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【短編 七十二候】 黄鶯睍睆(うぐいすなく)

本沢藩の日比野宿は交通の要衝として栄えていた。

行き交う旅の者を相手にした商いも盛んで、街道でも名の知れた宿場町だ。
 
「旅の方、ご苦労さまです。次の街までは5里以上あるよ。日比野で休んでいきなさいな」

旅籠の娘、初音はつねは今日も家業の手伝いに兄妹たちの世話と忙しくしている。

立春を過ぎたとはいえ、2月の上州地方はまだ寒さが厳しい。その日も晴天ながら風は冷たく、「ホー・・」とウグイスもまだ春を告げるには早いな、とでも言いたげな鳴き方をしている。

初音は大鍋にたっぷりのけんちん汁を作り、寒さに疲弊した旅人をもてなす。
「ごちそうさま。温まったよ」
「いやあ、旨かった。帰りも寄るから、また食べたいな」

けんちん汁の評判は上々だ。
初音はこうして旅人をもてなすことに喜びを感じていた。

美味しいと言ってもらいたい。また来るよと声をかけてくれると嬉しい。
何より、初音は元気になって旅を再開する人達を見るのが好きだった。

「あなたは、ここの旅籠の娘さんかい」
「ええ、そうです。お坊様、もう発たれますか」

その僧侶はみすぼらしく見えたがどことなく品性は感じられ、位は高いお坊様なのかな、と初音は思った。荷の量から、遠方から旅してきたようにも推察した。

「ああ。もう行くよ。ところで娘さん、あのけんちん汁、作り方はどこで?」
「亡くなった母から教わりました。母は相模の国の生まれで、鎌倉でこの味を覚えたと聞いています」

僧侶はうなずき、
「やはりそうかい。以前鎌倉で食したけんちん汁を思い出したよ。美味しかった。ごちそうさま」

少し歩いたところで、僧侶は立ち止まり娘に話しかける。
「味を探求したいのなら、いつか鎌倉へ行って学ぶと良い。今でも旨いが、あなたならもっと多くの旅の者を笑顔にできるはずだからね」

鎌倉。いやそもそもこの土地から出たことのない初音は、「旅」など
考えたこともなかった。
同時に、これまでたくさんの旅人に出会い、見送ってきたというのに「旅」について全く意識しなかったということにハッとした。

母の故郷である鎌倉、どんなところなんだろう。鎌倉のけんちん汁、どんな味なんだろう。

父親を助け、家業の旅籠を切り盛りすることがすべてだった初音に、「鎌倉へ行って料理の事を学びたい」という気持ちが芽生えた。

その日の夜、初音は父親に切り出す。
お父おとうお母おかあのけんちん汁って鎌倉の味なんだよね」
「そうだが、それがどうした?」
「あたし、鎌倉へ行ってみたい。鎌倉へ行って、けんちん汁や他の料理のことも学んでみたい」

毎日忙しい旅籠の仕事を父親に一人に押し付けて鎌倉へ行くなど、無茶な話であることはじゅうぶん理解している。
しかし初音は思いを抑えきれなかった。

初音の告白を黙って聞いていた父親は、きせるの火皿にタバコの葉を乗せて火を着け、話始める。

「今日、ウグイス鳴いてたな。まだ寒いからか、(ぐぜり鳴き)だったけどな。」
ぐぜり鳴きとは、ウグイスがまだ上手く鳴けない状態のことだ。

「初音。お前の名前はウグイスの初鳴きから取ったっていうのは、知ってるよな。ウグイスが(ぐぜり鳴き)から上手く鳴けるようになっていくように、大変なことにも負けない人に成長して欲しいっていう願いを込めたんだ。これはお母おかあの願いだ」

なんとなく自身の名前の由来は聞いたことはあったが、そんなお母おかあの想いがあったなんて。

「分かった。初音よ、鎌倉に行ってこい。行って存分に学んでこい。旅籠のことは何も心配するな。大丈夫だ。お前たち若い世代が頑張ることが、将来の日比野宿を発展させるんだからな」


「ホー ホケキョ」

お父おとう、ウグイスちゃんと鳴いてるね」
「おお、まさに(初音)だな。初音の門出にふさわしいじゃないか」

「おや、娘さん。ひょっとして、鎌倉へ?」

声のする方を見ると、先日のお坊様が立っていた。

「はい。お父おとうが許してくれたんです。鎌倉、行ってきます」
「そうかい。それは何より。精進いたせ」

履き慣れた草鞋の縄を結んでいると、お父おとうが予備の草鞋を3足持ってきてくれた。

「江戸までは難所がいくつかあるから。気をつけてな。江戸から鎌倉へは、さほど大変じゃないって話だ。」

「ありがとう。お父おとう。行ってきます」

「ホー ホケキョ!!」
旅籠の傍らに立つ木を見上げると、ウグイスが春の訪れを告げるとともに、初音の背中を押すように美しくも力強い声で鳴いていた。


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