言語と非言語の間
テレパシー
先日、あ、テレパシー使えた、と感じたことがありました。
昼寝中、愛犬がそばでゴソゴソしはじめたので目が覚めたのですが、身体が重くていうことをきいてくれず、動けませんでした。
その間も、愛犬は立ち上がりたくてゴソゴソゴソゴソしています。
手を貸してあげたいけど、今すぐにはどうしてもムリ。
動くことはおろか、言葉を発することもできませんでした。
その時、ふいに妙なスイッチが入って、愛犬と ひゅんっ と繋がったような感覚になりました。
身体が動いてくれるようになるまでちょっと待っててね、と想いを伝えると、愛犬は私の目をじっと見て、わかったよ、と立ち上がろうとするのをやめました。
あ、今、テレパシー使えたっぽい。
テレパシー実験
愛犬と ひゅんっ と繋がる感覚を得て、単純な私は、テレパシー使えそう、と思いました。
となれば、いざ、実験。
お風呂場で湯船に浸かりながら、ひゅんっ と繋がる感覚を思い出しつつ、夫にテレパシーを送ってみることにしました。
居間でテレビを見ながらご飯を食べているはずの夫へ向けて、お風呂上がりに鉄瓶で沸かした白湯が飲みたい、とテレパシーを送ってみました。
仕事の後で疲れてるし、Netflixで幽遊白書を楽しく見ながらご飯食べてるところだし、私がお風呂から上がるまでそんなに時間もないし、これで鉄瓶で沸かした白湯が用意されてたらすごいよなあ。
そんなことを考えつつ、お風呂から上がって居間に戻り、しらじらしく「白湯が飲みたい」と言ってみました。
すると、すぐさま「ほい」とコップを差し出されました。
飲んでみると、なんともまろやかな口当たりの白湯。
夫の受信能力は確かにすごいものがあるので、夫が相手だと、さすがだ、という感じで、なんだか実験になっていないような気もするのですが。
ひとまず成功、でしょうか。
無意識を意識してみる
この、ひゅんっ と繋がる感覚、を言語化すると、どういうことになるんだろうなあ。
テレパシーって、たぶん、誰もが日常的に無意識に使っているものだと思うのです。
場の空気を読む、とか、人の気持ちを察する、とか、そのあたりの感覚を、意識的に操作するかどうか、だと思うのです。
「言語で考える論理的思考」と「非言語で感じる直感的思考」の間、に何かありそうな気がします。
感覚としては、鉄瓶で沸かした白湯が飲みたいな〜、と頭の中で言語を唱えながら伝えようとするのではなく、鉄瓶で沸かした白湯を飲んでいるイメージを思い浮かべるだけでもなくて、その中間くらいな感じ。
イメージに心をのせて、相手の心に届ける感じ、です。
言語にすると、重過ぎてダメ。
イメージだけでは、軽過ぎてダメ。
言語になる前の、心に浮かび上がったソレそのもの、を信頼して、同じ領域にある相手の心に届ける。
そんな感じのことをしていた気がします。
日常使いのテレパシー
例えば夫婦で会話している時、お互いにパッと言葉が出てこないことがあっても、この間アレしたアレってどうしたっけ、ああアレならあそこに置いておいたよ、などと通じてしまうことがあります。
何ひとつ具体的な情報を言語化できていないにも関わらず、問題なく伝わっているのです。
こういう時って、もう、お互いにテレパシーでやりとりしてるよね、と思います。
逆に、言葉にすると、なぜかうまく伝わらないことがあったり。
テレパシー、というと、とたんに特別なチカラっぽい気がしてしまうのだけれど、日常に浸透し過ぎていて普段は意識すらしないから、意識したとたんに特別に見えてしまうだけなのかもしれません。
私は、受信するのは得意な方だと思うのだけれど、送信するのは、これまであまり意識したことはなかったように思います。
人間相手だと、どうしても言葉でのコミュニケーションに頼りがちなので、そのスキルを磨く機会もなかなかありません。
近頃は、愛犬相手にちょくちょく試しているのですが、テレパシーを使うと、お互いの心により響き入るような気がします。
愛犬の感情もふわりと伝わってくるし、なんというか「豊潤」な情報をやりとりできるところが、テレパシーっていいなあ、と感じています。
日々言葉を操っていると、そればかりに囚われ、言葉になれなかったものたちを見過ごしてしまいがちです。
が、時には、言葉という制限を外して、言葉になれなかったものたちに目を向けてみるのもいいものです。
というか、本当は、そっちが本物なのかも。
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