『狭間の沼地にて』 第10章

<第10章:暁の小川>

 丘の上で目にすることのできるすべてのものの名前を教えあった果てに、ミランは姫を誘い丘を下りた。そして村外れの沼から森に向けて流れる小川のほとりに歩みを進めた。小川に出たときには夜半をとうに過ぎていた。空を見上げた乙女が彼に向き直った。別れのときがきたことを悟ったミランの前で、白い手がなにかのしぐさをとるべく動きかけた。

 だが、ミランはそれを制した。乙女に対する怖れがなくなったいま、白き青年にとっては森もすでに恐怖の対象ではなかった。ならば森のそばまで彼女を送っていけば、いましばらく彼女とのひとときを過ごせる道理だった。怪訝そうな表情の彼女の目をミランはまっすぐ見つめ、上がりかけたままで所在なく宙に浮いたその手をそっと取った。そして先ほど教えたばかりの言葉の一つを短く告げた。

「森へ」

 彼の意図は彼女に伝わったようだった。ひんやりした手が熱を帯びたようにミランが感じたとたん、乙女のもう一方の手が彼の手を柔らかく包んだ。そして小さな、けれども嬉しそうな声が、いまいちど彼の名を呼んだ。

「ミラン……」

 そして彼らは月下にせせらぐ流れに沿って、村はずれの沼地に背を向けてそぞろ歩き始めた。

 だからミランは気づかなかった。背後の沼地の彼方、村があるはずの場所にわだかまる影の中、いくつもの小さな灯りがちらつき始めたことに。


 二人は小川のほとりをゆっくり歩きながら、あらたに目にするものを指し示してはその名を呼び交わしあった。その歩みにつれて、星々がしだいに姿を消してゆき、大きな月もまた輝きを失いつつ迫る森の彼方に没した。からになった天空が白み始めた。

 闇の森の梢の輪郭が振り仰いだミランの目にも捉えられるようになったとき、乙女が数歩前に出た。そして立ちどまったミランの前で森を背にして向き直った。右手が優雅な弧を描いて上げられた。

 まぶしそうに細められた緑の目が、しかし強い思いをいっぱいに込めて彼を見た。そして、様々なものをずっと指し続けてきた右手が彼女自身を指し示した。

「……名前を呼べというのですか?」

 言葉がまだ通じないことも忘れ、ミランは思わずきき返した。それが彼女に通じた様子こそなかったが、明るさを増す空への怖れを隠せずにいるにもかかわらず、自分をひたむきに見つめる緑の瞳がなによりも雄弁に彼女の願いを訴えていた。

 闇が薄れゆく世界に踏み留まりつつまなざしで訴えかける姫の姿に、ミランは感じた。彼女が望んでいるのはこれまでの名ではないのだと。なにか強い思いゆえ、これまでの自分と決別しようとしている、そのための名を求めているのだと。

 それだけの思いに応えるだけの名を、いきなり決めることなどできるはずがなかった。だが朝日のさきぶれに満たされつつある世界に留まるその姿が、ミランに彼女の本質を暗示した。そして彼の思いも定まった。その身の魔性にもかかわらず、無垢であり続けるその魂にふさわしい名こそ彼女のものであるべきだと。

 ミランは彼女に大きくうなづき、背後の丘を指し示した。

「明日の夜、あの丘で」

 そのとたん、乙女の姿は緑の闇に溶け込んだ。だが白き青年の赤い瞳には、まるで朝日を受けたように晴れやかな笑顔の残像が焼きついていた。


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 ミランは川のほとりに点在する様々な植物を集めながら村へと向かった。毒に痛め付けられたバドルを回復させる薬草、滋養に富む実や根、そして特に精神を落ち着かせる働きをもつキノコをたくさん集めた。沼のはずれにたどり着いたときには、それらは腕で抱えるほどの分量になっていた。やがてはバドルも目覚めるはずだった。だが彼が目覚めれば、姫とともに行くことを納得してくれるとは思えなかった。手紙に書いて置いてゆくしかないだろう。自分は喜んで彼女と行くと。村の皆ももう彼女に脅える必要はないのだと。

 薬の種類と服用についての説明を添えておけば、数日のうちに彼は歩けるようになる。あとは村へ戻り皆と暮らすようにすればいい。彼は村になくてはならない存在なのだから。彼女に対する怖れから解放され敵が野盗だけとなれば、村人たちもより冷静に対処できるはず。危機を脱することも難しくはないだろう。遠からず、バドルは村の実質的なリーダーになるに違いない。村を守っているという手ごたえと自信が、あまりにも激し過ぎる自責の念に由来する悪夢をそのうち破ってくれるかもしれない。そうあってほしい! もはや村でただ一人の友のため、ミランはキノコや薬草を集めつつ心の中でひたすら祈っていた。

