『隻眼の邪法師』 第12章の16

<第12章:修羅の洞窟 その16>

 またも突き上げてきた揺れに兄は、ヨシュアは立ち上がった。時間がない。弟を、ポールを助けなければ!

 しなければならないことは二つあった。ポールをなんとか逃がすことと、あの装置のレバーを戻すこと。火の山が揺れ始めたら暴走はもう止まらないとイルジーはいっていたが、放置するより威力は弱まるともいっていた。弟が逃げきるためにはどうしても必要なことのはずだった。

 だが暴走を止めることができない以上、洞窟を走って逃げてもせり上がってくる溶岩に呑まれてしまう。魔法陣でこの薬置き場まで転移して出入り口から逃れ出るしか方法がない。その結論に達するのに時間はかからなかった。

 だが、どうすれば弟に逃げるよう伝えることができるだろう。新たなより大きな揺れは、時間がないことを告げている。しかも自分は弟の目の前で仲間を殺してしまったのだ! 戦ったときの様子ひとつ見ても、自分の言葉を信じてくれるとは思えない。

 ならば脅しつけるしかない。そのほうが早い。弟が抱いた極悪人としての姿を裏切らず、その中で伝えるしかない。この火山が崩れようとしていることを、そしてこの薬置き場まで転移して、出口からできるだけ遠くへ脱出するよう仕向けるしか……。

 そこまで考えたとき彼は気づいた。転移の呪文を、魔法陣の使い方をどう伝える? 極悪人と思われている以上、自分の言葉をポールが信じるわけがない! たちまち動揺の隙を突き、捨てたはずの思いが未練がましく頭をもたげた。やはりわかってもらうしかない。たとえ時間がかかっても、結局それしか方法がない。そもそも願っているじゃないか。自分が兄だと認めてほしいと、たった一人の肉親に本当の名を呼ばれたいと!

「……バカな、ポールは赤子だったんだぞ。名前どころか俺の顔も覚えてなど……」

 抗おうとしたその声は、だが弱々しい掠れ声にすぎなかった。それに乗じて内なる声が、あまりにも長く押さえつけられていた願いが力を増した。ではこのままでいいというのか。もう家族で生き残ったのはポールしかいないのに、自分のことを打ち明けぬまま死ねるのか? 本当のことを知られずに、誰にも知られないままで? できるわけがないだろう!

 発作にむせ返りくずおれた床に、二つに割れた仮面があった。惑いの声が再び聞こえてきた。左目を抉られたその醜い傷跡も、仮面の片割れで隠せば目立つまい。これほどの思いを込めるなら血を分けた弟に通じぬわけがないじゃないか。もうよせ、自分を欺くのは。かくも長く己が本心から目を背け続けたあげく、実の弟にも、誰にもわかってもらえぬまま終われるのか? 誰にも、誰にも知られぬまま!

 いまや脈打ち始めた火の山の揺れに、理性もまた警鐘を乱打し続けていた。だが内なる声はそれさえ圧倒し彼の魂を鷲掴みしていた。ほとんど自覚できぬまま、震える手が左の破片に伸びた。だが指が触れようとしたその瞬間、魔少女の心がまたも届いた。男の隻眼が驚愕に見開かれた。

 それは激しい苦悶によじれ、ずたずたに寸断されていた。火炙りさながらの凄まじさだった。思わず顔を上げたその隻眼を扉から差す曙光が射抜いた。唖然とした。すぐには声も出なかった。よもや吸血鬼の身で朝日の中に留まるとは。昇る太陽に炙られながら、なおも訴えかけるのをやめぬとは! もはやなにを訴えているのかすら判じられぬその苦しみように、ついに男は天を仰ぎ絶叫した!

「バカかおまえは! なぜそうまでしてこの俺に!」

 叫びが途切れた。それが、己が言葉が思い出させたから。この心を知る者の存在を。ひた隠しにしていた真の名も、気づけずにいた思いも願いもなにもかも見抜いてしまった魔少女のことを。いいようのない思いが、名づけ難い感情が胸の奥からせり上がってきた。彼は杖にすがって立ち上がり、頬を伝うものの暖かさを感じつつ呼びかけた。

「帰れ。もういい。帰ってくれ……」

 自分のものとは思えないほど険のない柔らかい声。そのせいか発した一言が不思議なほど胸に落ちた。とまどいながらも兄は、ヨシュアはその感触をしばし確かめた。そして呟いた。己が心に向け、噛みしめるように。

「もう……いい……」

 惑いの声はもはや聞こえてこなかった。ついにヨシュアは杖を高々と振りかざすや、手にしようとした仮面の左の破片を叩き割り、右の破片を顔に着けた。そして見上げた。仮面の奥から岩に阻まれた空の彼方を。言葉になしえぬ別れの思いを込めて。

 そして化物じみた醜い顔をあえて晒すことを選んだ兄は、読むことができなかったイルジーの書類をかき集め抱え込むと、弟を救うべく今や絶え間なく揺れ始めた魔法陣へと踏み込んだ。


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「これはただごとではない。火の山に異変が起きたのでは」

「まさかきゃつの仕業だと?」

 訊き返すグロスに頷くと、ボルドフは続けた。

「もはや通路を戻るのは危険だ。いつ洞窟が崩れるかわからぬ。この魔法陣をなんとか使えれば。調べられないか?」

 グロスやアラードは揺れる魔法陣の周囲に記された呪句を唱えてみたが、転移の術は発動のそぶりさえ見せなかった。

「やはりこれは呪文ではない。呪文を受け魔力を発動するための術式であろう」

 グロスの言葉にアルバが呻いた。

「呪文を知るのはあやつだけか。上へ跳んだということならば、我らを置き去りに逃れたのじゃろう。万事休すか……」

「諦めてはなりません! なにか、なにか手がかりが……」

 叫ぶや己が動揺を抑えつけ、魔法陣を食い入るように見つめるアラード。その目がふと術式の中の数字にとまり、赤毛の若者は思わず声を上げた。

「師父! これはこの魔法陣を示す番号では? 周囲に記された四つの数字の一つが、中央に記された数字と同じです!」

 いわれて改めて魔法陣を注視する一同。

「……十八、三八、六八、九八か。なるほど。六八が一致するというわけか」

「この洞窟の真上の魔法陣を、奴はさらに上へと通り抜けていきました。つまりこの六八番の魔法陣から三八番を通過してさらに上の十八番まで転移したのでは?」

「一理あるな。あとは転移の呪文さえわかれば」

 頷くボルドフに、焦りを隠せぬグロスが応える。

「だが悪党を逃した以上、もはや手だてが。ああ、私があやつを逃がしたりせねば……っ」

 その言葉も終わらぬうちに突如として膨大な赤光を吹き上げる魔法陣! 跳び退く一同の前に出現するや炎の鞭を振り回す黒き魔人が驚愕と憤りも顕わな四人を醜く抉られた目でねめつけ絶叫する!

「おのれ盗人めが! 我が研究は死んでも渡さぬ!」


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