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生きづらい君との”3W1H”

息子の発達検査に向けた準備が始まっている。

このような検査は身体的な疾病のように“すぐ検査!”とはならない。
作業療法を通じて息子の特性をある程度掴んだところで検査に入るという流れだ。
今の段階では。息子の持つこだわりや感覚の過敏さはASD(自閉スペクトラム症)の可能性が高いとのこと。

しかし、検査が始まるまでも息子の生きづらさは変わらない。
成長するにつれてそれは加速している気さえする。

給食を食べられない。掃除に参加できない。
多分、1年生の時も同じような状態だったけれどそれを親側である私に伝えるか否かの違いなのかもと思う。

ただ、冒頭でも話したように“発達や心理=頭の中”の検査は今日明日行ったからできるものではない。
あくまで可能性を考えて対処をしていく。

息子は食事に置いて自分の許容範囲以上の冷め方をすると「イヤダ」と言うことがある。特に白米。
元から冷めているものは大丈夫。
そして、私の祖母(息子にとっての“ひいばあば”)が作るものは何でもOKだったりする。

これを「ワガママだ」「甘やかしている」と言われることが多い。

しかし、息子は特性として感覚が他の人より過敏な可能性がある。
そして、嫌だったことや辛いことを払拭することが出来ない。

冷めた白米の感触が不快だった記憶が忘れられず、それが別の銘柄米になったとしても“冷めている=不快”という記憶が先行する。
そして、拒否。
祖母のご飯にはいい思い出しかない。実際何の魔法か祖母のご飯は冷めても美味しいのだ。
だから“ひいばあばのご飯=幸せな思い出”として処理されている。

同じようなことが生活の至る所にあって、息子の生活は苦しさに溢れていた。
この状況を単に“ワガママ”で片付けることなく、作戦を立てて良い思い出に導くことが重要だと思っている。

まずは導く側が過剰に反応しないで受け入れていこうと思った。

息子が拒否をした時「どうして?」ではなく「そうなんだ」と思うこと。
受け入れてよく観察すること。

それは、親である私の心を守ることで、その先には息子の心も守ることにもなる。

息子がうまくできないことや衝動的な行動に「なんでそんなことするの!」と叱責してしまったことがあって、その度に息子は深く傷ついていたように思えたし、吃音が多く出ていた。
息子の気持ちが切り替わるのを待ったり、時には「こりゃもう仕方ない」と諦めて意識を向けることをやめてみる。
息子の傷つく姿や、逆に自由を与えることでのびのびと出来ることを増やしていく姿に、何も言わないという支援の仕方もあっていいのだと思うようになった。
親の価値観が必ず正しいとは限らないのだから。

生きづらく、苦悩の多い息子と生きる上で意識しているのが
“3W1H(いつ・どこで・誰が・どのように)”

息子にとって心地良いものはいつ(時間帯)、どこで(場所)、誰で(家族なのか他人なのか)、どのようにすればいいか(どうゆう声掛けや声のトーンも含め)を考え実行し振り返る。

ちなみに、私は息子がASDの疑いと言われたからといって今の学校生活を変えて欲しいとは思っていない。
生きづらさがあるからと息子が自分の心地良いことだけをやるのはちょっと違うかなと思う。
みんなと一緒の生活の中で対策を考え、工夫することができたなら、息子の世界はまだまだ広がると思っているから。
これからも考え続け、相談し続けていく。
それでもどうしても息子の苦しみが解決できなかったとしたら、その時は潔く諦める。

“守る”という技を使うのは息子の心が壊れそうな時。

全ての刺激(ストレス)から遠ざけることを私はしたくない。
ストレスをどうやって軽くするか。解消するために出来ることは何か。

忘れてはいけないのは、障害がある人も無い人も同じ人間であって同じ社会で生きているということ。

生きづらい子の母として、私はこれからも考え、ここで発信していこうと思う。

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