 そのとき新たな薬草を摘んだミランは、そのかげでほころびかけている蕾を見つけた。闇の中で閉ざされていた清楚な花が、陽光の中で本来の姿を取り戻そうとしているのだった。奇しくもそれは乙女がたったひとつの記憶を、自分は日の光の中で花を摘んだことがあったのだとの記憶を取り戻すきっかけになった花だったが、むろんそれはミランの知りえぬことだった。だが、彼は思った。この花のたたずまいこそ彼女にふさわしい。この名を彼女に捧げては、と。

 試みにその名を呼ぼうとしたミランの顔に曙光がさした。彼方の岩山の稜線から、ついに朝日が顔を出したのだ。思わず顔を上げたミランの目を陽光がまともに射た。だがその視界の端で、何かが動いた。

 腕いっぱいに抱えた薬草やキノコを地面に置くと、彼はかがめていた背を伸ばし、朝日を手で遮りながら彼方を見た。とたんにその顔がこわばった。

 ミランの家の戸口が開け放たれ、何人もの男たちが出入りしていた。逆光のためはっきり見えなかったが、あわただしい動きはただ事ではなかった。顔から血の気が引いたのを感じた。バドルの容体が悪化した? だから自分を探しているのか? まさか診立てを誤った? まだ少年にすぎないそんなバドルを自分は放置していたのか! 自分のうかつさへの怒りのあまり、ミランは叫んだ。

「バドルーっ!」

 男たちが振り向いたとたん、ミランは全力で走りだした。


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 バドルは目を覚ましたとき、遠くからの叫びを耳にしたような気がした。だが、それよりはるかに彼の注意を引いたのは濃厚な植物の匂いだった。力の入らない上体をなんとか起こしたバドルは目を見張った。部屋中に様々な薬、材料になる薬草やキノコ等が所狭しと置かれていた。

 少年の脳裏にそれまでの記憶がよみがえってきた。彼は自分がミランのおかげで命をとりとめたことを悟った。あたりを見回したがミランの姿はなかった。だが、開いた扉の外に誰かの気配がした。彼が外にいると思ったバドルは力が入りきらない声で呼びかけた。

「ミラン……」

 だがその声を聞きつけて戸口から覗き込んだのは、ミランではなかった。しかもぱっと見ただけでは誰だかわからないくらい形相が変わっていた。不安と怖れにぬり潰された村の青年の顔に、バドルは息をのんだ。少年の胸にもたちまち不安が膨れ上がってきた。

「ラダン! バドルが起きた!」

 青年の声に駆け込んできたラダンの顔も同じだった。そして、ラダンとバドルは同時に相手に問いつめた。

「ミランはどこだっ!」

 互いの顔をまじまじと見つめたあと、先に問いかけたのはラダンだった。

「……知らないのか? バドル」

「……わからない。ずっと気を失っていたんだ。ミランはどこにいった? なぜあんたたちがここにいる?」

「聞けバドル。あ、あいつは……」

 ラダンの言葉を凄まじい絶叫が絶ち切った。戸口を跳び出したラダンがわめいた。

「ば、馬鹿野郎っ! 撃て! 撃たんか!」

 力が入らない手足でもがいたバドルはベッドから転げ落ちた。それでもなんとか壁につかまり立ち、戸口によろけ出た。そして前を向いた少年の目が、まともにそれを見た。


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 逆光の中でくのぼうのようにつっ立っている二人の間を駆け抜けようとしたミランの耳を、凄まじい絶叫がつんざいた。言葉の体をなさぬそれは、恐慌に陥った獣の咆哮そのものだった。驚いたミランの足がたたらを踏んだ。赤い瞳が男たちの顔を捉えた。

 見開かれた彼らの目は恐怖の固まりだった。もはや人間を見る目ではなかった。驚愕に立ち尽くした白き青年の胸を、右腿を、至近距離からの矢が撃ち抜いた。硬い枝を切っただけの矢じりもない粗末な矢に過ぎぬものが、瞬時に全てを破壊した。

 聞こえた叫びがバドルのものだと認識する間もなく、ミランは仰向けに沼に落ちた。痙攣する白い四肢にねばつく泥水がまといつき、激痛に砕けた意識が無明の闇に呑まれ始めた。形を保てなくなった意識がそれでも紡ごうとした一つの名を、口に流れ込む水が永遠に封じた。輝きをいや増す空の下、光を失った赤い瞳を黒い水が閉ざしていった。


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