『狭間の沼地にて』 第1章

<第1章:村の境>

 千古の昔からエルリア大陸の西を覆う広大な最果ての森。

 光も漏らさぬその森はゆるやかに、しかし着実にその範囲を広げ、多くの村や街、いくつもの国々さえも呑み込んでいた。

 人間の歴史は一面において森との戦いに他ならない。そして斧や火という武器を手にして以来、戦いの趨勢は人間に有利なものとなっていた。人間同士の戦などで見捨てられた場所が緑の荒廃に帰することがあったにせよ、森がそれ自体の力で人間を退けることはなかった。

 この最果ての森においてのみ人間が一方的な敗北を喫している理由は、ひとえに恐怖ゆえのことだった。この森に吸血鬼が棲んでいるというただそれだけのことが、この森を永遠に人間の手の及ばぬ魔境となさしめていたのだった。森が近づくと人間たちは街や村を捨てて逃げ出し、無人の廃墟と化したそれらを緑の闇は苦もなく呑み込んだ。

 だからもう長い間、この森に棲む吸血鬼の姿を見た人間はいなかった。金色の髪を持つ乙女の姿をしているとの言い伝えが正しかったと最後に伝えられたのはもう200年以上も前、後にアルデガンを建立する僧アールダによってだった。そして、その破格の力で数多の吸血鬼を浄化した彼が唯一討ちもらした相手こそ、森の闇に染められたような緑の瞳を持ち、うねる黄金の髪に簡素な冠をいただいた乙女の姿を持つ者に他ならなかった。

 その時アールダはいったという。かの者は森の魔力に守られている。森の守りを破らぬ限り、なん人も闇姫を滅ぼすことあたわずと。

 だから、本来なら森の迫るルザの村を村人たちは捨てるしかなかったのだが、西部地域の長い戦乱がそれを不可能にしていた。村を一歩出れば野盗やはぐれ部隊の略奪の餌食になるのは目に見えており、それゆえ川と沼に周囲を守られた村にしがみつくほかなかった。

 そんなルザの村に、いまも餓狼の群のごとき敗残部隊が襲いかかろうとしていた。

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「命が惜しくば、このルザの村から早々に立ち去れ!」

 それを聞いた部隊長の無慈悲な顔に、侮蔑の笑みが浮かんだ。柵の向こうで虚勢を張っているのは村長とおぼしき老人。周りにいるのも不細工な弓を手にした男たち。それも若者の姿はほとんどなく、年をくった者ばかりが妙に目立った。しかも中には女や子供らしき姿さえちらほら混じっている始末だった。組し易しと見てとった部隊長は号令をかけようと息を吸い込んだ。

 次の瞬間その口が吐き出したのは、しかし号令ではなかった。血反吐を吐きのけぞった部隊長の目が、黒髪の少年の顔を、黒い炎のごとき目を捉えた。仰向けに倒れながら少年の手にした弓を見た目が、焼けつくような己が腹を向いた。信じ難いほど太い矢が鎧の継ぎ目から突き出ているのを見た驚愕にとどめを刺され、部隊長は骸と化して崩れ落ちた。

 さらに二人が喉を、顔面を射抜かれ即死した。恐るべき狙いの正確さと容赦のなさに敗残兵たちは浮き足だち、追い打ちをかける矢の雨に恐慌をきたして逃げ出した。他の村人たちの狙いは甘くほとんどが無傷で逃げていったが、一人の兵が足を射抜かれて取り残された。

 ゆっくりと歩み寄る小柄な人影に、脅えた兵士は武器を捨て、両手を上げて訴えた。

「た、助けてくれ。命だけはっ」

 その時、兵士は見た。少年の顔が歪むのを。黒い目に激情が燃え上がるのを。

「敵に情けを乞うのか。無様に生きていたいか。臆病者っ!」

 絶望を顔に張り付けたまま、兵士は胸を射抜かれ絶命した。少年の背後の人々から、脅えさえ混じったため息が漏れた。

「さ、さすがはバドル。勇者の弟だけのことは……」

 その声を背中で聞いた少年が、ぎり、と歯を噛み締めた。

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