強く願った。

 この日アパートに帰ると、入院を知らせるため龍司の家族の連絡先を探した。彼の持ち物に記された色褪せた電話番号を頼りに、初めて連絡を取ると、電話口の母親から小さい頃の様子を少し聞くことができた。彼は、小学生時代に、悪性リンパ腫の治療のため病院に入退院を繰り返して過ごしていたのだという。化学療法で、薬を使って治療をしたそうだ。悪性リンパ腫の細胞が画像検査で見えなくなり、症状が安定したため退院をして、普通の生活ができるようになった。

 一度は、治ったかのように見えても、また再発をすることもあるのだという。誰よりも健康そうだった龍司が、入院している。信じられなかった。
 なぜ、彼がピアノコンクールに自分自身が出場しようとしなかったのか、ようやく分かった気がした。龍司は、病気の再発を心配していたのだ。今になって気付く。少し前から、悪性リンパ腫再発の症状が現れていたのかもしれない。

 龍司の検査結果はあまり良いものではなく、入院から二日後、集中治療室から緩和ケアという部屋に移されたと、龍司の母から連絡があった。

 私は何かしないと、自分が崩れてしまいそうだった。不安を少しでも消したかった。龍司と私の願いでもあるピアノコンクールファイナル最優秀賞を目指して、練習を続けることにした。ピアノを弾いている間だけ、全てを忘れることができた。いつものように龍司がそばにいるような気がした。
 気が付くと、練習用個室で深夜になっていたこともあった。龍司のいないアパートに戻っても寂しいだけだった。練習室の窓から見える夏の夜空は、悲し気に見えた。龍司と会えない日々は、満月さえも悲しさの象徴のようだった。

 入院して二週間が経つ頃、深夜に龍司の母から電話があった。
「病院から連絡がきたの。容態が悪化しているから、御家族や身近な方は至急病院に来るように言われたのよ。今から、迎えに行くから一緒に病院に行きましょう」
 目の前の景色が、一瞬にして白と黒のモノクロの世界になったようだった。一切の音も遮断された。私は龍司の母に抱きかかえられるようにして病室を訪ねた。

 ベッドの上の龍司は、元気な時とは別人のように痩せていた。顔色も悪く、呼吸器を付けていた。かすかに、指先が動いた。私は、慌てて龍司の手をそっとにぎった。龍司の手は、とても熱かった。私は両手で龍司の手を包み、彼の体温を、彼が必死に最後まで生きようとしていることを愛おしいと感じた。龍司の目が、かすかに動いた。私は、龍司の顔を覗き込んだ。彼の目は、一瞬、かすかに見開いて私を見つめた。ずっと会いたかった龍司は、もう話すことができないほどに体力が消耗していた。それでも私は、龍司に話し掛けた。

「龍司くん、また一緒にピアノの練習をしたいね。また一緒に、パスタを作って食べようよ。それから、それからまた一緒に海に行きたい」
 初めて龍司とデートした日のことを思い出していた。そして龍司の意識に伝わるように、一生懸命話した。私の目から滴る涙は龍司のほおに落ちた。一瞬、龍司の手が私の手をにぎり返したように感じた。
「龍司くん、私、龍司くんの分も、ピアノコンクールがんばるから。力を貸して・・・・・・」

 私の言葉に反応するかのように、龍司の瞳が瞬きした。その瞬間、私の脳にピリっと電流が走った。その刺激は、龍司からのメッセージそのもので、「愛している」という思いを受け取ったようなあたたかさを感じた。
 ベッドサイドモニターの心電図波形は、弱くなって、さらに弱くなって、まばらになった。そして静まり返った病室に、ピーという機械音が鳴り響いた。

 龍司の母が、何度も何度も龍司の名前を叫びながら、ベッドに泣き崩れた。私は、龍司のほおにキスをした。龍司のほおは温かく、まだ生きているようだった。この熱は、龍司が悪性リンパ腫と闘った証そのものだ。


 彼の死を受け入れることはできず、静かに長い間、泣き続けた。



 その日から、龍司の通夜にも葬儀にも参列することもできずアパートに引き籠もった。もう何もかも、やる気がしなかった。全てが嫌になってしまい、食べることすら満足にはできなかった。


「このまま消えてしまいたい」
 龍司が亡くなってしまった今、私には生きる意味が見出せなくなった。


 一日ごとに生きる気力は失われていく。一週間ほど経っただろうか。眠っていると、私を呼ぶ声が聞こえてきた。夢なのか、現実なのか分からない・・・・・・。


「萌ちゃん・・・・・・」

「萌ちゃん。聞こえる?」
「え? この懐かしい声は・・・・・・。ティムなの?」
 忘れていた名前がとっさに口から出て、自分に驚いた。確かに、よく聞き覚えがあるのに、なぜだか判別できなかった。私の体が弱っているからなのだろうか?
「僕は、龍司だよ。でも、ティムでもあるんだ」
「えっ?」
 どこから声がするのか、部屋を見渡した。でも姿は見付からない。
「『生き直し』前の大学生の萌ちゃんと『人生最期のトンネル』を一緒に過ごしたのは、実は僕なんだ。シマりすの姿でね」
 私は驚きを隠せなかった。
「龍司は、ティムだったっていうこと?」
 突然、話し掛けられたことにも、龍司がティムだったことにも、とても動揺して理解するのに少し時間を要した。

 少しずつ記憶がよみがえってきた。ティムに初めて出会った時、なんだか懐かしい気持ちがした。いずれ出会う運命だったからなのだろうか? それとも特別な予感がしたからだろうか? ティムの方は私のことを知っていたのだ。

「萌ちゃんには、ぼくの声が聞こえているんだね? 良かった。いつかは聞こえなくなるからね。よく聞いて欲しいんだ」
「ねえ、本当に、龍司くんなの?」
「そうだよ」
 目の前にうっすらと龍司らしき人影が浮かんできた。
「萌ちゃんには、萌ちゃんの人生がある。僕が死んだからといって歩みを止めないで欲しいんだ。せっかく、二人でピアノコンクールファイナルに向けて準備してきたでしょ」
 今、私の目には、はっきりと龍司の姿が見える。
「そうよね。龍司くん」
 龍司の目を見て答えた。
「ぼくは、いつでも君の心の中にいるからさ。君がぼくを忘れてしまうまで」
 優しい言葉に、泣きそうになる。
「絶対、忘れないわよ」
 私は、ムキになって言った。そして龍司に触れようと伸ばした手は、空を切った。
「それそれ。いつもの萌ちゃんだね。ピアノの練習、いつでも聞いているから弾いてよね」
「分かったわ」
 私がそう答えた瞬間、龍司は消えてしまった。でも、私の心の中にあたたかい小さな明かりが灯ったような気がした。この瞬間から龍司が私の心の中に宿り、一緒にいるような感覚が湧いてきたのだ。私は少しずつ前を向いて歩み出さなくてはいけない。

 気付いたら、いつの間にか八月が終わろうとしていた。一か月後にはピアノコンクールファイナルの日がやって来る。今回は、前日のリハーサルでも、本番でも堂々と演奏を成功させる自信があったのだ。龍司が入院をする前日までは・・・・・・。今は、あの時のような自信はない。だとしても、龍司と過ごした日々、一緒に練習をしたかけがえのない日々を私は無駄にしたくなかった。もう一度、最初の一歩を踏み出そうと心に誓った。