ブルックナーの交響曲について(MUSE2022年10月号)

 今回は前回の投稿に関してお二人からブルックナーについての投稿がありましたので、僕もブルックナーについての考えをもう少し整理させて頂きます。
 前回ブルックナーも含めた何人かの作曲家の交響曲などについて内容というよりも様式に注目して作曲年代ごとの変化を追っていくと、作曲技法の変化や発展を追っていけるのではと考えていることをお知らせしたのでしたが、ご存じのようにブルックナーの場合、ナイーブすぎる性格が災いして他人に批判されると際限なく改訂せずにいられないばかりか、ひどい場合は弟子が勝手に改変した楽譜まで流布したという経緯のおかげて少なからぬ違いのある版がいくつも出回っているという混沌とした状況が長い間続きました。今では戦後にノヴァークがそれらの版のどれがベストかを決めるのではなく、それら全てを生まれた経緯も含め整理するという編纂方針が支持されて今に至っているわけですが、戦前に編纂されたハース版がそれぞれの曲の最善の姿を探るという方針ゆえに8番でブルックナーが弟子たちの意見を容れてカットしたと思われる部分をなんとか復元したいと思うあまり、当時はまとまった形で発見されていなかった第1稿の断片を恐竜の化石の復元よろしく第2稿にどんどん継ぎ当ててしまい、結果的に作曲者本人の預かり知らぬハース版による8番を生み出したことを思えば、長く続いた混乱にも一応の終止符は打たれたといえそうです。そんなわけで細部の違いに着目すると際限ない迷宮に深入りすることになりそうなので、ここでは未完に終わった9番以外の全ての交響曲が4楽章制を採っていることに着目し、それらがどういうものとして構成されているかに注目してみます。
 そういう観点から全作品を眺めると、ブルックナーにおいてはワーグナー作品からの引用ゆえか第1楽章の肥大が目立つ3番を除けば番号なしの初期作品から6番に至るまでの全ての曲が両端楽章の規模が大きく、これら全てで第2楽章に配された緩徐楽章は両端楽章と同等かやや短く、第3楽章に置かれたスケルツォが最も短いという1つの型で括られていることが真っ先に目にとまるわけで、末尾を飾る6番がここまでの結論とも完成形ともみなせるとの感を深くします。前後の5番と7番と同じく6番もまた自発的な改訂の対象にならずにすんだ曲であり、特にこの6番は独自性の強い5番や7番とは異なりここまでの諸曲の特徴を最も多く受け継いでいるので僕としては初期から中期にかけての彼の総決算として位置づけたくなるのです。
 その点5番はここまでの歩みの中では3番と並ぶ異色作とみなしていいのではないでしょうか。この2曲は6番までの交響曲の中でいずれも独自性に富んでいますが、3番の冒頭楽章の肥大と最終楽章の規模の小ささはより形式的な独自性であり、これは後の7番に受け継がれたとみなすこともできなくはありませんが、5番のまるでバッハのオルガン曲へのオマージュでもあるかのような突出した対位法の多用は6番までの曲にとどまらず7番以降も含めたどの曲にも受け継がれているとはいいにくく、そのため転換点と呼ぶことに躊躇を覚えてしまうのです。6番までのどの作品にも多かれ少なかれ感じさせるナイーブさをこのバロック的な剛直さが覆っているせいで、この曲はブルックナー作品中最も力強さが前面に出ている曲でもあって、当たりの柔らかな7番のまさに対極に位置するばかりか、深い葛藤に軋む8番や9番とも1つに括ることをためらってしまうのです。その意味で僕はこの5番という曲を、ブルックナーの天才が最も重しから自由になりえた瞬間ゆえに生み出されえた彼の可能性のありえたもう1つの姿が奇跡的に刻まれた曲だったのではなどという埒もない感慨に聴くたびに耽ってしまう始末です。
 こんな5番がいかに当時の音楽界における時代の好みからかけ離れていたかを逆説的に示しているのが、ブルックナーが預かり知らぬシャルク兄弟による改訂版(通称シャルク版)です。なぜか改訂版による録音ばかり遺したクナッパーツブッシュの録音で有名なこの版はバロック的な形式の安定性より単なる繰り返しを嫌いラプソディックな感興の迸りをより重んじた後期ロマン趣味との乖離の大きさがそのまま形になったようなものであり、なぜ当時ブルックナーがなかなか認められなかったのかを実感させてくれる点でこれ以上のものはないとさえいいたくなる遺産です。そんな5番も含めた6番までの初期から中期の交響曲は、3番を例外とする全てがほぼ等しい大きな規模の両端楽章がもたらす無類の安定感という最大の特徴が共通していて、7番以後の3曲の中では未完となってしまった9番が結果的に同様の3楽章形式になってしまったにせよ、膨大な量が遺された終楽章の草稿からもそれがブルックナー自身の意とするところでなかったのは確かなわけですから、そこまでの様式の完成形である6番と英雄交響曲そっくりな後半楽章2曲をまとめてやっと第1楽章や第2楽章に匹敵しうる長さになるという、当時人気の曲種であった協奏曲に近似した構成に踏み込んだ7番との断層の大きさにこそ作風の転換を見るべきではないだろうかと愚考する次第です。
 最晩年のブルックナーは「英雄」を思わせる7番に続く8番でスケルツォを初めて第2楽章に配すると同時に7番とは逆に後半楽章が大規模になるという「合唱」そっくりな8番に進み、2楽章にスケルツォという形を保ったまま9番の作曲に取り組んだものの完成できないとわかったとき声楽曲「テ・デウム」を続けて演奏してほしいと漏らしたのでした。ベートーヴェンで不安定な心身を支えつつ作曲し続けた姿をかいま見る思いです。

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