見えているものは
ある日の記憶
ふいに、昔のことを思い出しました。
ある時、AさんとBさんの間でちょっとした問題が起こり、Cさんが仲裁に入りました。
Cさんは、普段からAさんのことを信頼していて、Bさんのことは信頼していませんでした。
両者から話を聞いたCさんは、Aさんの方が正しい、と判断しました。
その後、Cさんは、私に事の成り行きを話して聞かせ、Aさんの方が正しい、という判断は当然のことであるとして、私に同意を求めてきました。
が、私は、両者の話を直接聞いたわけではないし、現場を見たわけでもないからわかりません、と言って、同意はしませんでした。
するとCさんは、自分がこんなにわかりやすく話しているのに、同意しないなんて信じられない、といった表情を浮かべて、愕然としていました。
が、私はそんなCさんを見て、愕然としました。
私とCさんは、まったく違う世界を見ているようだ、と思いました。
闇と光の世界
Cさんは、自分こそは中立の立場で物事を判断できる、と思っていたようでした。
しかし、誰もが、自分だけのフィルターを通して世の中を見ているものです。
物事には様々な側面があるものなので、見る人が違えば、見えるものも違うはずです。
だから私は、Aさんが絶対に正しいとは限らない、と考えていました。
私は、同意しません、ではなく、わかりません、と言ったのです。
他のみんなはAさんの方が正しいという判断に同意したぞ、と迫られましたが、それは私の判断材料にはならないし、多数決で善悪が決まるのだとしたら、私は、そういう考え方こそ間違ってる、と思っていました。
誰かを「善」とすると、誰かは「悪」となります。
そうしたCさんの思考言動行動により、Cさんの周りには、いつしかイエスマンしかいなくなりました。
しかし、彼らが口に出せなかった本当の想いは、じわじわと組織を蝕んでいき、やがて組織は完全に活力を失い、自然消滅しました。
Cさんは今でも、世の中の様々な問題を「これも陰と陽だな」と嘆いてはため息をつく、という日々を過ごしています。
光の世界
「この世のすべてのものは陰と陽で成り立っている」とされる陰陽論と出会った時、私は、この世のすべてのものはこれで解明できるのではないかと思い、興奮したことを覚えています。
しかし、考え続けていくうちに、陰陽論には限界がある、と感じるようになりました。
世界は陰陽論では救われない、そう思うようになりました。
Cさんの口から「これも陰と陽だな」と聞いたのは、つい先日のことなのですが、これが私の心に妙に引っかかりました。
陰と陽と聞いて、私がまずイメージしたのは、闇と光でした。
闇と光、宇宙と太陽、と連想した時、ふと、宇宙って何色なんだろう?と思いました。
これを読んだ時、私は、雷に打たれた気がしました。
黒いのではなく、黒く「見える」だけなのか。
闇なのではなく、闇に「見える」だけなのか。
そうか、人間の目と脳が、光の情報を変換して、そう見せているだけなのか。
本当は、全部、光なのか。
そう思った瞬間に、私の頭の中では、宇宙も太陽も、地球も人間も、陰陽の概念も、全てが光に変換されました。
何もないけどすべてある世界、とはこのことか。
人間こそが、世界をカタチ作るフィルターなのだ。
目に映るものも、心に映るものも、自分というフィルターがなければ存在しない、というか、存在できないのです。
これが腑に落ちた時、世界には自分しか存在しない、ということの意味が、また少しわかったような気がしました。
まとめ
だからなんだ、と問われたら、ただそれだけ、と答えることしかできないのですが、大事なことのような気がしたので、書いてみました。
自分にはそう見えているからといって、自分以外の人にもそう見えているとは限りません。
自分にそう見せているものは何なのか、また、それは信頼できるものなのか。
自分というフィルターがなければ、世界は存在できないのだから、世界をカタチ作っているのは、自分だということです。
カオスな世界を穏やかにできるのは、自分だけ。
言い換えると、自分さえその気になれば、カオスな世界を穏やかにできるということです。
さて、どんな現実を見ましょうか。
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