『狭間の沼地にて』 第8章

<第8章:屋根の下で>

 窓から射し込む曙光に顔を照らされても、バドルは昏睡から目覚めなかった。そんな少年の枕もとに寄り添いながら、ミランもまたこの二夜のことに思いを巡らせていた。なにからなにまで驚くことばかりだった。自分で体験したことでありながら、こうして日の光の中で思い返すと夢を見ていたのではという気がしてくるほどだった。

 けれど別れ際に見せた姫の表情のあの変化、一瞬の歓喜の輝きに悲しみの翳りと涙、そして最後に微笑とともに自分の名を呼んだときのあの声音。数瞬の間にうつろったそれらの表情に、彼は感じたのだった。あれが闇姫の真実だと。千年もの昔から闇の森の主として怖れられてきた乙女の姿だったのだと。
 そしてそれは彼の心に消えることのない刻印を刻み、その深さゆえに彼に告げるのだった。夢ではないと。自分が見たのは人外と化した身に宿る人としての魂に他ならなかったのだと。

 ミランは自分がなにも考えたことがなかったような気がした。闇姫とかかわる定めとされながらそのかかわりについて考えたこともなければ、自分が闇姫の牙にかかる定めだと思い込んでいながら吸血鬼とはどんな存在なのか、そして人が吸血鬼に転化するとはどんなことを意味するのかについても、ろくに考えたことがなかったと思うばかりだった。

 けれどいまや彼は確信していた。彼女は生まれたときからああではなかったのだと。遠い昔、おそらくは若き日に転化をとげてしまい、その上なぜか人の心も残してしまっているのだと。

 しかし、とミランは思った。姫に人としての心があり、害意がなかったとしても、それでこの先どうなるのか。既に彼女はこの家に辿りつくに至った。やがては村の中にも入れるようになる。そのときバドルは、ラダンや村人たちは姫の存在を受け入れることができるのか?

 どう考えても無理だった。度重なる野盗との戦いに疲弊した上に村長ルダンを失った村人たちは、たちまち恐慌をきたすとしか思えなかった。そしてバドルは……。

 ミランは改めて昏睡しているバドルに目を向けた。そして思いをはせた。今から一年前、からくも生還したバドルの話を初めて聞いたときのことを。あのときもやはり、死んだように眠るバドルの顔を自分は見つめ続けていたのだった。


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 バドルがあばらやへ戻ってきたのはかなり時間がたってからのことだった。恐慌に陥り泣き叫ぶ少年から話が聞きだせるようになるまでに時間がかかっただけでなく、村長ルダンが村を守るために必要な情報をすっかり聞き出すまでバドルを開放しなかったからでもあった。だからようやくラダンに伴われて戻ってきたとたん、心身ともに限界に達していた少年は倒れるように眠ってしまい、ラダンもまたろくに説明もしないまま逃げるように帰っていったのだった。ただ一言、バドル以外の仲間たちは全滅したとだけ言い残して。

 ガドルと仲間たちが死んだ! その知らせにミランは打ちのめされた。狭かったはずのあばらやを満たす虚空の異様な大きさに呆然としたまま、死んだように眠り続ける少年の顔を見つめるばかりだった。どれほどの間そうしていたのかわからなくなり始めたとき、まだ夜明けも遠いというのに水鳥の群が沼地の彼方から飛来して、脅えたような声で鳴き交わしながらあばらやの上空を越えていった。

 そのとき、バドルがひどくうなされ始めた。あまりに苦し気な声にミランが驚いて駆け寄ったとたん、悲鳴とともにバドルが跳ね起きた。そして逃げようとしたのか、寝床から転げ落ちた。あわてて助け起こそうと手を伸ばすと、少年は追い詰められた獣のように絶叫した。

「バドル! しっかりしてください、バドルっ!」

 差し伸べようとした手を宙に浮かせた格好で、ミランは必死に呼びかけた。その声がようやく届いたのか、バドルは叫ぶのをやめた。呆然とした顔がおずおずとミランに向けられた。その顔が歪み、少年はよじるような声で泣き出した。そして、あまりにも無残だったできごとを切れ切れに話し始めた。

