『狭間の沼地にて』 第11章

<第11章:黒い沼>

 耳鳴りしそうな叫びさえそれと認識できぬまま、バドルの目は青年の白い姿がみるみる赤く染まりつつ斜めにかしぎ、背中から沼へと倒れ込むのを見た。弱々しくあがく手足に黒く粘る泥水がまとわりつき、朱に染まりつつある白を丸ごと呑み込み始めた。必死で呼びかけようとしたバドルは、だが声を出すことができなかった。激しい喉の痛みにやっと気づいた。つい今しがたまで自分が叫んでいたのを。

 駆け出そうとした足がもつれ、少年は砂地に倒れ込んだ。板の橋を渡ろうとして小川の泥水に落ちた。ほとんど四つん這いのままやっと辿りついたとき、もうミランの姿はなかった。岸辺から身を乗り出し狂ったように泥水をかき回す少年を、何人もの手が引き起こした。ミランを射た二人が脅えきった声でわめいた。

「よ、よせバドル! 腕を掴まれるぞ」
「這い上がってきたらどうするんだよっ!」

「……おまえらっ!」

 熱に浮かされた目に憎悪をたぎらせ、ふらつく少年は二人に殴りかかった。その手が一人の喉元を掴んだ。弱った指に力は入らなかったが、脅えた若者は締め殺されるような悲鳴を上げ、もう一人がバドルの小柄な体を引きはがすと狂ったように砂地に叩きふせた。

「やめろ、どっちもやめんかっ!」
 なおも拳を振り上げようとする若者をラダンが背後から抑え込んだ。口の端から流れる血をものともせず、バドルは相手をねめつけた。立ち上がろうともがきながら、少年は呻いた。
「……人殺し!」

「な、なにが人殺しだ! 俺達は襲われたんだぞ!」
「あんな血に飢えた目の奴が人間なわけがあるか!」
「あいつの目はもとから赤いじゃないかっ」
「いいかげんにしろバドル! あいつはな……」

 異様な声音に思わず身をこわばらせたバドルの目が、青ざめたラダンの顔を捉えた。

「あいつは闇姫に会ったんだ。もう人間じゃなかったんだ!」
「……ミランが闇姫に?」

 それが意味するものを受け入れられずに、バドルはあえいだ。そして見い出した疑問にすがりついた。

「闇姫がここへ来たはずはない。俺は無事じゃないか。だったらミランだって!」

 しかしすがりつく思いの少年は、ラダンが言い淀むのを見た。その一瞬、さっき見たばかりの大量の薬が恐ろしい可能性を示唆した。そして忌まわしい予感が形をなす寸前に、ラダンの言葉がそれを先取りした。

「毒矢にやられたおまえを助けるといって、日が落ちるのに奴は無理に荒野へ出ていった。そこで闇姫に魅入られたに違いない。さっき丘の上に二人がいっしょにいたのを娘が見たんだ」

 バドルの体が硬直した。絞め殺されるような声が呻いた。

「俺を、助けるために? じゃ、ミランは俺のせいで……?」

 張りつめた意識を最後の一撃にぶつりと断たれ、バドルはその場に昏倒した。


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