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日本まつりを終えて思う、80年以上の日系人の悲願

怒濤の「日本まつり」の日から2日。
ボランティア管理担当だった私、当日はもう目の回る忙しさで(実際私じゃなくてもいい仕事で4割は奔走してた)「次何しましょう?」ってボランティアに訊かれると「あー・・・うっと、まず私の頭の中整理かな?」って言ってみんなに笑われるほど。

そして当日ようやっと帰宅したときには、自分が「しおしお」になっているのに気付いた。ほんと、塩かけた青菜的なしおしお具合。絞っても水も出ない。声すら出ない。・・・2日経ってようやく、熱もひき、エネルギーも6割方戻ったところ、それで今これを書き始めたところだ。

実は祭当日、朝からかなりの雨で、それも疲労に拍車をかけた。午後に晴れてきたけれど、仕事も思うようにまわらないしドタキャンのボランティアも沢山出た。ただ幸いなことにお客さんの人手はそこそこあって、賑やかだった。

個人的に救いだったのはトレッキングシューズで出かけていたこと。ご存知ない方もいらっしゃるかもしれないが、山歩きなんかをするトレッキングシューズはかなりしっかり防水仕様になっている。おかげでこの日、足先が凍えるとか靴の中の不快感が自分を邪魔することがなかったのは幸い。おかげで回りきらないボランティアの仕事は私が自分で走ってカバーしたりできた。

実はこのおまつりは完全に地元の有志の手作り、シロウトのつくるものだ。多くのアメリカの都市で行われる「日本まつり」は規模も大きい分大抵プロのイベント屋さんが入っている。多分交渉先が多かったり取得しなければいけないパーミット(許可証)の多さや、祭で披露されるアーティストたちとの交渉から設定、設営など、寄せ集めボランティアでやるにはなかなかのハードルの高さがあるからだろう。

それを2005年からほぼ毎年やっている。途中パンデミックなんかがあってお休みせざるを得なかったり「オンライン祭」に切り替えもしたが、そうこうしながらもほとんど20年。私は多分それらの多くに「参加団体の1つ」として関わったりしてきたが、こんなにガッツリ内部の人間として関わったのは初めてだった。

ただ、参加(サポート)団体として関わってきたから知っていることがある、このおまつりの悲願。決して日本人・日系人のおまつりで盛り上がろう、だけではないのだ。
もちろん米国内で行われる日本まつりにはある程度同様の願いがあると思う。あるとは思うのだが、何の縁かこの地に長く住み、人権擁護活動の中で知った歴史なので少しずつでもいいから伝えたい。


ユタ州というのは日系人の歴史の中ではちょっと特殊な州だ。多くの日系人が1910年代より移民し始めた頃から同時に排斥運動に会う中、鉱業・鉄道敷設や新たな農地開拓やサトウキビ栽培のための人手ということで比較的受け入れ自体はされていた土地だったのだ(鉄道敷設の人たちにはかなり劣悪環境だったことが知られているが、ここでは省く)。この州の中心がモルモン教(LDS)だったというのも1つ幸運だったことだろう。なんやかんやいってLDSの人たちは学識高いひとも多くて、差別意識の低い人たちも居たのだと思うし、移民を受け入れる方向のほうが利があると踏んだというのもあっただろう。もちろんユタ州だってかなり白人至上主義ではあったけれど西海岸のそれとは比にならなかったようだ。

真珠湾攻撃のあった1941年から西海岸エリアに住む日系人は本当につらい思いをしてきている。そして1942年2月19日に発布された大統領令9066号で日系人1万2千人以上が強制的に全米で10箇所に設置された収容所に移動させられた。事実上の日系人の財産没収、強制収容だ。カリフォルニアのサンタ・アニタ競馬場厩舎(現在はロサンゼルス近郊の落ち着いた街、Arcadiaアルカディアという市にある競馬場)に一時的にいれられた人たちのなかの一部2000人強がユタ州のトパーズ強制収容所に送られている。

ユタ州に既に住んでいた、農業などに従事していた人たちはこの強制収容からは外れたが、戦時中は地元内での激しい差別と 同時に移送されてきた多くの日系人との軋轢で苦しい思いをされて来たようだ。こういったご家族は収容されていた方々よりも口が重いのでどれだけの苦労をされたのか、まだ私はよく知らない(今インタビューしている最中だ)。私が仲良くしているご家族がまさに「収容除に入らなかった日系人」だが、弁護士一族の彼らでもそれについては滅多に口を開かない。そのくらい様々な感情の行き交う時代だったのだと思っている。

話が逸れたが、それではユタ州に住んでいた人達は何も失わなかったのか、といえば全くそんなことはなく、ソルトレイクシティのダウンタウンの一等地にあった「日本人街」の土地は、その道の両端にあった仏教寺院とキリスト教会の土地以外、あれこれがあやふやのままに市が接収することとなった。現在この日本人街跡地にはSalt Palaceというコンベンションセンターが建っている。開発もさらに入り、今では多くの新しい、世界的ホテルチェーンも沢山建っている。

日系人の有識者は戦後長い時間をかけてソルトレイク市、ソルトレイク郡にこの土地はそもそも日系人のものだと共通見解を出して貰い、歴史を残す努力を行政もすることに同意させた。日系人側では日系人議員や日系人の法曹界の人たち、お寺や基督教会のメンバーを中心にJapanese Culture Preservation Committee (日本文化保存委員会)を立ち上げ、今でもこのジャパンタウン・ストリートという名前を残してもらった100サウスの道を中心に、市や郡と協議を続けている。

とはいっても、戦後80年となり、行政のほうにすらこういう背景がジャパンタウンストリート周辺にあることを知らない人が増えている。「日本まつり」は、日系人コミュニティが今も存在していること、戦前からこのエリアに日本人街があったこと、その歴史はユタ州やソルトレイクシティの歴史と深く関わることを「楽しさ」を介して伝える手段なのだ。このおまつりを手弁当で保持するひとたちは「失われてはならない先人の足跡」を残すために動いている。

日本人街を復興させることは難しくとも、かつてそういう人々がいたのだと、この街になくてはならない人々でありコミュニティだったのだと、語り継ぐだけでなく何かの形で保存していきたい。それが大元にある「日本まつり」を行う人々の願いなのだ。

今回ボランティアで関わってくれた人たちは全くそういう歴史を知らないひとがほとんどだ。だが、いつかこの地域の歴史と照らして「ああ、あのとき参加したコミュニティはそういうところだったか」と思って欲しい。

ユタ大学から日本語を学ぶ生徒さんたちや日本文化に興味を持つグループ、日本からの留学生の皆さんなども沢山手伝ってくださった。もしかしたら「なんだよ、全然日本のおまつりと違うじゃん」と思ったかもしれない。

私がこれを書いているのは、日系人の悲願をこの20年ほど、学びながら自分に出来ることでサポートしながら見てきたから。更にいえばその中でも色々を教えて下さった当地の名士だったウノ元判事がつい先日亡くなられたことに背中を押されている。
英語で伝える人も少ないが、日本人にはあまりにほとんど知られていない日系人たちの苦労だから、近くでそれらを見てきた私の責務でもあると思っている。

おまつりという楽しい切り口で存在を見せながら、いつか彼らの悲願が何かの形となるよう、心から願ってやまない。


*友人が無償で!毎年頑張って作ってくれているウェブサイトには沢山の写真や参加して下さった招待の方達の言葉などがあります。良かったら覗いて下さい。↓↓↓





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