 それが、夜毎にバドルを苛む悪夢の始まりだった。

 それから一年の間、ミランは悪夢に苦しむバドルに付き添ってきた。そして、その間に起こった変化をつぶさに見てきた。

 恐怖の生々しさそのものはいくらか薄れてきたらしかった。夢の中のできごとはいつも同じで寸分も違わないとバドルはいっていたが、どうやらそのせいでもあるらしかった。

 だが、それにつれて恐怖が覆い隠していたものがしだいに顕になり始めてきた。

 もともと弓矢を得意としたバドルは、やがて憑かれたように弓矢の稽古を始めた。なにがなんでも強くならなければならないと思い詰めているのは傍目にも明らかだった。兄を見捨てて逃げた自分の弱さを許せぬ心情ゆえのものであるとミランが気づくのに時間はかからなかった。

 そして恐怖が克服されるにつれ、まだ少年でしかないバドルの顔にはしだいにどす黒い憎悪が浮き出るようになった。ミランはそんな彼の様子を見かねてある日こういった。自分をそんなふうに追い詰めてはいけない。それだけの目にあいながら生きのびたことを前向きに捉えるべきではないか。魔獣を呼び止めた少女の真意はわからないにせよ、そのせいで奇跡的に命拾いしたことに間違いないのだからと。

 とたん、激昂したバドルはミランを殴り倒した。床にくずおれた白き青年に、拳を震わせた少年は呻いた。あいつがガドルを、みんなを殺した。そんな奴に憐れまれたというのか。そんな奴が憐れみの心を持っているとでも。認めない。そんなことは断じて認めない。あいつはガドルの、みんなの仇だ。断じて許さない。自分はどこまでもあいつを憎むと。

 その呻きが、かえってミランに悟らせた。バドルは少女の姿をした吸血鬼が自分を憐れみ見逃したと感じていると。だが、少年のあまりにも激しい自責の念が、自分を逃げのびさせるに至った全てのものへの呪いめいた憎念と化したのだと。我が身に向けば自死にさえ直結しかねぬ自責は行き場を求めて荒れ狂った末に、仇敵に対する限りない憎悪に形を変えるしかなかったのだと。


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 バドルは姫を決して受け入れない。受け入れることなどできるはずがない。そのことは火を見るより明らかだった。村人たちの恐慌さえ招きかねぬ恐怖。その恐怖さえねじ伏せたバドルの凄まじい憎悪。もし姫が村に、いや、バドルが目覚めたときにこの場に姿を現わしたりしたら……。

 ミランの目に逃げ惑う村人たちを背に、ひたすら矢を射かけるバドルの姿が浮かんだ。だが、その結果どんなことが起こるか、想像だにできなかった。

 白い青年の赤い瞳が天を仰いだ。

 姫を村から遠ざけるしかない。それが自分の役目だ。予言された自分と姫との係わりとは、きっとそういうことだったのだ。

 広大な魔の森の周囲には、どこかに自分の住める場所もあるだろう。もしも自分がそこで暮らせば、姫はもうこの村を訪れないかもしれない。やがて村が森に呑まれるにせよ、それはまだ年数がかかる。きっと村人たちが脱出する機会も持てるはず。背後の恐怖から解放されたとわかれば活路を見いだすこともできるかもしれない。

 そもそも村に居場所がない自分が姫とともに去ったとしても、惜しむ者などいないはず……。

 いや、バドル。バドルのことはどうする?

 ミランの胸が痛んだ。村人はバドルが毎夜どんな悪夢と戦っているのか知らない。そんな少年を放っておくのか?

 だが、バドルはこの村を守るために欠かせない存在だ。そして自分のそばにいる限り、彼は人々に溶け込めない。今回のようなことがこれからも起こるかもしれない。

 それにどのみち、バドルは姫を許容できはしない……。

 もういちど姫と会って様子を確かめなければならない。バドルはしばらく意識を取り戻しそうな容態ではないが、それでもこの家で会うのは危険だ。荒野まで出る必要はあるだろう。

 ミランは日中の間にバドルの回復に役立つ様々な薬草を集め、意識を取り戻したときに備えていくつもの薬を作った。その間、姫にどう接するべきかを考えながら。だが言葉の通じない相手にどう接したらいいか、思いあぐねるばかりだった。とにかく荒野で会うことにして、言葉の問題はその場で考えるしかなさそうだった。

 日暮れが訪れ、白き青年は緊張の面持ちであばらやから荒野に向かった。


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